埋めたくて、恋しくて ( No.9 ) |
- 日時: 2011/06/27 06:26
- 名前: 境 ID:BEWCtfhk
さらさらとした金髪が、無造作に掻き上げられる。上気した白い頬は、赤みを帯びている。その頬を、珠の汗がするりと流れていった。 こめかみから頬へ、そして細い顎を伝って、汗は地面に落ちていく。その軌跡を眺めている内、耳たぶに目が吸い寄せられた。所在なさげに、ぽつんと空いている小さな穴。いつの間にか、空いてしまっていた小さな穴。頭から浴びせられた水も、遠慮するようにその穴に近付くことはない。そこは、僕の知っている向出(むかいで)がいなくなってしまったところになった気がして、もう誰かが居座ってしまった跡の気がして、じん、と胸が痛くなる。 ――その空洞は、君が大切と思う人が、残していった跡なの? 「おう。ヤっちゃん、わりいわりい」 向出は、快活そうに笑みを浮かべて、僕の差し出していたタオルを受け取った。頭をぶるぶると振って、水気を散らす。そうして、わしゃわしゃと髪を拭う。今日の向出は妙に意気込んでいて、コートを縦横無尽に駆け回っていた。ピアスの穴に目がいった。ため息をついてしまいそうになる。向出がいつもと違うこと、そのことに僕は自然と気付いていたが、正直、気付きたくなんてなかった。 「どうしたの、それ。ピアス穴空けたんだ?」 「げげ。気付かれちまったか。へへ。まあ、その、ちょっとした出来心っつーか、お茶目っつーか、そんなトコ」 抜け抜けと話す向出に、つい目がとがってしまう。ピアスの穴を開けたことを咎めているのだと勘違いしたのだろう、向出は表情を緊張させた。 「や、もちろん、ピアスはガッコに付けて来てねえからよ。ヤっちゃん、ここはひとつ、目えつむっとけ」 「違う違う、そうじゃないよ。怒ってるんじゃなくて。先生とか顧問に見つかったら、説教食らうんじゃないかって、思っただけ」 「なんだい、そっちの心配だったか。ま、でも、普段は髪に隠れてるしさ、元々パッキンだし、説教は慣れてっから」 「ペア組んでる僕はどうなるの。向出が怒られるのは勝手だけど、とばっちりは御免だよ」 僕、、安手睦次(やすで むつじ)と向出百矢(むかいで ももや)は、バトミントン部のダブルスでペアを組んでいる間柄だ。といっても、消去法で最後に残った二人というだけで、能動的に組まれたペアではない。実力的にも、人徳的にも、落ちこぼれの二人というわけだ。もっとも、向出の方に欠けているのは、ほとんど全部人徳だったが。 「毎度毎度、世話焼かせてわりいな、ほんと。お詫びにっちゃあなんだが、これでも飲んどけ、飲んどけ」 そういってぱっと投げ渡されたのは、スポーツドリンクの入ったペットボトルだった。あたふたと受け取っている間に、向出は部室棟の方へとさっさと歩いて行ってしまう。 無理して作っていた笑顔が、すっと溶けた。 向出が髪を染めたときも、同じような気持ちになったことを思い出す。歯痒いような、悔しいような、寂しいような、どろどろとした想い。向出の髪を色を変えさせた原因が、自分でないことだけは明白で、それがとてつもなく悔しかったのだ。でも、どうして悔しいと思ったのか、そんな自分が、まるで判らなかった。 ぽっかりと空いたピアスの穴が、今は僕の心に浮いている。 ――誰が、君にその穴を空けさせたの? そう思うだけで、僕は、どんな表情も作れなくなってしまう。今の僕は、そのことを知っている。 ペットボトルのキャップを緩め、一息に飲み干していく。乾いた喉が潤されて、心地よかった。 ふと、視界の端に、僕の方を見ながらこれ見よがしに内緒話をしている同級生の部員の姿が目に入った。ほんの少しだけ、手が震えてしまう。微かに、ペットボトルの水面が揺れた。でも、それだけだった。以前のように、尻尾を巻いて逃げ出すこともなかった。堂々と、その場に立っていられた。 ――ねえ、僕が君の心に触れることは、できないの? 向出に出会ってから、手に入れたはずの僕の強さは、向出への想いの強さほど、どうやら強くはないようだ。
「なあ。なあなあ、なんかさ、臭くね?」 それは、誰もが口には出さないけれど、思っていた事実だったと思う。 入部当初から、僕は明らかに避けられていた。練習前後の柔軟体操のとき、同級生で僕と組んでくれる人はいなかった。たまに先輩が組んでくれても、二回目、声を掛けられることはなかった。 自覚のあることだったから、精一杯気にしないようにしていたし、気にしても仕方のないことだった。 隅っこでひとり、こそこそ頑張っていられれば、それでよかったのだ。 「おお、ドブ臭いていうか? 誰か漏らしたんじゃね」 僕が急いで部室で着替えているところに、運悪く同級生のそいつらは帰ってきたのだった。慌てて制服のシャツのボタンを締めていったのだけど、焦ってしまって、指先が汗で滑ってしまって、思うようにならなかった。 「換気しないとなあ。誰かさんの臭いが服に付いちまったら、ぜってー洗っても落ちないもんな」 自然と縮まった僕の背中に、げらげら笑う声がぶつけられた。涙が溢れ出してきた。でも、泣いたりしたら、余計笑いものにされると思った。だから、僕は声を押し殺して、脱いだ衣類を鞄に詰め込んだ。そのときだ。 「お前ら、うぜえんだよ」 向出だった。当時は黒髪だったが、素行と態度の悪さが災いして、校内では悪い意味で有名な存在だった。もちろん、面識などなく、話したこともない。何回か見かけただけの僕にとっては、怖そうな人だ、という印象しかなかった。 「胸糞わりい」 吐き捨てるような、攻撃的な口調だった。向出は嫌味をいっていた二人の同級生を一瞥すると、自分のロッカーの前まで来て、悠々と着替え始めた。同級生は二人とも、顔面蒼白だった。話題を転じることもできず、目配せしながら黙々と着替えるのがやっとだった。そうして、着替えおわると、そそくさと部室を去っていった。 それは、僕に垂らされた、くもの糸であるように思えた。 だというのに、僕はといえば、ちらちらと向出を盗み見ながら、制服のネクタイを結んだり、解いたりしていた。着替え終わった向出は、ロッカーを閉めると、真っ直ぐこちらを見てきた。素早く目を逸らした僕はというと、制服のボタンで取れているところはないか、無駄な確認を始めていた。 「何だよ。何か用?」 びくっと指先が震えた。怖かった。といっても向出のことが怖かったのではない。折角助けてもらえたというのに、今より嫌われてしまうかもしれない、そのことに脅えたのだ。 「……ネクタイ」 「あ?」 「緩めすぎて、スカーフみたいだなって」 束の間、向出はきょとんとした顔をしていたが、顔を俯けてネクタイを見て、僕の顔を見て、またネクタイを見て、とうとう笑い出した。 「ぶははは! たしかに、これじゃあ、ネクタイっつーよーな代物じゃねーわな。まったくもってその通りだ。ナイス突っ込み、サンキュ」 向出は緩めすぎたネクタイを少しだけ締めた。鏡で確認をすると、そんじゃお先、と言い残して、部室を出て行った。 なんだ、そんな周りがいうほど悪い奴でもなかったんだな、というか、いい奴だったのか、あいつって。と、そのとき僕は少しばかり感動したのだった。 それから間もなく、ダブルスのペアを向出とペアを組むことになったのだ。サーブの下手な向出と、サーブだけは上手い僕との組み合わせは、表向き、戦略上の利点から、という理由だった。しかし、厄介者同士の捨てペアとして組むことになったというのは、誰の目にも明らかだった。 最初こそ、柔軟体操やストレッチで身体を密着させるとき、体臭のことをいわれやしないかと、内心ドキドキしていたのだが、「身体が硬い」と笑われたことがあっただけだった。 向出とそれなりに打ち解けることができたのは、懐かしのアニメーション、『純粋魔法幼女結晶アカンサス』に出てくる必殺技、ガンダーラ・トルネードのお陰だった。ひねりを加えた向出のスマッシュを見た僕が思わず「ガンダーラトルネードみたいだ」と呟いて、「ヤっちゃんもアカンサス知ってんのかよ! なっつかしいねえ」と向出があっさり同調して、アカンサス話で盛り上がった。 向出が破天荒の代名詞だということを頭で理解していたつもりだったが、突然金髪に染めて来たときには、驚きもし、呆れもした。そして、妙にドキドキもして、絶句した。似合ってるなあ、という気持ちが強くて、どうにも言葉にならなかったのだ。 「どうよどうよ。ヤっちゃん、これで俺もなかなか、イケてるだろ?」 僕がうんともううんともああともイケてるとも言いかねて見惚れてる内に、顧問に見つかった向出は大目玉をくらっていた。どうやら、担任から既に話を聞いていたらしい、非常にねちねちとした口調だった。そのとき、僕は胸に鈍い痛みを感じていた。ペアである向出が怒られているからだ、単にそれだけのことなのだ、と。止まない鼓動に、言い聞かせていたのだった。 向出が、女と付き合っているらしい、との噂が部に広まったのは、それからすぐのことだった。
キャラメルミルク色に焦げた空が、ほろ苦い色彩で、暮れていこうとしていた。糸を引くようにかすんだ雲の群れは、今にも黄昏に飲み込まれてしまいそうな、まだらの小島となって、ふわふわと浮かんでいた。 クールダウンを終えた僕は部室棟に向かって歩いていた。練習を終えて、部室棟に辿り着くまでの、このわずかな時間が、僕は好きだった。心地よい疲労感とともに、さやかな風、背筋がぶるりと震えるような景色が、いつもここに訪れるのだ。 センチメンタルな気分のとき、美しすぎる空というのは、毒にしかならない、と思う。心をすべて奪い去られてしまうような気がするから。自分がこの場所に、しっかりと立てていないような気がするから。空が兆してくれる美しさはきっと、無条件の優しさに他ならないのだ。 ――そのピアスってさ、彼女からの贈り物なの? さりげなく笑いながら、からかうように笑いながら、そう問うことができたなら、ポンと背中を叩くようにして、そう問うことができたなら、どれだけ楽になれるだろう。 質問の重みは、それを出す側にしか決められない。出される側の重みは、それをどう受け取るかで決められる。渡されていくそのときに起こる、問いの一瞬の無重力。果てしなく自由で、それでも、それは苦しいに違いないのだ。 逆光が、校庭を染め上げている。伸びた影たちが、向きだけはそのままに、夕焼けの中を走り回っている。影の形は、細長くなったり、横に膨れたり、様々に変化していた。 しかしその中に、ぼうと伸びているだけの影が、ふたつあった。その影の濃さに、吸いこまれるようにして、目線を上げた。校庭の隅にぴいんと伸びた影がふたつ。その内のひとつが示している背中は、向出百矢に違いなかった。 僕は、眩しさに目を細めた。向出の目の前にいる人物は、どうやら、陸上部のマネージャーであるらしかった。マネージャーの彼女の、首から上だけが、忙しなく動いていた。視点が定まらない、というより、努めて、彼女は眼前の向出と目を合わせないようにしていというる風に、僕には思えた。 向出が差し伸べた手を、彼女は振り払った。一瞬だけ、ふたつの影が繋がった。彼女は向出に背を向けて、それきりだった。微動だにしなかった。 向出はしばらくその場にうなだれていた。やがて、向けられた彼女の背中に、自分の背中を向けた。一度だけそっと振り返ると、ゆっくりと歩み出していた。当然ながら、その方向をじっと見ていた僕と、すぐに目が合った。向出は、困ったように頭を掻いた。しかし、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。 「あえなく撃沈さ。渾身のスマッシュを、ネットの真上で容赦なく叩き落とされた気分だ」 そういって、向出は笑った。痛々しい笑顔に思えた。その表情にいつものふてぶてしさはなく、静けさだけ、ひっそりと浮かんでいた。無理矢理笑っているようにも、泣き笑いの顔のようにも、僕には思えた。 「その、さ。ピアスの穴だけど、彼女のために空けたの?」 「近付きたかったんだ。少しでも。それだけだ」 それ以上、向出は何も言わなかった。肩を少しだけ竦めると、真っ直ぐに空を見上げた。つられて、僕も空を見上げていた。センチメンタルを際立たせる、光が滲むような空が、広がっていた。 向出の想いが、叶わなかったこと。その喜びと悲しみが、もうもうと渦を巻いていた。それは覗き込めばもう戻れることのない速さで、ぐるぐると回り続けていた。その渦の中心にいるのが、紛れもない僕であることを、僕は知っていた。ああ、そうなのだ。向出にずっと憧れていた、僕がいた。向出を好きな僕も、ずっとそこにいたのだ。 渡す重みと、渡される重み。問いの一瞬の無重力。それでも、確かめなければ、前に進むことはできない。そうでなくては、自分の気持ちが、きっと知らないどこかにまで、旅立ってしまうから。 「……僕も。空けて、みようかな。ピアスの穴」 「ナイス、フォロー。サンキュな」 微かに、その声が、震えていた。 君の耳たぶに、ぽつんと空いている小さな穴を思う。そこにいた誰かは、もうそこに留まることはない。それは、不在の証なのだろう。だからこそ、僕は君の空白を埋めたくて、恋しくて。すぐ側で、ともに夕空を見上げ続けている。
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遅刻すいませんごめんなさいごめんなさい。 5000文字とちょっとです。4、5時間かかってしまった。 そして中二病がひどくてごめんさいごめんなさい。
誤字発見したので修正しました。 しかもお題を誤字ってしまいました。ごめんなさいごめんなさい。
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