1941年、ドナウエッシンゲンにて ( No.6 ) |
- 日時: 2013/06/08 20:31
- 名前: Φ ID:H0823gFE
ベルリンからミュンヘンまでを鉄道で移動した後、軍用車(フォルクスワーゲン)を借り、クルツの運転で大使館から五百キロ離れた小さな村までやってきた。 黒い森(シュヴァルツヴァルト)の底を流れる広大な青色を背にして、 クルツは両腕をいっぱいに広げる。 「どうだ、イシカワ大尉。ここが俺の生まれ故郷さ。こんな素晴らしい風景が日本(ヤーパン)にもあるかい」 と笑みを浮かべるクルツ。ナチス親衛隊(SS)の黒い制服は、鬱蒼とした針葉樹林の中にあっても目立つ。 私は草の上に腰を降ろして首を横に振った。 「土地が山がちだから、自然と荒々しい急流が多い。このように女性的な川は、日本では珍しいよ」 「女性的か。確かにドナウは俺にとって母のような川だ。ここで生まれ、ここで育てられた」 誇らしげなクルツを尻目に、私は頭陀袋から取り出した群青の瓶を日光にかざす。目前で揺れる水面を瓶と見比べていると、クルツが疑問符を頭に浮かべて覗きこんだ。 「それはなんだ。砂利のようだが」 「私の名前に入っている漢字の意味を教えたことがあるだろう。覚えているか」 「石(シュタイン)の川(フルス)か」 「そう。それを今から作る」 膝の上に木板を載せ、そこに和紙を広げた。傍らに置いた小皿に瓶を傾け、岩絵具を一匙分ほど取り出す。膠と水を混ぜ、中指で練る。袖を捲った右腕に筆を取り、鼬の毛先に色を含ませた。目蓋を下ろし、頭の中に風景を思い描く。次に目を開いたとき、筆が和紙の上を稲妻のように走った。腕が左右するたび、無の世界に瑠璃色の流れが一筋二筋と湧き出てくる。 クルツは目を丸くした。 「見事なものだ。達者なのは武芸ばかりではないのだな」 大使館で戦勝祝賀会が開かれたときの話だ。中庭で見世物をやることになり、独逸からはクルツが出てヴァイオリンの演奏を、日本からは私が出て居合の演武を披露した。実戦的でない派手な技を幾つか見せただけなのだが、これが案外評判がよかった。 「それを言うなら、きみのモーツァルトこそ見事だったよ。あれほど端正に力強く弾ける人間は日本にいなかった。感動したよ。総統だって聞き惚れていたじゃないか」 「よしてくれ」とクルツは言う。「私の腕では、党に取り入る道具にするのが精一杯だ。本当に上手い人間なら、今頃ウィーンの劇場にいる」 「戦争がなければ、そうしていたんじゃないのか。戦争という状況が、きみを軍人に駆り立てただけだ。私だって、故郷から遠く海を隔てた国の駐在武官でいるよりも、ただこうして自然の中にいて絵を描いているほうが性に合っている」 「そうかもしれないな」 クルツは私の隣で草むらに寝そベった。 「そのときは俺は音楽家で、君は画家か。だが、こうして二人の軍人が出会うこともなかっただろう」 横になったクルツは眠るように黙った。もの寂しげなカッコウの鳴き声が林の間に響き渡る。 私は水筒に川の水を汲み、筆を洗った。緑青を入れた小皿に筆先を浸し、まだ川しかない世界に木々を生やす作業に取りかかりはじめた。 「技術供与の件はどうだ」 クルツは目を閉じたまま答える。 「陸軍兵器局(HWA)の技術者たちは乗り気だが、党の連中が首を縦に振らん」 「視察団が来るのは二週間後だ。なんとかしてくれないか」 「俺だってなんとかしたい。だが奴ら、『未熟な日本軍に技術を与えれば、連合国にまで情報が漏れる恐れがある』と言って聞かない。口では同盟といっても、黄色人種のことを見下している」 黄土の小皿を使い、川の畔に佇む人物を象っていく。 「特務機関から、もう間もなくB29による本土空襲が始まるという情報が入っている。なんとしてもその前に、レーダーによる防空整備を進めなければならん」 「わかっている。技術者たちが言うには、ヴュルツブルク(地対空レーダー)を潜水艦で輸送することは可能だそうだ。だが、知っての通り、欧州近海は英国海軍の哨戒網が厚い」 「鹵獲されそうになったら、自沈するまでだ。日本軍人はきみらに比べたら未熟だろうが、それくらいの覚悟は持っている」 「そうか」クルツは上体を起こした。「その確約があれば、党の連中も折れるだろう」 「ありがとう、クルツ」 ドナウの風景の写しは、もう仕上がりつつあった。ただひとつ現実と違うのは、私たちの代わりにひとりの女性が佇んでいる点だ。筆が和紙の上に艶紅を落とすたび、絵の世界に生気が満ちていく。 「空襲が始まったら、まず狙われるのはトーキョーだろうな。きみのフィアンセもトーキョーにいるのだろう。大丈夫なのか」 「広島の方へ疎開したよ。今は呉の工場に勤めている」 クルツは肩越しに、絵の中の娘をまじまじと見た。 「妖精(ニクシー)のように美しい乙女だ」 「この戦争が終わったら結婚する。前も言ったかな」 「戦争が終わる、か」クルツは立ち上がり、小さな欠伸をした。「正直な気持ちを聞かせて欲しい。この戦争はどうなると思う」 「負けるさ。彼我で圧倒的な物量の差がある。負けるのが道理だ」 私は絵の仕上がりを確かめる。 きっと今後、この絵を見るたび、ドナウ川のせせらぎや、カッコウのさえずり、そしてクルツと交わした言葉の数々を思い出すことだろう。 「だが、道理を引っ込ませて無理を押し通すのが私たちの仕事だよ」 絵が乾き終わるのを待ち、画材と一緒に頭陀袋へ収めた。ふふ、とクルツは笑う。 「その通りだ。さて、近くに行きつけだった店があるんだ。そこの白ビール(ヴァイスビア)が最高に美味い。一杯どうだね」 「悪くない」 車に戻って運転を始めると、クルツはひとりで歌い始めた。 曲は『美しく青きドナウ』なのだが、歌詞は私が聞いたことのあるものとは異なっていた。彼曰く、初演で使われた歌詞なのだが、あまりに卑近的だったので評判が悪く、後ほどより高尚なものに改められたらしい。だが、初演の歌詞のほうが彼は気に入っているのだという。 私もその歌詞を教えてもらい、黒い森(シュヴァルツヴァルト)を走る車のなかでクルツと一緒に歌った。 ――今日の幸せは 二度とは来ない 喜びの薔薇も 色褪せるもの されば踊ろう 休まず踊ろう――
|
|