新たな扉 ( No.5 ) |
- 日時: 2011/06/25 22:04
- 名前: 脳舞 ID:.SsByWjc
楽しそうに笑っている彼女を見るために、僕はあまり居心地の良くない大学のカフェテリアへと足を運ぶ。そこはまさに充実した人生を謳歌し切っている類の人種の坩堝で、僕みたいに恋愛とは縁遠い人間がそこにいるとどうしても浮いてしまう。僕のいるべき場所は、地下にある第一食堂なのだろう。あそこは大学生活に飽きたり疲れたりした人種の空気がなんとなく漂っている。 それでも僕は勇気を奮い起こして、充実の真っただ中へと飛び込む。そして、出来るだけ目立たないように入口近くの席から視界の隅で彼女を捉えると、先週の講義のレジュメを読むフリをする。 ストローの刺さったカップをテーブルに静かに置いて、口元に手をやって笑う彼女の両隣には、よく一緒にいるところを見る女友達が二人座っている。どちらもかなり可愛いと思うけれど、彼女はそれよりも僕好みだ。 ずっと眺めていたかったけれど、ふいに三人は席を立ってしまった。思わず僕も立ち上がりそうになるのを堪えて、目だけでそれを追いかける。 ゆるくウェーブのかかった栗色の長い髪を暖かな空調に揺れさせて、彼女が僕のすぐ傍を通った。少し遅れて、ふわりと優しい香りが鼻先を掠める。他の二人の香りと混ざっていても、僕にはどれが彼女のものだかがわかる。声を掛け損ねる度に鼻をくすぐられてきたのだから。 暖房の効いたカフェテリアから冷たい秋の空の下へと出た三人は、それぞれが違う方向へと歩き出した。一人は教室のある棟へ、もう一人は図書館へ、そして彼女はキャンパスの出口へと。 ずっと待っていたチャンスが予告無しに訪れて、僕は慌てて後を追いかける。キャンパスを出てすぐのところで僕は彼女に追いついて、ずっと前から用意していたセリフを喉から絞り出した。それを聞いた彼女はきょとんとして僕の顔を覗き込んできた。 「キミって……たまに講義でボクと一緒になる子だよね? えーと、西洋史特講とか、キリスト教概論とかで」 「そ、そう。あとパンキョーの心理学とかも」 自分をボクと呼ぶ彼女は、そうだったかも、なんて呟いてまた僕の顔をまじまじと見つめる。その目線がわずかにだけれど下がっていることと、「子」なんて呼び方をしたことが僕のコンプレックスを刺激する。僕は恋愛をしてこなかったわけではなくて、そこに至るまでの過程が上手くいかなかったのだ。 「い、今からじゃ間に合わないかも知れないけれど、多分無理だろうけれど、牛乳だって魚だって……第一食堂で一番人気のアジフライ定食もしょっちゅう食べてるし、いやまあアレは一番安いからなんだけれど、そうじゃなくてきっともう少しくらいはなんとかなるから」 まくしたてる僕を見て、彼女はくすくすと笑い出した。それが一層僕の焦りに拍車を掛けた。 大学生の男だというのに、僕の身長は一五九センチしかない。彼女だって決して背が高いわけではないけれど、おそらく一六五センチくらいはある。僕が第一食堂の住人と化している一番の理由はそこだった。他にも女顔だとか、声が高めだとかも二番目以降に山ほどあるのだけれど。 「そんなこと気にしてるの?」 そう言った彼女の視線が僕の頭のてっぺんから爪先までを往復した。僕は苦笑いでそれをやり過ごして、何度目かの敗北に耐えようと身を固くした。 「ねえ、ちょっと付き合ってくれる?」 答えを待たずに彼女は僕の手を引いた。え、と思う間もなく、僕は彼女に連れられるままに歩き出すことになった。 彼女の言葉は、僕のなけなしの勇気への返事として受け取るべきなのだろうか。それとも、今この瞬間だけのことなのだろうか。そんな自問自答を繰り返しているうちに、いつの間にか僕らはとある雑居ビルへと辿り着き、地下へと続く階段を下りていた。 その先には赤く錆びた鉄扉があった。彼女がノブに手を掛けると、鈍く軋んで扉は開いた。 その中に広がる光景は、さながら衣料品の倉庫のようだった。もう少し好意的に言うならば、雑然とした古着屋のようでもあった。 何故こんなところに連れて来られたのか不思議に思っていると、彼女は僕を壁際の椅子に座らせて、 「少しここで待ってて」 そう言い残して、服の海の中へと消えて行った。 そして五分ほどして戻ってきた彼女の両手には、何やら服や靴が抱えられていた。 「試着室はそっち。店の人には話通して来たから」 肩で僕を試着室へとぐいぐい押しやりながら、彼女はそんなことを言った。 「え、え?」 戸惑う僕を試着室の中に押し込んで、彼女は抱えていたものをどさりと僕に手渡した。 「ブーツと、それに合わせた上下の服。支払いは心配しなくていいよ。ボクのワガママだからさ」 にこりと笑って、彼女はカーテンをさっと閉めた。急に一人にされて、僕は途方に暮れてしまう。整理すると、背が低いことを気にする僕のために高さのあるブーツと、それに合わせてコーディネートされた服を用意してくれた、ということなのだろうか。それを身につければ僕は彼女と並んで歩くのに恥ずかしくないだけの男になれるということなのだろうか。少なくとも、彼女の方はそう思ってくれると考えていいのだろうか。 「どう? ひょっとしてサイズ合わない?」 カーテンの向こう側から彼女の声が聞こえる。 「あ、ごめん。ちょっともたついてて」 考え事を無理矢理中断して、僕は来ていた服を脱ぎ始めた。そして渡された服に手を掛けて、そのままたっぷり十秒ほどは凍りついた。 「……え?」 疑問と困惑でほとんどを占めた僕の声に、彼女が反応した。 「あ、終わった? それじゃ、開けるよー」 体の硬直が解けないまま、僕は服と握手するような体勢で彼女の前に姿を見せることになった。 パンツだけの格好で。 「うわあ!」 情けない声を上げた僕とは対照的に、彼女は落ち着き払って訊いてきた。 「もしかして着方がわからない? 複雑なものは避けたつもりだったんだけどなあ」 「そ、そうじゃなくて! これ、どこからどう見ても女物じゃないか!」 思わずカーテンを巻きつけるようにして体を隠しながら、僕はそう言った。 「そうだよ?」 事もなげに彼女は答えた。 「あの、僕は確かに背が低いけれど、男……なんだけど。勘違いしてないよね?」 僕のおそるおそるの確認に、彼女は先ほどと同じように、 「うん、知ってる」 当たり前のように答えた。ますます混乱する僕に、彼女は突然何かに思い当たったかのように目を見開いて、口に手を当てて声を上げた。 「ごめん、言ってなかったっけ。ボク、女装をしている男の子しか愛せない性質なんだよね」 「……はい?」 「うーんと、つまりボクと付き合いたいのなら、それを着て欲しいなあって。そのブーツ、結構底が厚いからボクと同じくらいの身長になると思うし、お互いに利害が一致するでしょ?」 本当に一瞬だけ納得しかけて、僕は思いっきり首を横に振った。 「いやいやいや、だからって女装なんて!」 「……そう? 残念だなあ……」 悲しげに目を伏せる彼女の顔はとてつもない破壊力を秘めていた。今にも泣き出してしまいそうなこの顔を前にして、さらに否定を重ねられる男がいるだろうか。 いるとすれば、それはゲイかド畜生だ。
「わあ、似合う似合う! ちょっと嫉妬しちゃうかも」 胸の前で手を軽く合わせ、彼女はふんわりと柔らかな笑顔を浮かべた。僕の方はといえば、顔が引きつっているのが鏡を見なくてもわかるほどだ。 カーテンを隔てて僕が悪戦苦闘している間に彼女がしてくれた説明によると、白地に淡いピンクの花柄のチュールエンブレースワンピに、アッシュ系ブラウンのモヘアジャガードカーディガン、それと同系色のロングレザーブーツに黒のハイサイソックス……といった装いらしい。その辺りまではまだ理解できる。 でも、見えない部分にまで彼女はこだわった。 「やるなら徹底的にね」 下着までもが女物にされていた。しかも、ご丁寧にその下に着けるサポーターまでが用意されていた。両脚の間に下がる僕自身を包み込んで目立たなくさせる、伸縮性に富んだ素材が締め付けてくるような感覚に、僕は常に意識のどこかでその辺りを気にしてしまう。 「はいはい、次はこっちこっち」 もぞもぞと足に手をやる僕に、彼女は椅子をぽんぽんと叩きながら手招きをしてくる。促されるままに座った僕の前には鏡と、どう使うのかよくわからないものがずらりと並んでいた。 「せっかくだから、メイクもしちゃおうか」 彼女は四角く平べったい開閉式の小物に手を伸ばしながら、歌交じりに僕の前髪をヘアゴムで纏め始めた。僕には拒否権すらないらしい。 「本当はファンデーションからやるんだけど……キミ、びっくりするくらいお肌が化粧荒れしてないから必要ないかな」 それは当たり前だと思うのだけれど、彼女は心底羨ましそうにそう言った。 「若いうちからファンデは良くないからね。ボクも滅多に使わないし。はい、まずはアイシャドウから」 小さなブラシのようなものになにやら粉をつけて、彼女は僕の目にそれを近づけた。 「あー、ダメダメ。慣れるまでは怖いかも知れないけど、目はちゃんと開いてて。まぶたにフェイスパウダー乗せるからね」 彼女の視線がまともに僕の視線とぶつかる。ブラシを動かす彼女の真剣な顔がぐっと近づいてきて、胸のドキドキが止まらない。思わず視線を外しかけて、その度に僕は、 「ほら、まぶたが動くと下地がズレちゃうよ。ホラームービーみたいなメイクになっちゃうから」 と、軽く怒られてしまう。 「目の際に乗せるのはブラウン系がいいかなー。ナチュラルな方が似合いそうだし。その上から淡いブラウンをブラシでぼかして重ねようか」 彼女は楽しそうにそう訊いてくるけれど、僕にはさっぱりわからない。ほとんどオモチャにされているような気分だ。 「キミの場合、目は大きい方がもっと可愛く見えると思うんだけど、アイラインはどうする? 目ギリギリのところにペンシルで太めの線を引いて……ううん、思い切って目の粘膜に直接リキッドアイライナー入れちゃおうか」 やっぱりわからない。けれど、もの凄く怖いことを言われてる気がする。そんな僕の不安が顔に出ていたようで、 「大丈夫だいじょうぶ。まつ毛の間をちょっと埋めるだけだから。あ、絶対にまばたきはしないでね。半目のままで我慢だよ」 彼女はそう言うけれど、それは大丈夫なのか大丈夫じゃないのかも僕には全然わからない。慣れないまぶたの動きに目が攣るんじゃないかという気がする。 「はい、あとは下まぶたにも少しライン引いて、間をペンシルでちょいちょいっと。ほら、もう終わった。我慢できたでしょ?」 鏡を見るように促されて、そこに映った人物にびっくりした。まるで自分ではないみたいだ。ぱっちりとした目の、八割がた女の子に見える誰かがいる。 「ビューラーでまつ毛をカールさせるよ。動くとお肉を挟んだりして地味に痛いからじっとしててね。それが終わったらマスカラでボリュームアップして」 ハサミのような持ち手の変な道具で、彼女は数回に分けて僕のまつ毛を上向きに整えていく。そしてマスカラを塗ってさらに長く見えるように演出をした。 「アイメイクはこれくらいでOKかな。口紅もナチュラルで統一したいから、淡いさくら色に透明のグロスでカバーすれば良いよね」 喋りながら、彼女は手際良く僕の唇を飾り立てていく。そして僕の顔を覗き込みながら何事か少し悩み始めた。 「……ねえ、眉は剃っちゃダメ?」 「ダメダメ! 他はともかく、それは元に戻らないし!」 「えー、その方が綺麗に整えられるのに。まあ、ウィッグで隠れちゃうから……あ、別にウィッグなくてもイケそうだね。それくらいの長さの女の子なら、その辺にいないこともないし」 彼女はにっこり笑いながら僕から少し離れると、じっと見つめてから、 「何かちょっともの足りないなあ……。アクセントが欲しいかも。ピアスとかどう?」 「え、耳に穴開けるのなんか嫌だって!」 「開けないよー? マグネットのやつなら挟むだけだから」 と、いつの間にか取り出した赤いピアスを僕の耳につけた。 「はい、秋色モテカワ女子のかんせーい! とっても女子力高そー!」 馬鹿にされているのか褒められているのか理解に苦しむ表現をして、彼女は僕の口元に軽く握ったこぶしを近づけてきた。 「え、なに?」 「街で見つけた今日のモテカワ女子はこの娘でーす! はい、お名前は?」 どうやらインタビューなにかのつもりらしい。いまいちノリ切れないテンションのまま、それでも僕は答えてあげようとして気がついた。 「……あれ、そう言えば本当に名前も言ってなかった気がする。涼ちゃんだよね?」 「……あ。そういえば訊いてなかったかも。あれ? 私の名前は知ってるの?」 「うん、友達が名前を呼んでるのを聞いたから、下の方だけはね。僕は皆川優貴(みながわゆうき)っていうんだけど」 「ボクは若王子涼(わかおうじりょう)。ちゃんなんて付けなくていいから、涼って呼んでよ」 とびきりの笑顔でそう言った彼女に、僕は「涼」と呼びかけるだけの単純な作業を一度失敗した。こんな可愛い女の子をそう呼ぶことになるなんて、今までの人生にはなかったことだから変に緊張する。 「ところでさ、ユウキって名前は本名?」 「そうだけど? どうして?」 怪訝な顔をした僕に、彼女は面白がるように言う。 「女の子でも通用しそうな名前だなあって」 ……そこは放っといて欲しい。自覚はあるのだから。
擦れ違う女の子たちが笑っているのは、何か楽しい話をしているからなのか、それとも僕が男だということに気づいているからなのか。一歩一歩を踏み出す度に、僕の心臓は爆発してしまいそうに強く跳ね上がる。 「ほら、もっと堂々としてなきゃ返って目立っちゃうよ? 歩き方はすごく良いみたいだけど」 薄いワンピースと小さな下着の頼りなさに、僕は知らず知らずの内に内股で歩いてしまっている。隣には目線の高さが同じになった――高さが変わったのは僕の方だけれど――涼がいる。 「だって、この格好で外を歩こうだなんて信じられないことを言うから……」 小声で呟く僕に、彼女はけらけら笑いながら、 「カワイイ女の子にしか見えないよ。もっと自信持ちなってば」 果たしてその自信は持っちゃって良いものかどうか、僕には答えが出せそうにない。 「どこかでお茶しようよ。大学のカフェテリアとか行かない?」 何気なく悪魔の提案をする彼女に、僕は思わず素になって大声を上げかけた。 「そっ……んなところにこの格好で行って、知り合いに会ったらどうするんだよ!」 「ユウキくん、言葉使い言葉使い。まあ、最近は女の子でも言葉荒いけどねー」 「そっちこそ『くん』で呼ばないでよ……。余計に恥ずかしいから……」 頬のあたりが熱くなるのを感じながら、僕は少し早足になって道を行く。もちろん、大学からもその最寄駅からも離れた方向へと。そうすれば、知り合いに遭遇する可能性はぐんと低くなるはずだ。 「こっちの方に良いお店があるから、早く行こ行こ」 本当はそんなものは知らないけれど、危険から逃れたい一心で涼の手を引く。さりげなく喫茶店がないかを目の端で探しながらなのと、慣れない底の厚いブーツのせいで歩きにくいったらない。 五分ほど歩いていく内に、首尾良く綺麗なオープンカフェを見つけた。僕は時々ここに来ているかのように振る舞う。 「ここのは美味しいんだよ」 具体的に何が美味しいのかを言えなかった時点で、バレバレな気はする。現に、僕のすぐ後ろを歩く涼は忍び笑いを漏らしていた。僕は聞こえないフリで、涼の手を引いて店内に入ろうとする。 「ユウキ、せっかくお天気良いんだし、中より外の席にしようよ」 「もう秋も深いし、寒いからそれはやめようよ」 もっともらしいことを言いながら、僕は後ろに回って強引に涼の背中を押す。道行く知り合いに偶然見つかる可能性はできるだけ減らしたかった。涼は少し不満そうだったけれど、 「あー! 秋限定スイーツだって!」 目敏く見つけたメニューに気を引かれて、すっかり席のことなんか忘れている。二人で向い合せに座って、僕はほっと一息吐いた。 「どれにしようかなー。あ、このイチジクのケーキなんて美味しそう。これとアプリコットティー下さーい」 いつの間にか注文を取りに来ていたウェイトレスにそう告げて、僕の方を促す。 「ええと、ぼ……じゃなかった、私はブラックコーヒーを」 そこまで言いかけたところで、涼が身を乗り出して僕の耳元でそっと囁いた。 「ユウキ、忘れてる忘れてる。女の子は甘いものが好きなものだよ。とろけるように甘いものがね」 柔らかな吐息が耳にかかり、僕の鼓動が速くなる。離れていった涼の髪からは、また優しげな香りだけが僕の鼻先に残った。体中の力がゆっくりと抜けていく。 「マロンケーキとアップルシナモンティーなんてどう? それとも紅茶はさっぱりしてた方が良い? それだったらローズティーとかの方が良いかもだけど」 言葉が喉につかえて出て来ない僕は、こくこくと頷くことしかできない。 「じゃあ、この娘はマロンケーキとローズティーで」 頭を下げて引っ込んでいくウェイトレスを見送って、涼は笑いかけてきた。 「ユウキ、注文がおじさんだよ。そういうところだけ気をつければ、見た目じゃ絶対にわからないって」 改めて言われると余計に自分の格好を気にしてしまう。忘れかけていた下腹部の違和感がかすかにぶり返してくる。 ケーキと紅茶が運ばれてきて、ひと口味わった涼は幸せそうな表情を浮かべた。 「おいしーい!」 僕の方もマロンケーキを口に運んで、その甘さを楽しんだ。でも、ひとつ全部を食べ切れるかどうかは難しそうな気がする。美味しいけれど、女の子はこんなに甘いものをどうしてたくさん食べられるのか不思議で仕方ない。 「ユウキ、あーん」 涼の声に顔を上げると、イチジクのケーキを乗せたユウキのフォークが僕の目の前で揺れている。 「え?」 「口開けて。女の子なら普通にやることだよ」 それを枕詞にされると、どんなことでも流されてしまいそうな自分が怖い。それでも結局、僕はユウキにされるがままに口を開け、逆にマロンケーキをユウキの口へと持っていった。 「うん、そっちのも美味しいねー」 笑顔でいっぱいの涼を見て、僕は今さらながらとんでもないことに気がついた。 (か、間接キス? それもお互いに!) 顔が紅潮する僕を見て、涼は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「ごめんね、ボクのワガママにつき合せちゃって。やっぱり女の子の格好って恥ずかしい?」 「そ、そうじゃなくて……。いやその、い、言われると返って恥ずかしいのは確かだけど」 しどろもどろの僕に、涼はケーキをフォークで突きながら続けた。 「さっきも言ったけれど、ボクってどうしても女の子の格好の男の子しか愛せなくてさ。だからボクってまともな恋愛経験もないし、かと言って、そこら辺にそんな格好の男の子なんか滅多にいないし。それって人を愛してるんじゃなくて、服に恋してるんじゃないかってずっと悩んでて」 「そ、そうなんだ」 「ボクのことを好きって言ってくれる男の子はそれなりにいたけどさ。でも女装をしてもらうわけにはいかないじゃない? 嫌がられるだろうし、そもそもみんな似合いそうにないかったし」 伏し目がちだった目線を一瞬だけ僕の顔に向けて、今度はティーカップにそれを逃がしながら涼は、 「でもね、ユウキが声を掛けてきてくれた時にこの人だって思ったの。華奢でちっちゃくて女の子っぽい顔で、声も高くて……」 コンプレックスをフルコースで刺激してきた涼の言葉に、僕はこみ上げてきた諸々をローズティーで飲み下した。鼻から抜けてゆく香りを味わうこともできず、僕はひとたまりもなく噎せ返った。 「あ、ごめん。変なこと言っちゃったよね、ボク」 懐から取り出したハンカチでそっと僕の口を拭いながら、涼は伝票を手に取って席を立った。 「今日はそろそろ帰ろうか。初めての経験だから、気疲れしたでしょ」 「あ、ありがとう。帰るのは良いけど、ぼ……私が払うから」 涼が握っている伝票に手を伸ばしたのだけれど、それはあっさりとかわされた。 「ダーメ。今のユウキは女の子なんだから、せめてワリカンじゃないと」 本当にぴったり半分ずつ代金を払って、僕らと涼は店を出た。来た道を戻りながら、涼がいたずらっぽく笑って言う。 「そのまま家まで帰る?」 「……勘弁して。家族が卒倒するから」 考えただけで眩暈がした。涼はくすくす笑いながら、 「それじゃ、さっきの店に戻ろうか。服はクリーニングして保管してくれるから心配しないでもいいよ」 「そんなことまでしてくれるの?」 「そう。あそこはそういう人のためのお店。ボクの名前を出せば、ユウキひとりでも女の子になれるからね。メイクは覚えなきゃダメかも知れないけど」 「いや、ひとりで女の子の格好してどうしろと……」 涼は困惑顔の僕に少し肩を寄せて、片目を瞑りながらささやいた。 「あ、そうだ。明後日、デートしようよ」 僕の想いは受け入れられたと思って良いのだろうか。断る理由がどこに存在するというのだろう。 「うん、日曜日だね。もちろん良いよ」 できるだけ平静を装ったけれど、鼻息が荒くなってしまったのは隠しようがなかった。 「わあ、良かった。それじゃ、待ち合わせは大学近くの駅でいい?」 僕が頷くと、涼はびっくりするような言葉を続けてきた。 「時間は朝の六時ね。遅れないでよ」 「えっ、なんでそんなに早いの?」 今日は一日驚きっぱなしで、僕の頭は振り回され続けた。だからなのか、僕はさっきの涼の言葉に隠れた違和感の正体に気づくことができなかったのだ。
「ユウキ、ボクより早く来てたの? まだ五時半くらいなのに……わっ、ちょっとすごいクマだよ? 大丈夫?」 「なんとかね……」 なにやら大荷物を抱えた涼は僕を見つけるなり、驚いた声を上げた。僕は興奮のせいで一睡もしないまま夜明かしをしてしまったせいで、ひどい顔をしていた。 休日に女の子と出かけるなんて、ドラマの中か都市伝説みたいなものだとばかり思っていて、自分がそんな立場になるなんていまだに信じられないくらいなのだから。 「うーん。まあ、ファンデで隠せるよね、きっと」 小声で呟いた涼に手を引かれ、僕たちはまだひと気のあまりない街中を歩いていく。また女装をさせられるのかと思ったけれど、この前の店とは方向が違っていた。 「今日はどこに行くつもりなの?」 男のセリフじゃないなあなんて思いながら、僕は涼に尋ねたけれど、 「それはついてからのお楽しみ」 楽しそうに笑いながら、涼は大きなドラムバッグを反対の肩に掛け直してどんどん進んでいった。
連れて来られた先は、イベント会場として使われるホールだった。何度か側を通ったことがあるけれど、企業の就活合同説明会や地域物産展が開かれていた覚えがある。 「ユウキ、身分証明証持ってる?」 涼が受付を通る時にそんなことを言った。僕が学生証を探している間に涼も学生証を提示して、さっと通り抜けて僕を手招きする。 「涼、これは何かのイベントなの? 身分証がいるなんて変に厳重だけど……」 「そう。こっちが更衣室だから、早く早く」 その言葉にまさかプールや海を連想してしまうほど、僕の頭は眠ってはいなかった。嫌な予感がする。むしろ嫌な予感以外の何もない。 「急がないと間に合わないよ。ひと手間余計なメイクが必要だから」 クマのことを言っているのはわかる。でも、メイクをする理由がわからない。 「りょ、涼! 勝手に脱がすのはやめてよ!」 「時間がないんだってば」 更衣室に入るなり、涼が僕の服に手を掛けた。しばらくは抵抗していたけれど、パンツだけにされた辺りでもうどうでも良くなってきた。さすがにその先は自分ひとりでサポーターを装着して、その後は何を着せられているのかもわからないまま、着せ替え人形さながらに涼の思うがままにされた。 メイクまでが終わって、ようやく自分の全身を鏡で確認してみて、僕はあの時とはまた違った意味で凍りついた。どこかで見たことのある、でも何だったかが思い出せない格好だった。 しばらく鏡と睨めっこしていると、いつの間にか涼も着替えていた。メイクも素早く終えている。そして片足をくの字に曲げてもう一方だけで立ち、手に持ったステッキのようなものを掲げながら、 「魔法幼女シルキーバイオレット! あなたのハートをすみれ色になるまでお仕置きしちゃうんだからね!」 白いすみれの花を思わせるふわふわのドレスとピンクの長いウィッグを翻しながら、そんなことを言った。 「……思い出した。日曜の朝にやってる魔女っ娘アニメのキャラだ」 「せいかーい! それならユウキも自分の格好がなんだかわかるよね?」 高さのある三角帽を両手でぎゅっと被り直しながら、涼が微笑んだ。 「もしかして、そのアニメに一緒に出てくるキャラクターじゃ……」 「だいせいかーい! ユウキのは魔法幼女ポイズンバイオレット! 悪の組織を裏切り、シルキーとタッグを組んで絶対正義を貫く、無口で恥ずかしがり屋な娘なの!」 涼と似たようなデザインで淡い紫色のドレスに三角帽、青いショートのウィッグに、手に握らされているのは鎖の両端に刺のついた鉄球がついた武器。もちろんゴム製だけれど、どの辺りが魔法なのかはいまいちわからない。 「ああ、どうりで見たことがあるような……じゃなくって! なんで僕はこんな格好させられてるのさ!」 「そんな元気にしゃべるなんて、ポイズンのキャラじゃないよー。もっとシャイな娘なんだからー」 「もしかしてこれ、コスプレイベントなの!?」 「あ、心配しなくても写真撮影は禁止なイベントだから。ついでに女装男子限定」 さらりと衝撃的な告白をする涼に、僕は腰を抜かしかけてぺたりと座り込んでしまった。二日前のカフェからの帰り道で生まれた正体不明の違和感はこれだったのだ。 女装のための店を涼が知っていたのは、涼自身がそこの利用者だったからなのだ。 「りょ、涼って……その……」 「あ。その座り方、ポイズンっぽいよ。可愛い可愛い」 僕の言葉の続きは絶対にわかっているはずなのに、涼はわざと無視して僕に手を差し出した。つかまって引っ張られるように立ち上がると、そのままの勢いで僕は更衣室からホールへと連れて行かれた。 そこにはもう数十人の参加者がいて、全員がなんらかのコスプレをしていた。どこからどう見ても男丸出しの人間がほとんどだし、中には完全に開き直ってネタに走った筋肉隆々の女子高生キャラなんかもいたりする。せめて髭くらいは剃って欲しい。 そんなところに涼が現れたものだから、参加者の視線が一気にシルキーバイオレットに集まった。 「すげえ! 完全に女の子にしか見えない!」と、これは多分格闘ゲームの女剣士。 「魔法幼女シルキーバイオレットですぅ。再現率高いですぅ」と、イギリスっぽいメイド。 「隣にいる娘はポイズンバイオレットか。こっちも女の子……いや、男の娘だね」と、スカート姿の真っ白い軍服。 「ブルマは死んだ。殺された。そう思っていた時期が私にもありました。しかしどうでしょう! このポイズンは忠実に設定を守って、ドレスの下に茜色のブルマを履いているじゃないですか! リアルでは絶滅危惧種のブルマっ娘が、今ここに甦ったのです!」と、一九〇センチくらいありそうな、ポニーテールの和風女剣士……って、おい! 「ちょっ、ちょっとやめっ……あっ」 いつの間にかひょいと捲り上げられていたドレスの裾を押さえて叫ぼうとした僕の後ろに回った涼が、耳にふっと息を吹きかけた。力が抜けた僕は膝からその場に崩れ落ちてしまい、 「おおー、キャラを良くわかってる」 「男同士じゃセクハラにもなりゃしないしなあ」 「二次元よりも可愛い気がしてきた……いやでも、本当は男だしなあ……」 「シルキーバイオレットの方のキミはやっぱり設定通りスパッツ履いてるの?」 好き勝手な言葉が僕の頭上を飛び交っている。 「ポイズン、本当に可愛いよ」 まだ立ち上がれずにいる僕を、膝立ちになった涼がそっと抱きしめてきた。おおお、と獣臭い歓声が上がる。 「百合は美しいですなあ。いや、この場合BLになるんですかね」 「どっちでも可愛けりゃいいや」 口々にそんなことを言い出す他の参加者を黙らせたのは、ホールに響く放送だった。 『これから八時三十分より、魔法幼女ツインバイオレットのテレビ放送をスクリーンで上映致します。ご視聴される方々は、会場前方のステージ前にお集まりください。』 また獣臭い歓声が上がり、参加者の大半がそちらへ移動を始めた。 「ほら、ボクたちも行こう」 涼が立ち上がり、僕に手を差し伸べる。 「朝早かったのは、こういうことか……」 「そう、この格好でステージに上がって、OP曲に合わせて踊れば盛り上がるよ、きっと」 瞳をキラキラさせる涼に、僕は苦笑いで答える。 「踊りなんか知らないってば」 「大丈夫。ポイズンは恥ずかしがってずっと後ろでモジモジしてるだけだから。今のユウキならこれ以上ないくらいリアルにできるよ」 割と本気で嫌がる僕を涼がステージに引っ張り上げる辺りも、会場からはリアルな演技として大ウケした。
その後もいろいろと声を掛けてくる人を捌いているうちに、寝不足と羞恥の限界が祟った僕はまた座り込んでしまった。体が重い。 涼が僕の異変に気づいて、 「……大丈夫? もう会場出て、どこかで休もうか」 そう言ってくれたのは助かった。けれど、更衣室に向かいはしたものの着替える気力すら涌かない。 「ウィッグだけ外して、上からコート着ちゃえばわかんないよ。待ってて、今準備するから」 手際良く帰り支度をして、涼も上からコートを羽織って僕に肩を貸してくれた。 会場の外に出て少し歩いただけで息が切れた。座り込みそうになる僕を、突然涼がおぶって歩き出した。 「……涼、男がそんなことさせるなんてみっともないよ」 かすれ声で言ってみたけれど、 「ボクだって男なんだってば。背だってボクの方が高いし、良いから黙って背負われてなよ」 涼にそう言われて、それ以上抵抗することも出来ずに僕は目を閉じた。
目を覚ました僕の顔を、涼がじっと覗き込んできていた。 「あ、起きた? 顔色も悪くないし、もう大丈夫だとは思うけど……ごめんね、無理させちゃった」 「……気にしなくて良いよ。それより、膝枕なんかさせちゃって僕の方こそ悪いよ」 柔らかな涼の腿の感触を後頭部に感じながら、僕はゆっくりと体を起こした。 「ここは?」 辺りを見回して僕が尋ねると、涼はこう答えた。 「休憩できるところ。良かった、休憩時間が過ぎても目を覚まさなかったらどうしようかと思ってた」 その言葉から今いる場所を察した僕は、思わず飛び起きた。間髪を入れずに涼が僕に飛びついてきて、僕と涼とは縺れるようにベッドの上に倒れこむ。 「せっかく魔法幼女の格好のままなんだから、もう少しボクと触れ合っててよ」 涼はそう言いながら僕の上に跨るようになり、くるりと反対を向いた。ドレスの裾が僕の顔を覆い隠し、スパッツ越しの尻が口を塞ぐように軽くのしかかってくる。 「りょ、涼?」 「女装してる男の子しか愛せないし、ボク自身も女の格好をしてないとダメなんだ。そしてそれがコスプレだったとすれば、もう百点満点だね。つまり今がこれ以上ないくらいのシチュエーションだってことでさ」 ドレスを隔てた向こう側から、涼の楽しそうな声が聞こえる。僕は顔を引き攣らせて声を上げる。 「なんか性癖が大渋滞してるんだけ……んむっ!」 「騒がしい口だなあ。こうしちゃえば静かになるかな?」 少し体重をかけて、涼の尻が完全に僕の口を塞ぎにかかった。僕はなんとか顔をずらしてそれをかわす。体全体で跳ね除けようとするけれど、まるでくもの糸で絡め捕られた虫のように逃れることができない。 「こ、この女郎蜘蛛ー!」 「残念でした、ボク男だもんねー」 のしかかってきた尻の感触からは、確かに身近なものが感じ取れる。顎の辺りに、男にしかないはずのものが触れている感覚がある。いや、自分のそれを顎で感じたことなんかないけれど。 「た、助けてー!」 くぐもった声で悲鳴を上げる僕に、涼が苦笑しながら言う。 「そんなこと言いながら……このドレスの裾を押し上げてるものはなあに?」 布数枚を隔ててそっと触れてくる涼の手に、僕はどこまで抗えるのだろうか。
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これはひどい。 そして長い。ごめんなさいごめんなさい。
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