初参加です☆ ( No.5 ) |
- 日時: 2014/10/15 07:52
- 名前: A ID:xt2EhWL6
『ただいま』
煙草を吸うようになった女は処女を捨てたという説を大学の先輩から聞いた事がある。今、居酒屋で隣に座って日本酒を飲むこの居酒屋のバイト上がりの可愛らしい女、会話する時は大きな目で真っ直ぐに人の目を見て、周りの人間全てに対する気づかいを欠かさないまま明るいノリで気の利いた事を言う女を僕は強烈に意識していた。正確に言えば、僕は僕の意識を気取られないようにする不自然な全身の力みに苦しみながら、普段と変わらないように冷静に振舞っていた。さっきまでカウンターの向こうにいて、僕にだし巻き卵を作ってくれたり、お酒を注いでくれたり、僕以外の客のからみに上手く対応しながら、あるいは店主のお婆さんと他愛もない会話をしながら、色々な笑みを様々な角度から送ってくれた女が慣れた手つきで煙草を挟む左手の薬指には金色の細い指輪が嵌められていて、酒の酔いに頭がぼんやりしてきた僕は黙って目を閉じ、自分の胸の内でぐにゃぐにゃと捻じれている何かの正体を見極めようとしていた。カウンター上方の白色蛍光灯の光は明るすぎるように感じられ、世間から後ろ指差されるような人間を執拗に追い回す報道記者のたくフラッシュライトのようにさえ思われた。僕がどんな悪い事をしたって言うんだ。こんな言葉を頭に思い浮かべると同時に、女の挙動と女に対する周囲の挙動の一々に(特に笑いの爆発に)胸を抉られるように思いながら、この痛みに耐える事が僕がここにいる意味だという風に自分に無理やり言い聞かせ、精一杯胸の内のぐにゃぐにゃと対峙していた。ふと、自分の右手の人指し指を見ると、小さなささくれが爪の根元付近にあって、思い切りむしり取ってしまいたい衝動を強く感じた。その皮は指先から腕を通じ肩と脇の接合部の辺りを通って鳩尾の辺りまで到達する血の滲む赤い軌跡を肌に残しながら皮膚の内側のにゃぐにゃと繋がって、死ぬ気で引っ張ればぐにゃぐにゃを取り出せるに違いない――僕はずんずん痛み始めた頭を抱え、目をこすりながらふらふらと立ち上がり背側すぐ傍のトイレに入って小便をした。トイレの扉の外でまた笑いの爆発が起きた。遠くで「ビールと軟骨からあげ…」と学生の張り上げた声がする。僕は小便を流したが、流している音に紛れて聞こえなくていいと思ったのもあって、嘔吐した。涙が零れ、頭痛が激しくなる。愛している、と心の内で絶叫しながら、ますます敏感になった耳で女の笑い声を聞く。笑い声が止んだ後、女が払う注意の動きを心の目で追う。トイレに膝立ちでこもっている僕に、決して向かいはしないその動きに安心しつつ、吐しゃ物を綺麗に流し、立ち上がって鏡を見ると真っ赤に充血した眼が僕を眼差しで殺そうとしているようだった。全身がぐにゃぐにゃになって頭も朦朧としていたが、それでも自分が人指しの先で潰した蟻の頭程の大きさの存在である事を胸の内で殆ど文字通りの意味でひしひしと感じながら、それを押しつぶそうとする圧力に胸が裂けそうだった。冷静を装い、鏡の中の己の腫れぼったいような不細工な顔の細い目に据わった瞳に憎悪を込めて眼差しを注ぎ、心の中の(愛している)がもはや聞きとれなくなった時、扉をノックする音が聞こえたので、何食わぬ顔で外に出、カウンターに座りなおした午前二時。女の隣にはイケメンの彼氏が迎えに来ていて、いつの間にか僕の隣の席に座っていた中年の太ったおっさんの長話に二人して神妙そうにうなづいているのを見て僕は「お会計」と言った。
「しんどそう、気をつけて」と同情の声を店主に掛けられ、一人で外に出れば街のはるか上空で月が冴えた光を放っていた。僕はずっと一人だ。千鳥足とは言わないが、ふらついた足どりで一人暮らしの部屋までの道を歩きながら、(愛している)と言ったのは嘘で、本当は(愛されたい)だな、と思いなおした。なぜ、この地上に生きる人々は、全ての瞬間に(愛されたい)と泣き叫び、訴えようとしないのだろうか。何を怖れ、ごまかすのだろうか。こんな風に問いかけながら、もし人が怖れることなく、ごまかす事がなくても、女が僕を愛する事とは無関係だという事に気付き、僕は無性に悲しくなって狭い路地に折れ、暗がりの電信柱に寄りかかって泣こうとした。だが、涙は一滴も出ず、女を、女の彼氏を、長話するおっさんを、店主を、見知らぬ客全てを残酷な目に合わせる事は出来ないかという無色透明の強烈な悪意が火照った身体をかえって静まらせていた。僕はこれ以上ないほど落ち着いた心で身体をアスファルトの地面にうつ伏せに横たえ、両手でわずかに上半身を宙に浮かせ、眼前の黒いつぶつぶを陰影と共に凝視し、匂いを嗅ぎ、舌先を突きだして舐めてみた。また、仰向けになり、マンションとマンションの間、電線の向こうの薄い雲の漂う空を眺めたりした。何かこれといった意図がある訳ではなかった。いや、常識的に解釈され得るような意図がそこにはなかったというだけで、僕の行為に意味がある事を僕は分かっていた。僕はものになろうとしていたのだ。普段、誰もが見ていながら見過ごしてしまうようなものは、どれだけ(愛されたい)と願っていたって愛されたりしない。たとえば西日の当たるベージュの壁が何か大事な事を言い忘れたような不安を呼び起こしても、僕達は愛ゆえにそこに立ち尽くしたりしない。ものは(愛されたい)なんて願ったりしないんだろうが、ともかく、ものと、僕の違いなんかこれっぽっちもないんだ、と全身で言おうとしていた事を僕は分かっていた。するとどうだろう、突然涙があふれ出し、僕の身体は境界を失っていくような心地よさを芯から感じ始めた。声こそしなかったが、何かがこう言っていた。「おかえり」。
部屋に帰って、シャワーも浴びずベッドに突っ伏して眠りこんだ。そしてこんな夢を見た。 海に囲まれた街だが海は見えない。巨大なビル群が城壁のように囲む街を、山の頂上のような場所から眺めていた。真っ直ぐ向こうにはビル群を押しのけるように途轍もなく大きな階段をそなえた神殿があり、神殿の上空には白い雲が浮かんでいるのだが、その雲は見えない円の輪郭を持つ不死鳥のマークのように見えた。僕は街の全貌と共に不死鳥の雲をポケットから取り出したiphone5で撮影しようとしたのだが、どうも、画面下、すなわち僕の見晴らしている地点からもっとも近い家々の中の一つが炎に包まれているのに気付いた。次の瞬間、僕はその家の近くにいて、周りの人間が写メを撮る中、「どうも、中に人はいないみたいよ。小さな動物が黒焦げになってるみたいだけど」というおばさんの声が聞こえてきた。僕はその家の玄関に立ち、壊れた呼び鈴の下にある非常ボタンを何度も押すのだが、誰も助けに来ない。仕方ないので僕は家の中に飛び込んだ。廊下を抜けてドアを開き、整理され落ち着いた雰囲気のリビングに足を踏み入れた。そこには誰もいない。見回すと、横開きの扉があったのでそれを開くと、そこは畳敷きの和室だった。足を踏み入れたが、その部屋も落ち着いていて、何の変哲もない。ふと振り返ると、真っ黒な虫のようなものの大群が扉の隙間から侵入してあっという間に和室の天井を覆い尽くしもぞもぞと蠢いていた。僕は叫び声をあげたが立ちつくしたまま動けず、黒い蠢きをじっと見ていたら、突然「ざっ」という音がして大群が天井から僕に向かって落ちてきた。
朝、目を覚ました僕は、キッチンで冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぎ、一気に飲み干した。それからノートを開き、日記に見た夢を書こうとしたが、無駄なような気がして止めた。日記というのは不思議だ。日をおいて読み返した日記に記された事は、いつも、他人事のような気がする。紙面からは映像や音、匂いなどが立ち上がって来るけど、思い返せば思い返す程に「過去」は何もかもが偶然の産物のように見えてくる。今だって、そうかもしれないのに、何もかもばらばらの寄せ集めかもしれないのに、どうして僕は、こんなに安心して、今日もまた平凡な一日を予想しているのだろう…そんな事を考えながら、やがて考えるのに飽き、半ば夢見心地のまま、シャワーを浴びたり、歯を磨いたり、洗濯をしてベランダの物干しで乾かしたり、北野武の『あの夏、一番静かな海』を観たり、服を着替えたり、遅めの昼食を川沿いのイスラエル料理屋でとったり、ベンチに腰掛けぼんやり川を眺めたり、夕暮れ時の神社を散歩したり、電器屋のテレビで御嶽山の噴火を知ったり、本屋で中村文則の新刊を手に取ったり、部屋に帰ってラヴェルの音楽を聴いたり、唐突に縁を切った知人のツイ―トをネットで読んだり、Marc Perezの絵画をホームページで眺めたり、エロ動画を観たり、パソコンを閉じ自転車でコンビニに出向きおでんを買ってきてゆず胡椒をつけて食べサッポロ生ビールやハイネケンを飲んだり、部屋の明かりを消しオレンジの照明器具の小さな灯りをつけ、アンゲロプロスの『永遠と一日』を観たりして、それから、何となく手に取ったノートに僕は床に転がっていたボールペンで「ただいま」と書きつけた。
**************************
かなり強引ですが(笑)、試しに書いてみました。 よろしくお願いします。
|
|