さん、に、いち ( No.5 ) |
- 日時: 2013/05/26 22:54
- 名前: 朝陽遥 ID:QpSLhD2I
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
暗がりにひそんで、息を殺していた。 道場の片隅には和蝋燭が一本きりともされて、わずかばかりの光を投げかけていたけれど、それはほんとうにちっぽけな火に過ぎなくて、かえって周りの闇を深めているように思えた。その、灯りの届かない片隅にまぎれて、戸口のすぐそばに背中をつけてもたれたまま、音のしないように、細く、細く、息をしていた。 じりじりと芯のくすぶる音に紛れて、閉てられた戸の隙間からひっそりと何かが入ってきているのではないか。気づいたときにはすぐそばにそいつがいて、首筋に生臭い息が吹きかけられるのではないか。そういう自分の妄想と戦うのは辛かった。もともとわたしは怖がりなのだ。オバケが怖くてひとりで夜中にトイレにいけず、しょっちゅう姉をゆさぶり起こしていた子供のころと、いまと、何も変わってはいない。 ――人間のほうが、怖いさあ。 それはもともと祖母の口癖で、おばあちゃん子だった姉もすぐにまねをするようになった。わたしが何かを怖がって半べそをかくと、きまって祖母とそっくりおんなじ口調で、姉がいった。人間のほうが怖いさあ。 意味もわからず子供が口まねをしてと、大人たちはみな笑ったけれど、姉にわかっていなかったはずがないと思う。あのころ姉はいじめられていた。子供は怖い。加減を知らない。大人も怖い。何もなかったふりをする。 人間のほうが、怖い。 ほんとうだね、お姉ちゃん。息でささやくと、闇がわずかに温もりをもったような気がした。この暗闇の中に姉がいる、と思うと、ほんのすこし恐怖が遠のいた。妄想でも何でもよかった。縋れるものが欲しかった。 蝋燭は、ほんとうなら消すべきだった。そうすれば気づかずに、あいつらは通り過ぎるかもしれない。けれどわたしはそうしなかった。怖かった。代わりに暗がりで息を潜め、なるべく音を立てないように、ときどき姿勢を変えた。いつでも動けるように。 ――どこに隠れた。 切迫した調子の声が、だんだん近づいてくる。足音はひとつやふたつではない。 お姉ちゃん。ささやくと、微風が吹いて蝋燭の火を揺らし、頬をなでて通り過ぎていった。冷たくなった指に力を込めて、せめて血を巡らせようとした。 ――そっちに回れ。 怖い。 寒くないのに鳥肌が立っていた。暗がりに潜んでいるのは、わけのわからない妖怪なんかじゃない。もっと怖いものだ。 大人になれば、いろんなものを怖がらなくてすむようになると思っていた。あのころ目に映っていた大人たちは、みんなどっしりと構えていて、滅多なことでは怖がったりおびえたりしないものだった。自分もいつかそういうふうになるんだと思っていた。 だけど現実には、大人になればなるほど怖いものが増えた。おはなしの中に出てくる怪物や妖怪なら、きっと主人公がやっつけてくれる。だけど現実には、ヒーローは颯爽と現れて悪漢を倒してくれたりなんかしないし、警察は頼りにならない。わたしがそのことに気がついたのは、姉が姿を消したあとだった。 ――どこにいきやがった。 憎々しげな罵声とともに、苦しげな息づかいが聞こえる。 怖い。怖い。人間は怖い。姉のゆくえは知らされなかった。捜索願はもみ消された。騒ぎのあったのを聞いた者はいたはずなのに、何も聞かなかったことにされた。 ――灯りが見えるぞ。 蝋燭は消したほうがよかった。だけどわたしはそうしたくなかった。音を立てないように立ち上がる。 わたしは人間が怖い。わたしはわたしが怖い。手が冷たく濡れている。寒くもないのに指が震える。ずっといやなにおいがしている。制服が汚れて気持ちが悪い。 ――痛え。ちくしょう、あの女。 ――おい、しっかりしろ。 お姉ちゃん。 口に出さずに呼びかけると、闇が揺れて、視界が涙ににじんだ。お姉ちゃん。お姉ちゃん。怖いよ。怖かったよね。許せないね。あいつら、許せないよね。 ――おい、こっちだ。 あんまり手が震えるので、ハンカチを使って、右手に柄をくくりつけていた。そのハンカチがじっとりと濡れて重い。金気くさいにおいが鼻について、さっきからずっと気持ちが悪い。 悪態と足音が徐々に近づいてくる。手の震えが止まる。息を詰めて、戸が開くまでの時間を数えている。さん、に、いち――
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うまくまとまりませんでした……無念!
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