人御殿 ( No.4 ) |
- 日時: 2011/05/01 00:28
- 名前: 弥田 ID:NCrpAeFc
「あのね、わたし、はらんだの」 と、ちいさく笑って君が言う。その時僕は、水槽の横の、ブリキでできたペルトン水車の模型が水流にあおられ、くるくる回転している様子をじっと見ていたのだった。日曜、午後のリビングは、ノイズのひとつもない、ひどく透き通った水晶の時間だ。水槽越しに差し込んでくる、気だるい午後の光線に充ちて、僕を、君を、等しく照らす。 「はらんだんだよ」 ふたたび。歌うように君は言う。 「……誰の子?」 聞けば、一言。 「人魚の」 「へえ」 尾ひれが水面をたたき、ぽちゃんと音して、あたりに水がとびちった。部屋の北半分を占拠する、特注の大水槽。なみなみと張られた海水は、なめると確かに涙の味がするのだった。中で飼われている人魚は、中性的な、端正な顔立ちを晒しながら、へりに肘乗せ、ほほ杖をつきながら、やさしい瞳で僕を見ている。両性具有のその生物は、股ぐらに二種類の性器がついている。男根を見て、女性器を見て、それからまた男根を見て、ようやく僕はため息をついた。 「よかったじゃん、これでもうエアリア充とかしないですむね」 「なに、そのエアリア充って」 「……知らね。自分で考えれば」 その昔、僕と君が付き合っていたころ、彼女は周囲の友人に、そして両親に、その事実を隠すため架空の恋人を作り上げていた。その手際は驚くほどに綿密で、精緻で、事実を知っている僕ですら、時として騙されかけてしまうほど完全だった。反面、僕はそういったことには無頓着で、たとえばコンドームなんかは引き出しの中に仕舞いっぱなしにしていたのだ。時には机の上に置いたまま忘れていたりして、そんな現場を君が見ると、烈火のごとく怒りだすのだった。曰く、母に見られたらどうする。彼女は潔癖な人だから、きっと出所を追及されるぞ。と。しかし、僕はそういった君の態度こそを憎んでいたのだ。君がありもしない恋人との、楽しげなエピソードを語るたび、不可解な嫉妬が僕をむしばむのだった。 やがて別れるのは、むしろ必然だったと言えるかもしれない。どちらから切り出したのか、それはもう忘れてしまったけれど、とにかく僕らは別れたのだった。 やがて君は家に人魚を迎えた。それはどこか君に似た、……当然ながら僕にも似た、それでいてどこか決定的に違う不思議な顔つきをしていて、僕の瞳を一目見るなり、さも可笑しそうにこう言ったものだ。 「あはは、残念でした!」 僕と別れた後も、君と架空の恋人との恋愛は続いていた。それがなにを意味していたのか、分かってはいたのだ。彼女がはらんだ、と言った今だって大きな動揺はない。ただ、ああそうか、と思うだけだ。 人魚は、君に似た、そして僕に似た、瞳でこちらを眺めている。 「きっとこの子は誕生日プレゼントなのよ。神様からの、なのか、悪魔からの、なのか、それは分からないけれど……」 「あれ、もう誕生日なんだっけ。はやいね」 「うん、今年で十六歳。もう結婚だってできるよ、あなたは、まだ無理だけどね」 「人魚と結婚かよ。やるね」 「……お母さん、怒るかな」 「僕の時は、生じゃやらせてくれなかった」 「当たり前だよ、だって、そんな……。それに、あのときはまだ子供だったし……」 「あはは、残念でした!」 ふいに、人魚の美しい声。それを無視して、僕は言う。 「いいよ、今更。もう、そんなこと気にしてなんてないんだ」 「そう? なら、いいんだけど」 人魚が笑う。乙女の弾く竪琴のような柔らかい響きで僕を嘲笑する。 「ところで、君が誕生日ということは、僕も誕生日ということなんだけど、なにかプレゼントないのかな?」 「あー、そかそか。確かにそうだね。忘れてた。うーん、どうしよう……」 と、君はしばらく考え込んで、それから、ふいに近づいてきて、糖蜜の甘いにおいが香って、思わず目を閉じると、唇に熱い感触。目をあけると、笑った君の、細まった目尻を見た。 「十六歳おめでとう」 と、君が言う。 「おめでとう」 と、人魚が言う。 「ありがとう」 それはどっちに対する返事だったのか、自分でも分かってはいない。 「あははははー」 人魚は笑う。つられて、君も笑う。細まった目尻。 ……分かってはいたのだ。大きな動揺だってない。しかし……。 「あははははー」 「あははははー」 水車がからから回転している。僕はじっとそれを見ている。細まった、君の、目尻。
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