『すばる』 ( No.3 ) |
- 日時: 2012/07/31 15:17
- 名前: 沙里子 ID:UJvoIMWg
匂坂すばるは不登校児だ。もう十四カ月と三週間と五日、高校に来ていない。 僕たちが学校に行っている間、すばるは自分の部屋で本を読んでいる。かれの部屋はいつも暗い。雨戸とカーテンを閉め、窓に黒いガムテープをべたべたと貼りつけているから外のひかりや風がすこしも入ってこない。その代わり夏でも冬でも空調が常に効いていて澱んだ空気をゆったりとかきまわしているから、たとえば真夏の午後なんかにすばるの部屋に入ると汗がすっと浮いて消えるようで気持ちがいい。あー涼しい、とつぶやきながらノックもせずに部屋に入ると、ベッドに坐ったすばるが手元の本に視線を落としたまま「今年の夏は猛暑らしいね」と言った。 「まめに水分を摂らないと熱中症になるよ。というか、こんな日に外に出てること自体信じられない」 「部活なんだから仕方ないだろ」 すばるは床に置いた僕のグローブを見て微笑み、「お疲れさま」と言った。 「ゆっくりしていって。あ、もっと涼しくする?」 かれはテーブルの上に山積みになった本を惜しげもなく崩し、やっとリモコンを探し出すと冷房の温度をさらに下げてくれた。僕は床に腰をおろし、床に落ちた本を手に取った。『宇宙条約論』、『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』、『ソラリスの陽のもとに』。ベッドのそばの棚に目をやると、さまざまな恒星や惑星の模型がずらりと並んでいる。天井からは蓄光塗料で塗られた星型のプラスチックがぶら下がっている。 すばるは宇宙が大好きだ。大学で天文学を研究している父親の影響か、子供のころから夜空の星に憧れていたという。中学三年生の春、まだ出会って間もない頃すばるに「なんで宇宙が好きなんだ」と訊いたことがある。かれは目を煌めかせながら、宇宙への愛を饒舌に語ってみせた。 「だってきみ、一度空を見上げてみろよ。そのずっと奥、薄い青が濃紺に変わる頃、こんな景色がほんとうに拡がっているんだよ。ぼくたち人間には絶対に解明しきれない、幾億もの銀河系。こんなに素敵な世界が、ほかにあると思う?」 それで僕はすばるを気に入ってしまった。自分のすべてをささげてまで何かをつよく愛している人間を、今までに見たことがなかったからかもしれない。僕は宇宙に憧れているすばるに憧れ、そうしてこの子と友だちになりたいと思った。 中学最後の夏休み、僕たちは受験勉強もほどほどにたくさん遊んだ。プラネタリウムや天文台にも行ったし、夜空観賞会と称したお泊まり会も何度かした。夕暮れの橙から夜の群青へと移り変わる天蓋に見惚れるすばるの横顔と、鮮やかな星粒をいくつも封じ込めたように輝くかれの瞳を見ると、僕は満ち足りた気分になった。すばるの幸福は僕の幸福だと思っていた。だからこそ、かれに付き合って夜空を見上げつづけたのだ。 けれどすこしずつ違和感がふくらんでいった。宇宙は確かに美しい。でもこれが僕の本当に究めたい道かというと、そうではなかった。図書室で銀河の写真集をすばると眺めながら、そんなことを思っていた。僕が本当にやりたいことって、何なんだろう。きん、とグラウンドからバットがボールを打ち返す甲高い音がした。 成績が同じくらいだった僕たちは同じ高校に入った。一緒に天文学部に入ろう、と言ったすばるに、僕は静かに首を振った。 「僕、野球部に入ろうと思う。ここの学校、そんなに野球強くないんだけど、一回やってみたいと思っていたんだ。初心者歓迎ってあったし。だから僕……」 すばるはきょとんとした顔で僕を見つめ、それから柔らかく微笑んだ。今までに見たことのないくらい、優しい笑顔だった。 「いいと思う。きみはきみの好きなことに打ち込むといい。ぼくはずっと応援する」 そうしてすこしうつむき、つぶやくように言う。 「ずっと悪いと思っていた。ぼくばっかりに付き合わせてしまって、ごめん」 「いい。謝らなくていい。とても楽しかったから。これからも一緒に遊ぼうな」 きっぱり言うと、すばるは嬉しそうに何度も頷いた。 中学で運動をしていなかった僕にとって、弱小とはいえ野球部の練習はきつかった。クーラーの効いた涼しい部屋で宇宙についてすばると語っていた日々が恋しくて、もう辞めてしまおうかと思ったこともある。でも体を動かすのは楽しかった。バットを振り、球を投げ、思いきり汗を掻いて、仲間と笑い合う。すばるのことを忘れたわけではもちろんなかったけれど、新しい日々はすこしずつ充実していった。 それから二カ月も経たず、すばるは学校に来なくなった。クラスも違ったし、朝練が始まってから一緒に登校することもなくなっていたから、それを知ったのはずいぶん後のことだった。いじめられていた、という噂も聞いたけれど、本当のことは分からなかった。とにかくすばると話がしたくて家まで出かけると、迎えてくれたのはかれの父さんだった。いつも息子がお世話になっています、と頭を下げる彼に「すばるに会ってもいいですか」と訊くと、「もちろん」と笑った。 「別に引きこもっているわけではないんだ。傷ついたり落ち込んだりもしていない。毎日退屈そうにしているから、きみが来たことを知ったらきっと喜ぶよ」 階段をのぼって二階の突きあたりの部屋をノックすると、「はーい」と能天気な声が返ってきた。緊張しながら扉を開けると、部屋は真っ暗だった。ぽつんとともった月球儀の灯りを頼りに本を読んでいたらしいすばるは、僕に気づくと顔をあげて目をまんまるにした。 「きみ、どうして――」 「学校来なくなったって聞いたから、大丈夫かなって」 しどろもどろになりながら言うと、すばるは目を細めて微笑んだ。 「大丈夫。ぼくは何ともないよ」 「だったらなんで、」 「高校に行く意味が見出せなくなったっていうか。いや、いじめとかではないよ。ただちょっとからかわれただけで。しかもそれ自体は直接の要因じゃない。ただのきっかけだ。それでいろいろ考えた結果、もう学校には行かないことを選んだ」 そうしてすばるは家族に相談した。そのときに父親からもらった言葉が、決定打になったのだという。 「いいか、お前がこの世に生まれてきたのは幸せになるためだ。この世界のすべてはお前のためにある。お前が願いさえすれば何もかもが叶う。お前ができないことは父さんが叶えてやる。お前は自分がしたいことをすればいい。周りの視線なんて気にするな。そんなものにかまっている時間は一秒たりともない。お前はお前のために生きろ。好きなことをして生きろ、って」 すばるは月球儀の凹凸を指でなぞりながらつづけた。泡の海、静かの海、幸福の湖。 「確かに、周りからは嫌なことから逃げたと思われるかもしれない。そんなことで高校を辞めるだなんて精神が弱い、とかなんとか。でもぼくは自分で選んだのだと思ってる。普通の人生のレールから外れたっていい。ぼくは好きなことを、自覚をもって、選んだ。そのことに責任をもつ。大切なのはきっとそれなんだよ」 通信教材で勉強は続けている、とすばるは言った。このまま勉強を、特に英語をがんばって、将来はアメリカの大学で天文学を学びたいのだという。 「で、ひとつお願いがあるんだけど」 すばるは申し訳なさそうに僕を見あげた。 「もし良かったら、これからもぼくの部屋に来てくれると嬉しいな。もちろん、暇なときでいいし」 分かった、と僕は言った。 「約束する。かならず行く」 それから、部活が終わった後ふらりとすばるの部屋に寄るのが習慣になった。暗い部屋、うすぼんやりとひかる月球儀の灯りをたよりに背中あわせに本を読むこともあれば、何をするでもなく寝そべるだけのときもある。何をしているか、というのは重要ではなく、ただ二人でいる、ということが大切なのだった。 すばるに出会えて良かった、とぼくは思っている。こんなこと本人には恥ずかしくて言えないけれど。向こうもたぶんそう思ってくれている、はずだ。価値観も性格も何もかもがちがう僕たちが一緒に居られるのは、互いに互いを尊敬し合っているからだと思う。 好きなことをして生きろ。すばるの父親の言葉がよみがえる。この世界のすべては、お前のためにある。好きなことをして、好きな友だちと時を過ごせ。 「なあすばる、あとで庭に出てキャッチボールしよう」 「やだよ。ぼく下手だから」 「教えてやるから。それに、お前はもっと日焼けした方がいい」 僕は立ち上がり、すばるの腕を引いた。仕方ないな、とぼやきながらもかれは素直に立ち上がる。 めざす道は違うかもしれない。考え方もちがうかもしれない。だけど、そばにいることはできる。 すばる、この広い宇宙のなかできみに出会えてよかった。 幾重にもかさねられたガムテープの僅かな隙間から、仄かに陽射しが射していた。
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11枚。ちょっと長くなりました。 読んでくださった方、本当にありがとうございました。
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