Re: 帰ってきた即興三語小説―もう回数はいらねぇや ( No.3 ) |
- 日時: 2012/02/06 05:54
- 名前: 二号 ID:dxmIsqec
僕が旅に出ることを決めたこと、それについてはいくつかの理由がある。 一つ目は、車の免許を取ったということ。(車は親のものだ) 二つ目は、家の掃除をしていたら、キャンプ用品が大量に見つかったということ。(これは僕の父が買い集めたものだ。6個の寝袋(我が家は一番多いときでも四人家族だった。余分な二つの寝袋が何のためにあるのかは僕には分からない。)、テント、折りたたみ式のテーブルと、これもまた折りたたみ式の肘掛背もたれのついた椅子(アルミ製のフレームの上、おしりと背中が乗る部分に、布が巻いてある椅子だ。肘掛の上には丸い溝が彫られていて飲み物の缶やペットボトルが置けるようになっている。中々すわり心地がいい。)、 タープ(日よけ雨よけのこと。二メートル半ほどの高さの骨組みのうえに防水性の屋根をつけて作る。運動会の時などによく作るあれに似ている。テントの横、焚き火やテーブルセットの上あたりに作ると、雨が降っても安心だ)、ランタン(ホワイトガソリンで火をつける。オレンジ色の暖かな炎と火の燃える香りが、なんとも言えず良い)、ガソリン型ツーバーナー(ガソリンで火をつけるコンロのようなもの。ガス用のものと比べると少し重く、火力の調整は難しいが、燃料費が安く済み、ガスのものより経済的だ。) あとはこまごまとした何やかやだ。それらを僕は物置の中で発掘した。) 三つ目は、就職のために家を出た兄が懐かしくなったこと。(彼は今北の国で畜産関係の仕事をしている。楽しそうな仕事だ。もう二年ほど会っていない。) 四つ目は、男として生まれたからには、一度くらい旅に出てみないといけないということ。(誰が決めたか知らないが、僕は時々そんな風に思う。) 五つ目は、最近知り合いからカメラを譲り受けたということ。(だから道中では写真をたくさん撮りたい。綺麗な風景や、なんてこともない風景や、ばかばかしいものや、何もかもだ。) 六つ目は、北国の大地が僕を誘っているような気がするからだ。(なんだかそんな気がする。気のせいかもしれないけれど。) 七つ目は銀行の口座の中に使い道の無いいくらかのお金が溜まっていたこと。(いつか海外旅行にでも行こうかと考え、暇な時間を短期のアルバイトに費やしているうちに、少しずつためていたお金があったのだ。)行き先を決めずにためていたその資金を、このちょっとした国内旅行のために使うことにした。 八つ目は、最近時間が有り余っているからだ。(当面何もすることがなくて、とても暇なのだ) 九つ目は、ジョゼに自然を見せてやりたいからだ(彼女はこの町から外に出たことがない) 十個目以降の理由は省略する。だから理由は次で最後だ。それ以降は省略。ともかく、たいした理由ではないのだ。
最後の理由は、駅前の本屋に行き北国のガイドブックを買ったということだ。見知らぬ場所の風景写真と、それに添えられた説明文を読んでいるだけで楽しかった。 この小さな国の中いたるところに僕の知らない道が張り巡らされていて、その道に沿っていたるところに僕の知らない沢山の街があって、そこには沢山の人々と僕の知らない風景が広がっている。そして僕は少し勇気を出すことができさえすれば、そこに行くことができる。どこにだっていけるのだ。時間ならたっぷりとあるし、失って困るほどたいそうなものなど僕は持ってない。 ともかく、そういった理由で僕は彼女と共に旅に出ることにした。たいした理由ではないのだ。 行き先はただ北へと決めた。途中で宿を取るか野宿をする。自分の知らない場所を回って車を走らせ、途中で兄に会い、さらに北へと向かい、行き止まりで折り返して帰る。それだけの旅だ。
兄には近いうちに遊びに行くからよろしくということだけを電話で伝えた。
「まだいつそっちに着くかは分からないよ。のんびりいろんなところを回って行くつもりだから」 「だけどこっちも準備ってもんがあるからな」 「じゃあ、とにかく海を越えたら伝えるよ。トンネルかフェリーかはまだ決めてないけれど、とにかくそっちに着いたら伝える。そっちには無料のキャンプ場もあるみたいだから、一日そっちでゆっくりしてから向かうことにするよ。それでいいだろ?」 兄は電話越しでも聞こえるような大きなため息をつきながら言った「ああ、わかったよ」 「そう心配しなさんな。ジョゼも早く会いたがってるよ」 「とにかく、気をつけて来いよ」 「うん、それじゃあ。また。」 「ああ」
電話を切ると、僕は車に沢山の荷物を積み込み、助手席に彼女を座らせてエンジンキーを軽くひねった。 エンジンの中で油が燃える振動が、シートを通して体に伝わってくる。車道に出るために左右の安全を充分に確かめ、大きく息を吸い込み、アクセルを踏み込む。法令通り初心者マークを前と後ろの見えやすい位置に取り付けた車は、ゆっくりと前へと進みだす。そんな風にして僕たちは旅に出る。
ジョゼと二人で地図の上の方を目指して走る。特に行き先を決めずに北に向かって走る。ラジオからは一昔前の歌が流れていて、僕たちは幅の広い道を安全運転で走っていく。 いくつかのカーブを曲がり、またいくつかのトンネルを抜ける。登った数と同じだけの坂を下る。赤信号で止まり、青信号で走る。急発進急停車は助手席のジョゼが転げそうになるのでなるべく控える。 いくつかの山を越える。曲がりくねった峠道を登り、曲がりくねった峠道を下る。お椀方の山の斜面を縫うように敷かれた車道、道の端はガードレールで仕切られた細い斜面になっていて、速度を落として走る。緊張しながらハンドルを握り、どきどきしながら幅の広い対向車とすれ違う。恥ずかしながら、そういった道はまだ少し怖い。 だけどそこからは、斜面に作られた街の姿が一望できる。それまで進んできた曲がりくねった道とそこから延びる路地、それに接するようにしていくつもの家が立ち並んでいる。遠くの景色には山と山の間にかけられた大きな橋が見える。橋の根元はくもの巣に似た形で自らの重さを支えている。列車がその上を通り過ぎる。橋の上のレールと列車の車輪の間で鳴るその音はこちらにまで届き、列車が通過し、山並みの緑に吸い込まれていくと共に途切れる。(山道の途中で駐車場を見つけるたびに、僕はそこに車を止め、そこから見えるそういった風景を写真に収めていく。)
のろのろと走る僕たちのすぐ脇を、焦れたトラックが大きな音を立てて追い越していく。ジョゼはおびえたようにこちらを振り返る。 ジョゼは白い毛並みのポメラニアンだ。体は小さく、臆病な犬で、あまり活発な性格ではない。おっとりとしていて食事と散歩のとき以外はほとんど眠っているような犬だ。 「なんてことはないさ」と僕はジョゼに向かってつぶやく。 ジョゼは心配そうな目でこちらを振り向いた後、また少したつと窓の外に目をやる。またトラックに追い越されると、小さく震えながらこちらを振り返る。本当に臆病な犬なのだ。 そんなふうにして僕たちは二人で長いドライブを楽しむ。これといって目的のない旅なのだ。寄り道を沢山しながら、ゆっくりと北に向かって進んでいく。
朝のうちに出発した道のりが、やがて正午になり、さらに北へ進み、道の駅で遅めの昼食を取りながら一息ついていると、日が落ちかけていることに気づく。 ガソリンもだいぶ減ってきた。空気が先ほどとは違うものに変わったかのように冷たくなり、東の空が暗くなり始めている。僕は地図で自分のいる場所を確認し、そろそろ宿を探すことに決めた。幸いなことに、近くにはキャンプ場が幾つかあり、道の駅の車の中で一晩過ごすということはなんとか避けられそうだった。
出発から半日ほどかけて車を走らせ、結局たどり着いたのは湖のある街だった。湖のほとりにあるキャンプ場に飛び込みで頼み込むと、なんとか受け入れてもらうことができた。料金は宿に止まるよりもずっと安い。焚き火のための薪を買い、今晩眠る場所を自分の力で組み上げる。 一時間ほどかけ、何とか苦労してテントを張り、タープの下に折りたたみ式のテーブルと椅子を広げる。ジョゼのための毛布を地面に敷き、焚き火を焚くと、やっと落ち着くことができた。
焚き火で体を温め、人心地がつくと、僕はジョゼを連れて湖の周りを散歩した。彼女は僕ほど寒がってはいないようだった。 ジョゼの祖先は寒い場所で生きてきた犬だ。そのために彼女の体は保温性の高いふわふわとした柔らかい被毛で覆われている。 集団生活を営んでいた彼女の祖先は、何よりも孤独を恐れた。暖かさのない、過酷な自然の冷たさの中で、孤独を選ぶことは自殺行為だったからだろう。そのせいか、彼女は独りになることを恐れる。首輪をはずしていても、僕からそう遠くに離れようとはしない。生まれてはじめて見る湖の姿に興味をもち、湖面に向かって駆け出していくものの、静かに波打つ水の冷たさに驚いてまたこちらに戻ってくる。
散歩に満足すると僕たちは夕食を取ることにした。僕はバーナーと飯ごうで米をたき、レトルトカレーを水を入れた鍋の中、焚き火の炎で暖める。ジョゼのためにはドライフードと缶詰を用意する。ジョゼにとって缶詰つきの夕食はご馳走だ。ジョゼはお腹一杯夕食を平らげると、焚き火の近く、暖かさは届くけれど火が燃え移らない程度の近さの場所で丸くなった。 僕は椅子に座り焚き火の炎を眺めながら。ぼんやりと次の日の計画を練っていた。 時折ジョゼは僕の足元までやってきて、何かを訴えるような目で見つめてくる。普段散歩に行きたいときや、喉が渇いたけれど水入れに水が入っていない時にするような目で、こちらのことをじっと見つめてくる。尻尾を振りながら、僕の足元に前足をかける。これは彼女が僕に何かをしてほしい時にする仕草だ。だけど散歩はさっき連れて行ったし、食べ物も水もあげたばかりだ。どうしたのかと頭をなでてやると、気持ちの良さそうな顔をしたあとで、またこちらの足元に前足をかける。これは頭を撫でてもらいたかったわけではないということだ。 しばらく考え込んだあとで、僕は気がついた。ジョゼはなぜ自分がこんなところにいるのか分かっていないようだった。彼女は僕に早く家に帰ろうと言っているのだった。 「ジョゼ、今日は家には帰らないよ。わかる?」 ジョゼは何も答えない。 「帰りたい?」 ジョゼは何も答えなかった。 「ごめんな。変なことにつき合わせちゃって」 謝りながら頭を撫でてやると、とても気持ちの良さそうな顔をしてその場に寝転んでしまう。これは背中を掻いてほしいときの合図だ。僕は彼女の背中を掻いてやりながら、少しだけ寂しい気持ちになっていた。
湖面が波打つ静かな音が聞こえてくる。ジョゼは疲れたのか焚き火のそばでいつの間にか眠ってしまっていた。夜の闇の中に月と山の陰が映っていて、時折吹く風が焚き火の炎と暗闇の中の木の葉を揺らした。湖は静かに波打っている。 ランタンの明かりの下で地図をめくりながら、今日自分が走ってきた道を指でなぞってみる。地図の上ではそう遠く離れていないように感じられるが、ずいぶんと長い道のりだった。目的地まではまだまだ距離がある。こんな風にのんびりと車を走らせていると、一週間近くかかってしまうかもしれない。道の途中にある土地を全て見て回る時間は無いんだ。明日からはもう少し考えて進まなければいけない。 「こんばんは」 止まる場所も今日のように都合よくキャンプ場が見つかるとも限らないし、これから先に向かえばちゃんとした宿に止まらなければ寒くて夜を越せない可能性だってある。旅費を節約できるところはきっちりと節約していかなければいけない。ここまで来た以上今更もう後戻りはできないんだ。明日はもっとうまくやろう。そのためにはもう一度計画を練り直す必要があって、それで…。 「こんばんは」
男の声と、ジョゼの鳴き声が聞こえた。 地図から目を上げ、周りを見渡すと、暗闇の中に男が立っていた。こちらからは顔は良く見えない。腕に何かを抱えている。焚き火の明かりがぼんやりとかすかに男の顔を照らす。いつの間にかジョゼが足元に寄り添っていた。 「こんばんは」と僕は挨拶を返した。男の顔が見える。腕に抱えているのはどうやら毛布のようだった。 「ここのキャンプ場のものだけど。ちょっといいかな?」 「はい、なにかありましたか?」 「いや、うまくやってるみたいだね」男は僕の質問には答えずに話を続けた。 「ええ、なんとか」 「今頃寒さで凍えてるかと思ったよ」彼は笑いながらいった。「冬のキャンプにしては準備が無さそうだって聞いてたから、心配してたんだ。凍死でもされたらこっちとしてもかなわんからね」 「ああ」と僕は頷いて、緊張をほぐしてやるために、ジョゼの頭を撫でてやった。「すいません、ご心配おかけして」 「いや、こちらこそ。くつろいでいたみたいなのにすまないね」 「大丈夫です。ちょうど時間をもてあましていたところですから」 「そうかい? いや悪いね」そう言うと男はその場に腰を下ろし、体の周りに持っていた毛布を巻きつけた。こちらに一声かけてすぐ帰るものと思い込んでいたせいで、少々面食らってしまった。なんとなく気詰まりな空気が流れ、その空気に耐え切れずに僕は口を開いた。 「いいところですね」 「そうかい?」 「空気が綺麗で、景色もいいです」 男は笑いながら頷いた。 「今の季節はお客も少ないけれど、このあたりは湖を見せ場とした観光の町なんだ。役場もレジャー関係の街づくりを進めていてね。気に入ってくれたならうれしいよ」 「冬はお客がすくないんですか?」 「シーズンじゃないからね。大体春から秋にかけてだよ。夏が一番かな。ここが賑わうのは。家族連れのキャンプだとか、釣り客が多いんだ。ここらへんは」 「なるほど」と僕は相槌を打った。 「冬は寒くてキャンプどころじゃないし、魚も冬眠しちゃうからね。あまり釣れなくなっちゃうんだ。ピラニアでも釣ろうっていうんなら話は別だけど」 「ピラニア?」と僕は聞き返した。「ピラニアが釣れるんですか? ここは」 「いや、冗談だよ。もちろん」彼は笑いながら言った。「嘘嘘、ごめん。面白い人だね」
「君は釣りする人?」 「いえ、ほとんどやったこと無いですね」 「そっか」と彼は少し残念そうな顔をして言った。「いや、悪いね。少し前まではほんとに釣り客が多くてね、君もそうじゃないかと思ってたんだ。昔はこのあたりは釣り人が多かったんだよ。冬でもつれる魚でも教えられたら良かったんだけど。残念だな」 「はあ」 「私たちも毎年魚を放流したり、ダイバーに水草の駆除をお願いしたり。釣り客を集めようとがんばってたんだ。ちょっとしたブームになったりもして、毎年シーズンになると釣り客がやってきて、忙しかったな」男はこちらのことなどお構いなしにしゃべり続けた。僕はそれをただ黙って聞いているだけだった。 「だけどもうブームも終わっちゃってね、釣り客のごみマナーの問題だとか、外来種が生態系を壊しているだとか、あんまりいい話題がなくて、最近シーズンになってもあまり釣り客が少なくなってたんだ。」 「だから君が釣り客だったらいいなあなんて思ってしまったんだ。すまないね」 「ええと」 男は僕が返事に困っているのを見ると、にっこりと頷いて言った。「いや、長居してすまなかった。私はそろそろ失礼するよ。冬は私たちも暇だからね、若い人が来てくれて少しうれしくなっちゃったんだ」 「はあ」 「ともかく、寒さ対策はしっかりしたほうがいいよ。深夜から明け方にかけて、びっくりするくらい冷え込むからね。意外と地面からも熱が奪われるから、寝袋の下にその毛布を敷いておくといい。貸してあげるよ。せっかくの旅行も体調を崩したら台無しだからね、くれぐれも風邪には気をつけるんだよ」 「はい、ありがとうございます」 「今度くるときは、夏に来るといいよ。釣りをしなくても、今よりもずっとすごし易くて、東京より涼しい」 「はい、是非」
「そうだ、最後にもう一つだけ。今日はもうさっさと寝ちゃって、明日は早起きするといい。できれば日の出の前くらいに。冬はね、朝の景色がいいんだ。」ようやく男は立ち上がって言った。「それじゃ、おやすみ。いい旅を」 「はい、おやすみなさい。ありがとうございました」 男はそう言うと、さきほど来た道を戻って行った。ほんの少し歩いただけで男の姿は暗闇に吸い込まれ、僕たちの周りに再び静けさが戻ってきた。暗闇と共に、焚き火の燃える音と、風と波の音が僕たちを取り囲んだ。
男がいなくなると、僕たちはテントの床に毛布を広げて、二人で寄り添って眠った。ジョゼが眠れるかどうかが心配だったが、疲れていたのか僕よりも先に寝息を立て始めた。彼女が眠ったことを確認すると、僕もいつの間にか眠っていた。
次の日の朝、夜明けと共に目を覚ますと、テントの中は吐いた息が凍り付いてしまいそうなほどに冷え込んでいたが、不思議とシュラフの中は暖かかった。地面に霜が降りたせいかテントの生地を通り抜けて染み込んできたらしい水分が毛布の裏側で凍り付いていた。これでもし毛布が無くて、テントの床に直に寝袋を敷いていたらと考えると恐ろしかった。 僕は顔を洗うためにテントから顔を出した、冷たい水で頭をすっきりさせたかったのだ。 しかし、寝ぼけ眼でテントから外に出ると、一瞬にして目が覚めた。それは冷たい風だけのせいではなかった。
僕たちが眠っていたテントの周りには、息を呑むような風景が広がっていた。 湖は一夜にして岸辺から一メートルほどの長さで薄く綺麗に凍り付いていた。上り始めた太陽の光を反射してその氷が白く輝いている。溶け出した氷の上を湖の水が撫でるようにして波うち、その光を不規則にきらめかせる。朝日に照らされる山並みが昨夜とは違う姿で視界の端から端まで聳え立ち、湖面にはうっすらと霧がかかっていて、空気までもが柔らかな太陽の光を受けて輝いているようにみえる。
まるで全てのものが自ら光を放っているような景色に、僕は息を呑み、眠りから覚めたばかりの体が凍えているのも忘れて急いで車の中からカメラを取り出す。写真の取り方も何も分からないが、ただひたすらに何度もシャッターをきる。きっとこれが僕の望んでいたものなのだ。息をするのも忘れ、目に映るもの全てをどうにかして記録しておかなければと必死だった。
やがて霧が晴れ、湖の氷も解けてなくなってしまうと、僕は再び呼吸をすることを思い出した。魔法が解けてしまったかのように、湖の景色はその輝きをどこかに隠してしまった。
僕は呆然としたまま顔を洗い、簡単な朝食を済ませた後、再び出発をするために準備を始めた。 テントやもろもろの道具を車にしまい、チェックアウトを済ませるために受付のある小屋に向かうと、昨夜の彼の姿はなかった。受付にいた女性に尋ねると、昼間彼は仕事に出ているのだそうで、こちらには夜にしかいないようだった。彼にお礼を伝えてもらうよう彼女に頼むと、僕たちは湖をあとにした。 遠ざかっていく湖と、遠くにある山の景色を眺めながら、僕たちは車を走らせた。 「いい人だったね」と僕はジョゼに言った。 彼女は何も答えず、窓から顔を出してただ通り過ぎてく風景を眺めていた。時折思い出したかのように後ろを振り返りながら、彼女はただじっと助手席に座っていた。 「あそこが気に入った?」とジョゼに尋ねた。 彼女は何も答えなかったが、尻尾を振りながらこちらを見た。 「また来よう」と僕は言った。
僕たちはさらに北に向かうことにした。 助手席の窓から冷たい風流れ込んでくるを感じた。それでも窓を閉めようとは思わなかった。それは多分、助手席の彼女のためだけではなかったはずだ。窓の外を眺めていた彼女は、いつの間にか静かに目を閉じていた。イチゴイチエ、と僕は小さく呟く。 口の中で小さく大気を振るわせたその音は、すぐに車のエンジン音にかき消された。自分でも本当にそんなことを呟いたのかどうかも分からないほどに、小さな呟きだった。 僕は右足を強く踏み込む。アクセルに反応したエンジンは回転数を増し、車は力強く加速して、まっすぐな道を進んでいった。
終わりです。長かったり時間がすごかったりしてすいませんでした。計6時間くらいです。気合も入りすぎかもしれません。ほんとにすいません。
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