不平等な電話 ( No.3 ) |
- 日時: 2015/08/15 00:57
- 名前: ラトリー ID:3aRGbbFk
多恵子が床の間で遺影に手をあわせていると、居間の固定電話が鳴った。 写真の中で微笑む成彦は、五十年前に初めて恋い焦がれたころの面影をかすかに漂わせている。頬がこけ、髪がずっと少なくなり、皺と染みに覆われていてもそれは変わらない。長年つかず離れずの関係を続けてきたが、昨年末に他界した。告別式では、ほかの列席者に決して気づかれぬよう、顔を深くうつむけて涙をこらえたものだ。 故人の思い出にひたりたいのに、耳障りなコール音はどこまでも規則正しく鳴り続ける。仕方ない、出よう。どうせ後で電話を使うつもりだったのだから、かかってきた相手の用件を確認してさっさとあしらうことにしよう。 多恵子は震えてもつれそうな両足をかろうじて立たせ、受話器のもとへ向かった。 「もしもし、鎌田ですが」 硬い声になったのが自分でもわかった。視線はまだ床の間の仏壇に向けられている。 「あ、もしもし? オレオレ、俺だよ」 いきなり噴き出しそうになった。なんだ、この声は。妙に軽くてなれなれしい雰囲気に名前を名乗らない始め方、まるっきり典型的な詐欺の手口ではないか。 眼を閉じた多恵子の顔に笑みが浮かんだ。とんでもないタイミングでかかってきたなと思う。いつまでも若いつもりでいたが、自分の年代はもう、若い連中からそうやって狙われるようなところに差しかかっているのだ。 世間一般からすれば充分に高齢者の範疇に入るのだし、今さら現実逃避しても始まらない。むしろ、相手の思惑に乗せられたふりをして翻弄するのも悪くないかもしれない。老いたわりに頭の回転は速いほうだと自負してもいる。 話す内容を慎重に頭の中で選びながら、多恵子はおずおずと切り出した。 「……もしかして、孝ちゃん? 孝幸なの?」 「そうだよ、孝幸だよ。母さん久しぶり、元気してた?」 「まあね。お父さん去年の暮れに亡くなっちゃったから、今は一人暮らし。これはこれでいろいろやりやすいんだけど、あんたには伝えてたっけ」 「どうだったかなあ……ちょっと憶えてないや」 はっきり答えるとまずい場面はお茶を濁してさっさと次へ向かう。わかりやすい進め方だ。今どき、こんなあからさまな手法でうまく行くと思っているのだろうか。いや、うまくやれると確信したから電話してきたにちがいない。 多恵子が考えをめぐらせていると、電話の相手は早速本題に切りこんできた。 「実はさ、母さん。俺、ついさっき追突事故起こしちゃって。なんか黒塗りのめちゃくちゃ高そうな車にぶつけちゃったんだ。乗ってた相手が顔にキズのあるすごい怖そうな人で、すぐに賠償金払えって言ってる。今もちょうど隣にいるんだ。お金を用意しないと、何されるかわからない。頼むよ母さん、母さんだけが頼りなんだ」 「怖い人がすぐそばにいるの? ああ、それは大変だねえ。まずは落ち着いて。夢じゃないんだね? 夏の夜の夢、ってわけじゃなくて」 「母さんこそ落ち着いてくれよ。こうやって俺が電話してるのに、夢のはずがないじゃないか。くそ、ただの悪い夢だったらどんなにいいことか。真夏の夜の夢ならぬ悪夢ってわけだ。でも最悪なことに、これは本物の現実なんだよ。どうしたらいいか……」 即座に台詞を返すアドリブ、絶望に打ちひしがれる声の演技などはなかなか上手だな、と思う。アマチュア演劇の舞台に立った経験でもあるのかもしれない。 ただ、シェイクスピアのあの作品を『真夏の夜の夢』と呼ぶのはいただけない。あれは『夏の夜の夢』にしないと原題のニュアンスから外れてしまう。はるか昔に大学で英文学を専攻した多恵子は、その手のうろ覚えを割と気にするタイプだった。 「とにかく、たくさんお金がいるのね? どれくらい必要なの」 「まず百万円払えって言ってる。俺が今から伝える口座に振り込んでほしいんだ。もちろんこれは、一度に振り込みできる限度額が百万円だから相手もそう言ってるのであって、最終的にはもっと払わなくちゃいけないんだと思う。母さん、本当にごめんね……」 「いいんだよ。大切な人が苦しいときには何としてでも助けてあげる、当たり前のことじゃないか。早いに越したことはないよ。さあ、どの銀行の何という支店なんだい」 多恵子は言われた通りに口座情報を書き取った。 世の中には、こうして犯罪に使われる口座がどれだけ開設されているのだろう。想像もつかない。被害者は電話や玄関先でやり取りした相手が本当の息子や娘、あるいはその代理人だと心から信じて、長年ためこんだ生活の糧を提供する。犯罪者たちは暴力に訴えずして多額の金を手中に収め、先行事例をもとに模倣犯が延々と続いていく―― ずるいと思う。実力行使もなく目的を果たすなんて、単純に不平等ではないか。 「母さん、いいね? 今からすぐ近所のATMへ行って、振り込んでほしいんだ。もう夜遅いし一時間後には閉まっちゃうから、急いでね」 時間を早めに区切ってターゲットを焦らせるのも、こういった詐欺のよくある手口だ。何から何まで典型的すぎて、張り合いがない。そんな風にさえ思う。 ここで電話を切り、相手に言われたことを何もやらないですぐ警察に通報するのも一つの手だ。どうせ犯罪者は巧みに逃げおおせてすぐまた別の標的を見つけ、近寄っていく。事態は何も変わらない。どうにも消化不良な結末。 だからこそ、多恵子はちょっと反発してみようかという気になった。 「ところで孝ちゃん、思い出したことがあるんだけど」 「何だい母さん。用件はもう伝えただろ。一時間以内に必ず振り込むこと、いいね」 「孝ちゃんは確か、中学へ上がる前に亡くなったはずなんだよねえ」 電話口で絶句する様子が感じ取れた。手ごたえ充分だ。 「そのころお父さんは仕事で忙しくて、よく家を空けてたから、家には孝ちゃんとお母さんだけの日が多かったと思う。お母さんは孝ちゃんのことが気に入らなくて、よく叩いたり煙草の吸殻を押し当てたりしてた。孝ちゃんがちっとも自分に似てないから、別の女が産んだんじゃないかって疑ってたのね。バカバカしい、お腹を痛めて産んだのに自分の子供じゃないなんて、お母さんもよくそんなこと疑えたものよねえ」 「母さん、何を言ってるんだい……?」 「ある日火事があって、家は丸ごと焼け落ちた。孝ちゃんは死んで、お母さんは生き残った。原因は不明、煙草の不始末とも放火とも言われてる。今の家は建て直したものだけど、お母さんはそのころからますます頭の調子が悪くなって、今度はお父さんにつらく当たるようになったのね。あなたが家を空けてたから孝幸は死んだんだ、責任取りなさいよ、って。そしてとうとう、去年の暮れにお父さんは心労に耐えかねて自殺しちゃった」 「え、うそ……」 相手も思わず演技を忘れて素の状態に戻ったのだろうが、嘘ではない。知っている限りの事実を並べ立てたつもりだ。赤の他人である犯罪者相手だからこそ、自分のやりたいように言葉を連ねていくことができた。 「ねえ、孝ちゃん。孝ちゃんは小学生で自動車免許とれたのね。えらい。おまけに黒焦げの身体で、ハンドル握って運転してたんでしょ。すごいじゃない。顔にキズのある怖い人なんて、孝ちゃんの見た目の迫力で追い払ってやりなさい。いいわね?」 言い終えてから、しばらく相手が返事するのを待っていた。が、ずっと無言のままだったので切った。頭のおかしい女性高齢者を侮蔑する罵詈雑言が飛んでくるかと思ったのに、あっけにとられて何も言えなかったようだ。多恵子は拍子抜けした思いだった。 何にせよ、稚拙な詐欺犯のおかげでびっくりするほど平和な時間をすごすことができた。ほんの三十分前の体験が、まるごと記憶の彼方に飛んでしまったほどだ。 だがそれで過去が変わるわけではない。一度起こってしまった事態は元には戻らない。改めて床の間を見やる。最悪なことに、『あれ』は本物の現実なのだ。 多恵子は受話器を握りしめたまま、新たに三つのボタンを押した。
「もしもし、警察ですか。わたくし、先ほど鎌田美代子さんを殺しました。美代子さんの家から電話しています。美代子さんは床の間に倒れています。もう息をしてません。申し遅れましたが、わたくし、篠山多恵子といいます。鎌田成彦さんとは、かれこれ五十年以上親しくさせていただいておりました――」
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短いお話を書く練習になれば、と思って使わせていただいてます。 今回も三時間くらいかかりました。
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