大人の事情 ( No.3 ) |
- 日時: 2014/10/06 23:35
- 名前: RYO ID:.cmI8mfU
カウンター越しに常連客が、彼女のささくれだった薬指に、指輪をそっと通していく。 サイズでも間違っていればいいのに。 グラスを拭きながら思う。布巾をもつ手にいつもより力が入っていることを自覚する。 横恋慕--。彼女の名前さえ知らない。 初めて常連客に連れてこられた日のことは今も覚えている。突然の雨に降られて非難するように、二人で入ってきた。いつもは一人でしか来ない彼だったから、それはとても珍しかった。ほのかに上気した頬と、濡れた栗色の髪が印象的だった。 思えば、彼がここでプロポーズをしているのは、私へのあてつけなのかもしれない。私がいるときを事前にチェックしていた可能性だってある。 彼女は指輪を見ながら、うっとりとしている。きらきらとダイアモンドがライトを反射している。 「おめでとうございます」 皮肉を込めて、にっこり微笑んでみせるが、幸せの絶頂の二人には届かないらしく、「ありがとう」とあっさり返された。 もっとも、うちで告白をしたカップルが再び二人で来店したことはないのだけれど、幸せそうな二人には些細な問題なのだろう。しばらく待てば、きっと彼は一人でやってくるに違いない。 グラスを拭く手に力が入っていることを自覚して、思わず笑みがこぼれた。
ささくれができていた。左手の薬指のだ。これでは、たった今通してもらった婚約指輪よりも、ささくれのほうが気になってしかたない。もっともサイズが合わなかったら、どうしようとかいう緊張がなかったと言えば嘘になる。それならそれでも構わない。指輪の価値が替わるわけでもない。仕事上、指輪をすることはないし、それならそれで都合も悪くはなかった。幸い、彼は十分に私の指のサイズを覚えておいてくれたようだ。それはとてもうれしいことでもあった。 彼ににっこりと笑って見せる。カウンター越しの店員さんのまなざし一瞬険しくなったようにも思ったけれど、関係ない。意外とささくれを私と同じように気にしているかもしれない。みっともないと。もっとも、今日指輪をくれるなんて思ってもみなかった。それらしい兆候はあったのだけれど、ここは彼なりのサプライズということで、素直に喜んであげるのが、私の努めというもの。 「素敵」 うっとりするような声をだして、左手の甲を自分の顔に向けて、指先をピンとのばして見せる。ダイアモンドに照明がきらきらと反射して目に飛び込んでくる。それでも、ささくれは視界に入ってきて、声を殺して笑った。 「何かおかしかった?」 彼が聞いてくる。 「ううん。なんでもない。ちょっとささくれが気になってね」 ホラ、と指先を彼に示す。指輪よりもプロポーズよりもささくれが気になるなんて、なんてひどい女だろう。これで結婚がだめになるかもしれないと頭の中で警鐘が鳴る。もっとも、ここまできて駄目になるなんて、想像したこともないし、そんな経験はこれまで一度もなかった。 ここまできて、今更よね。 目の前の彼は少し上気して頬が赤く染まって、いて、ハンカチで今日何度目かの汗を拭っていた。緊張の糸が切れたのか、安堵のため息をつく様子がかわいい。 独身の地方公務員。まじめでタバコもギャンブルもしない。酒はつきあい程度で、趣味は特にない。長所もまじめなら、短所もまじめな男性。デートはいつも私の好きなところにいって、最後は必ず、彼の住むマンションの一階にあるこの喫茶店でコーヒーを飲む。おきまりのパターンを続けて、一年ようやくここまで、こぎつけた。 きらきらと光るダイアモンドの輝きはこれからもきっと変わらない。
ささくれていた。彼女の左手の薬指のことではない。私の心が、だ。 彼女の左手の薬指にダイアモンドの指輪を通す。柔らかく白い手を取って。自分の手が震えていることに気が付かれてはいないだろうか。懸念していることは、指輪のサイズだけ。プロポーズが断られることなんて、微塵も考えていない。ただ失敗は許されなかった。 彼女との出会いは、職場近くのビルの最上階に店を構えた高級バーだった。仕事に行き詰まったり、ストレスでどうしようもなくなったときに、一人でグラスをかたむけにきていた。私の唯一と言ってもいいくらいの、趣味らしい趣味であり、ごくたまの贅沢だった。 話しかけてきたのは彼女の方からだった。ちょうど、付き合っていた彼女と別れたようなことを話したことを覚えている。彼女は親身に私の話を聞いてくれた。それから付き合うまでには時間はそうそう掛からなかった。彼女も最近男から裏切られたのだという。お互いに過去を詮索し合うことはなかったから、語りたくもないことを語らなくてもいいのは、都合がよかった。 彼女は私とは違って、アクティブな女性だった。新しい店がオープンしたと聞けば、すぐにでも出かけていったし、新作の映画は公開初日が常だった。そんな彼女だから、灰色だった私の世界はいつしから色づいていった。何より、彼女の連れて歩くと、その美貌に振り返る男たちの視線に、私は心密かに誇らしく思うと同時に、男とはこんなにもバカであることに内心嘆息を吐いた。 彼女と未だ男と女の関係にないことは幸いなことだった。 「そういうことは、結婚をしてからにしよう。君は古風と思うかもしれないけど」 長所は真面目、短所はクソ真面目で通してきたから、彼女は大きくは疑わなかった。多分、彼女は私がまだ男性であると信じて疑ってはいないだろう。ここまでくると少し悲しくはあるけれど。 彼女の左手の薬指に指輪を通そうとする私の手が震えているのは、そんな理由だけではない。この指輪は結婚寸前までいった元彼が「もうあげたものだから」と、私に押しつけていったものだからだ。もらったまま、一度も付けることがなかった指輪がまさかこんな形で役に立つなんて、思ってもみなかった。サイズは大丈夫だろうか? 合わなかったら、いや、もしも彼女が勘づいたら、この一年の苦労は水の泡だ。男の振りをし続けた一年が、パーになるのだ。地方公務員で、タバコもギャンブルもやらず、酒はたしなむ程度なんて設定の一年もーー嘘ではないけれど。とにかく、ご破算だけはどうしても避けたい。 経費削減なんてクソくらえ。いくら命令とはいえ女性刑事である私に、男装して結婚詐欺師に近づけなんて、あんまりだ。もっとも、捨てるに捨てられなかった指輪がこんな形で役に立つとは思ってなかったけど。 とりあえず、指輪は通った。彼女は指輪よりも、ささくれの方が気になっていたようだけど、それはもう些細なこと。結婚詐欺師である彼女の逮捕までもう少し――。 常連客のプロポーズを店の奥から覗きみながら、今日何度めかの溜息をつく。指輪はすっと、左手の薬指に収まる。 似ている。容姿というよりも、雰囲気が。もしかしたら、整形でもしたのかもしれない。いや、それなら納得がいくか。 この喫茶店を開く六年前のことだ。結婚詐欺にあったのは。開店資金をもっていかれてしまった。若かったと言えば、若かった。それくらい魅力的であったことは今も変わらない。あのとき、彼女は忽然と姿を消した。救いだったのは借金まではなかったことだろうか。人探しとして、警察に相談したら、詐欺の可能性が高いと言われた。考えて見れば、彼女のことを何も知らなかった。どこに住んでいるのかも、どんな仕事をしているのかも。 彼女との出会いはまだコーヒーの修行をしていた喫茶店だ。彼氏に振られたのだと泣いていた。思えば、あれは演技だったのだろう。そう演技だったのだ。 再び開店資金が貯まるまで、二年かかった。店を開くにあたって、決めたことがある。客の恋愛には首をつっこまない。手痛い失敗で学んだことだ。客が恋愛相談しようものなら、 「うちで恋愛相談されたお客さん。始めは良いらしいんですけど、すぐに駄目になるらしくてね」 と、店の奥に引っ込むことにしていた。そんなことばかりしていたから、カップルでくる客はめっきり減ってしまった。 が、今、目の前にだまされようとしている男性がいる。大切な常連客が、だ。 もしも人違いだったら、どうする? こんなに失礼な話はない。せっかくの結婚を駄目にしてどうする。 でも、もしも本当に詐欺だったら、どうする? 私と同じ被害者を作るのか? だまされるほうが悪いのかもしれないが・・・・・・これだから恋愛に首を突っ込むのはイヤなんだ。
「マスターからも一言お祝いを」
カウンターからバイトがのれんをめくる。マスターと女性客の目が合う。一瞬の間が訪れる。二人にしか分からない、一瞬が永遠とも思える瞬間ーーちくちくと心にささくれができたような痛みを覚える。 「ごめんなさい。体調が良くないみたい」 女性客が席を立とうとする。 「せっかくですから、コーヒーだけでも。おい心ですよ。ここのは」 男性客も席を立つ。身長は女性客とそんなに変わらない。 「いえ、今日は本当に結構ですから」 「ああそんなに体調が悪いのでしたら、送っていきますよ」 女性客が店を出ていくのを追いかけるように、男性客も出て行く。「マスター、埋め合わせにまた来ますから」とドア越しに店内に響いた。 「急にどうしたんですかね? プロポーズはうまく言ったみたいでしたけど」 バイトはどこかうれしそうだった。 「大人の事情って奴だろう。やはり人の恋愛に首を突っ込むのは良くない」 苦虫を噛みしめたように、マスターは眉を寄せた。 「そんなだから、恋愛のうまくいかない喫茶店とか言われるんですよ」 「今日はその名前が誇らしげに思えるな」 マスターは今日何度目かの溜息をついて、「彼らはもう二度と来ないだろうよ」と確信をもってつぶやいた。もっともこのバイトが詐欺に合わずにすんだことや、一人の男性常連客が減って、女性の常連客が増えたことは誰も知らない。
--------------------------------------------------------------------------------
久しぶりの三語です。楽しくかけました。 4000字くらいで、2時間を少し超えたくらいでしょうか。 冒頭は、変えてません。 思いつきで、登場人物視点で混ぜ込んでみました。 一人よがりになった気がしますが。
ちょっと一部修正しました。わかりにくくてすいません。
|
|