嵐の森で ( No.3 ) |
- 日時: 2011/04/03 19:58
- 名前: HAL ID:ELhVxtv2
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
第100回、おめでとうございます! 記念と思ってひさしぶりに投稿したのはいいけれど、えらく暗い話になってしまいました……。悲劇がおきらいな方は注意願います。 ----------------------------------------
――負けるな。 その声が、耳の奥に谺していた。アーシャは唇をかみ締めて、ひた走る。雨に濡れた黒髪が頬に張り付く。上がった息がひゅうひゅうと喧しく鳴っている。 轟々と唸る風。折れた枝が鋭い音を立てて耳元を掠める。嵐の夜、森は普段の穏やかさをかなぐり捨てていた。 奥へ。もっと奥へ。森の奥深くへ逃げ込めば、誰もそこまでは追ってくるまい。それに、きっと風も樹々に遮られて、いくらかは弱くなるに違いない。 駆り立てられるようにして、アーシャは走る。ときおり根に躓きながら。手にした角燈には、硝子の風防が設えられてはいるものの、油の残りはもう心もとない。 アーシャはにじみそうになった熱い涙を、息を吸ってどうにか押し留め、ぐいと顔を拭う。泥水に汚れた顔は、青ざめている。安物の布だけれど、自ら丁寧に仕立てたドレスは、ぐっしょりと雨に濡れそぼって、もとの清楚な美しさは見る影もない。 ――負けるな。 耳に何度も蘇るその声に、縋るようにして、アーシャは走る。低く呟くようなあの人の声は、けれど熱を孕んでいた……
――申し訳ないが、と、あの人はいった。 「それはわたしに、出て行けということなの」 そう食って掛かったアーシャに、しかしあの人は、表情を変えずにうなずいた。 湿った風が吹いていた。屋敷の庭は宵闇に包まれて、ざわめく樹々が二人のやりとりをときおり遮った。 「貴女は美しすぎる」 その言葉にはじめ、アーシャは笑った。彼には似合わない冗談だと思ったのだ。だから軽く笑い飛ばそうとした。だが、男の表情がちっとも変わらないのを見て、アーシャは笑いやんだ。 「美しすぎて、何が悪いっていうの」 「過ぎた美貌は妬まれる。嫉妬は人を狂わせる」 アーシャは耳を疑った。あの男の言葉とも思われなかったからだ。なぜなら男はそれまで、一度だってアーシャの美貌を誉めてくれたことはなかった。そんな相手だからこそ、アーシャもひそかに好意を抱いていたのだ。ほかの、彼女の美貌を口々に誉めそやす男たちの誰よりも、そのぶっきらぼうな態度をこそ、アーシャは好んでいた。 だがその男がいま、苦く唇をゆがめて、彼女の美貌を非難する。アーシャはかぶりを振って、男に詰め寄った。 「そんなのわたしのせいじゃない。好きでこの顔に生まれてきたわけではないわ」 「貴女のせいではない。だからこうして、頭を下げに来た。すまないとは、思っている」 「それなら、せめて口添えをしてくださったって、いいじゃないの」 「俺には、主への恩がある。命に背くことはできない。それに……」 「それに?」 「……急がなければ、貴女の身が危険だ」 アーシャは笑い飛ばそうとして、失敗した。男の目が、真剣だったからだ。 「何、それ。魔女の疑いでもかけるっていうの? わたしの肌には痣もないし、針を刺したらちゃんと血が流れるわよ」 「奥方様は怒り狂っている。あの方の生国を、貴女は知っているか」 その国の名前を思い浮かべて、アーシャは口をつぐんだ。古い書物に読んだ、血塗られた歴史が頭を掠めたのだ。 「暗殺はあの国のお家芸だ。貴女も見たことがあるだろう、奥方様が嫁いでこられたときに国許から連れてきたという、若白髪の男を。あの男は、そういう役目のものだ」 その下男の顔は、アーシャも知っていた。口を利いたことはないが、陰気な笑い方をする男だ。 「奥方様が、あの男に貴女を始末するように命じているところを、俺はこの耳で聞いたのだ」 そんなおそろしい話があるはずがないわと、アーシャは叫んだ。 「声が高い」 「だって何もかも、誤解なのよ。旦那様との間には、何もなかったわ。指一本、ふれられたことさえないのよ」 「奥方様は、そう思ってはいない。使用人どもが、面白おかしく噂するから」 「それを貴方も信じているの?」 アーシャがきっと睨みつけると、男は頷きも、否定もしなかった。 「いますぐ、逃げるんだ。この時間なら貴女の姿がなくても、いっときは気づかれないだろう」 「そんな。だって、ここを出て、どうしろっていうの」 アーシャは震える息を吐いて、よろめきそうになる足を、どうにか踏みしめた。 男はただ感情の読めない黒い瞳でじっと彼女を見つめかえして、たったひとこと、呟くように言ったのだ。 「負けるな」
アーシャは泥だらけになった靴を脱ぎ捨てながら、熱い息を漏らす。堪えそこなった涙も、すぐに雨に混じって冷えきってしまう。 彼は何に負けるなと言ったのだったろうか。美貌の女にまとわりつく偏見と悪意に? それとも奥方の放つ刺客の魔の手に? このまま、着の身着のままで逃げ出すのがいいと、男が示したとおりに、アーシャは逃げた。ほかにあてもなかったからだ。着替えを取りに戻る余裕もなかった。 男に手渡された小さな荷、水の入った皮袋と、わずかな食料、角燈が一つ、それからいくばくかの銀貨。ただそれだけを持って、整備された道ではなく、森の小道を縫うようにして、アーシャは逃げた。夜闇に紛れて、まるで罪びとのように。 何者かにあとをつけられていると気がついたのは、一刻もしてからだった。
走っていると、頭に薄膜がかけられたように、思考がまとまらなかった。断片的な思いばかりが、浮かんでは、雨に剥ぎ取られるようにして流れ去っていく。はじめに思い浮かべていた小道ではなく、樹々の間を縫って、道なき道をアーシャは走る。 奥へ。森の奥へ。もっと奥へ! 嵐がおさまる気配はなく、樹々の天蓋を縫って落ちてくる大粒の雨が、アーシャの肌を冷やしていく。嵐を避けているのか、森に棲むはずの獣の気配が遠いことが、救いといえば救いだろうか。 ひときわ太い根に足をとられて、アーシャは転んだ。とっさについた手のひらが擦りむけて、一拍おくれて血がにじむ。それも雨に打たれて、すぐに流されていく。 アーシャはその場でうずくまった。樹の根元で、雨に打たれながら、ただドレスの裾の破れ目を見つめていた。 遠く、雷鳴が鳴っている。雨がひときわ強く、森を殴りつけた。 もう立ち上がれない。
追っ手に腕を掴まれたのは、足音に気づいて走り出してから、半刻ほどのちのことだった。本当なら、もっと早くにつかまっていてもおかしくはなかったのだ。その男が自分の逃げ惑うようすを楽しんでいたことに、アーシャは地面に引き倒されたあとで、ようやく気がついた。 引き倒された拍子に破れたドレスの裾に手をかけると、若白髪の男は、下卑た笑いを浮かべた。その血走った目に向かって、アーシャは鋭く叫んだ。 「わたしが何をしたというの」 「旦那様を誑かした魔女が、ずいぶんと立派な口を利くものだ」 異国の訛りのある口調で、男は嘲笑した。 「誤解よ」 「奥方様がそういえば、それが真実なのさ。諦めな」 男はいって、アーシャの濡れたドレスを引き剥がしにかかった。どうせ殺すなら、その前に楽しもうというわけか。血の上った頭でそう考えたのと同時に、アーシャは男の首筋に爪を立てていた。女の非力な指で、頚動脈を破れるはずもなく、爪はただ皮膚に小さなひっかき傷を作っただけだったが、男は怒号を上げて、アーシャの頬を張った。 石にぶつけてくらくらする頭の中で、アーシャは笑った。開いた唇の中に、雨が落ちる。もうどうにでもなればいい。世界が悪意に満ちているのなら、わたしも悪意でそれに報いよう。
樹の根元に座っていると、風雨はいくらか遮られて、上がっていた息も、徐々におさまってきた。それでもまだ上空では、風の渦巻く音が聞こえている。濡れた服が体温を奪って、アーシャは震えた。 角燈の灯は、すでに消えていた。膝を抱えて、彼女は目を瞑る。その瞼の裏に、絶息した男の、泥に汚れた若白髪が浮かんだ。剥かれた目玉と青ざめた唇もまた、その視界に焼きついて、離れない。 毒を塗っていた爪を指先で拭い、アーシャは震える息を吐く。そのとたん、心の表面を覆っていた薄膜の、最後の一枚を剥ぎ取られて、アーシャはけたたましい笑い声を上げた。 魔女、魔女、魔女! ただ毒と薬のあつかいに長けるばかりの賢い女たちを、どうして世の人々はあれほど無闇に狩り立てようとするのか。彼女を長年苦しめてきたその疑問が、いまになっては皮肉だった。 毒を使って人の命を奪ったのは、初めてのことだった。自分が震えているのが、寒さのためなのか、感情の高ぶりのためなのかわからず、アーシャはひっきりなしに声を立てて笑った。 ――負けるな、と、記憶の中で男がいう。 でも、何に? 嵐の森でアーシャはむなしく男に呼びかけ続け、その端から、声は雨音に吸い込まれていった。
---------------------------------------- 三時間くらい……かな。自分で提案しといて「負けるな」のこのネガな使い方はないよなー、とちょっと真剣に反省しました(汗) お目汚し、大変失礼いたしました!
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