二月十四日に ( No.2 ) |
- 日時: 2011/01/31 01:22
- 名前: RYO ID:lmhg1uBw
兄貴が死んだのは、三年前の二月十四日のバレンタインデーだった。「コンビニに行く」と、にやけた面で大嘘を吐いて家を出て行った。病院から電話がかかってきたのは、それから二時間後だった。その日が雨だったのは、今も憶えている。兄貴は二十歳だった。 母親がおかしくなったのは、それからだった。「うちの子を誰が殺した?」が、口癖になった。誰かが悪ければ、誰かを恨めれば、母親もおかしくなるなることはなかっただろう。けれど、誰も悪くなかった。兄貴の死は、雨で滑って転んだ子どもを避けようとした車が、突っ込んできためで、運が悪かったというよりほかなかった。誰も責めることのできなかった母親は今、精神科に入院している。 母親を支えるべき、父親は今まで以上に仕事にのめり込んで、家庭を顧みることはなくなった。今は、単身赴任をしたまま、家に帰ってくることはなくなった。兄貴の死をどう思っているかは、それで十分だった。毎月銀行に生活費と入院費用が振り込まれていることが、父親が生きている証だった。 あの日、兄貴を呼び出した彼女は、名前を美緒と言った。兄貴の葬式で、俺たち家族の前で泣き崩れたときは、家族の誰もがどうしていいのか分からなかった。彼女がぽつりぽつりと零した言葉に、俺たち家族は言葉を飲むしかなかった。彼女を責めてはいけないことは頭のどこかで分かっていた。それは、良心なのか、世間体なのか、倫理なのか、道徳なのか、それら以外の何かだったのか、分からないが、「貴方が兄貴を呼び出すことがなければ」という思いと葛藤があったことは確かであり、今もそれは続いている。 兄貴と彼女は地元の大学で知り合った。同じゼミで、お互いに自然と惹かれあったようだ。彼女は確かに兄貴が好きになりそうな、鼻筋の通った色白の女性だった。一言で言えば、美人だったわけで、そんな美人が、平凡な兄貴のどこを好きになったかは今も分からない。彼女がそれを話すことはなかったし、今もない。今もないというのは、俺と会っているからだったりする。いや、会っているというのは正確ではない。二月十四日に俺が会っているというのが正しいのだろう。 俺が彼女にあったのは、片手で足りるというか、片手にも満たない。でも、それでも、俺は彼女が、美緒が好きになってしまった。一目惚れというものがあるのなら、こういうことを言うのだろう。でもそれは、兄貴が死ななければ、芽生えることのなかった感情なのかもしれない。 彼女が泣き崩れながら、俺たち家族に許しを乞う姿に、その一途さと健気さに俺は不謹慎だと感じながら惹かれてしまった。それから一年後、兄貴の墓参りをした二月十四日に、偶然にも彼女と再会したことに、運命さえ感じた。けれど、彼女は墓石の前に立つを俺を見て、気まずそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべいた。ああ、彼女の目には俺は映っていないことを知った瞬間だった。俺はただ会釈をしてその場を離れるしかできなくて、それでも彼女が気になったから振り返って、彼女は大事そうにピンクのチェック柄の包装紙にラッピングされた箱を墓石に置こうとしたけれど、ためらった後にそれを止めた。それを見た瞬間に俺は走り出していた。ただ訳もなく、訳も分からず走った。 去年の兄貴の命日も彼女は墓参りに来てくれた。やっぱり、彼女は大事そうにブルーの包装紙を抱えていた。それを見た俺は無性に悔しくなって、 「母は入院しました。精神病院に」 そう口に出してしまった。彼女が息を吸うのが分かった。自分の矮小さを知る思いがした。別に彼女を傷つけるとか困らせるとかそういう気持ちがあったわけではなかった。ただ――何を言っても言い訳に過ぎないのだろう。いっそ、兄貴の自分が死ねば良かったのかもしれない。 兄貴は俺と違って、出来がよかった。勉強も、スポーツもできた。出来たといっても、平凡なものではあったけれど、兄貴は努力する才はあったし、少しずつ出来なかったことを出来るようにするのを楽しむような奴だった。なんでも諦める俺とは正反対だったとも言える。だから兄貴が羨ましくもあったし、馬鹿にもしていた。どうして、そんなに頑張るのかと。多分、悔しかったのだろう、俺は。彼女は、きっと兄貴のそんなところに惹かれたのだろう。そして、俺はやはり兄貴には勝てないのだろう。
そして今年の命日にも彼女は来ている。もうすぐ赤く沈んでいく夕日が、どこかもの悲しくて、吹き荒む木枯らしが冷たい。俺は彼女に後ろから歩み寄りながら見ている。彼女は俺に気付くことなく呟く。 「もう少し、あなたを好きなままでいてもいいかしら……」 その呟きは俺の耳にもはっきりと聞こえた。胸をかきむしりたくなるような衝動に駆られる。もう兄貴のことなんていいじゃないか。そんな思いだけが駆け巡る。立ち止まった俺に彼女は気がつく。少し驚いた表情を浮かべて、 「こんにちは」 と笑った。悲しげに。切なく。 「こんにちは」 俺はそう反射的に返す。 「今年もいらっしゃったんですね」 そう目を閉じたのは彼女。 「今年も来てくれたんですね」 そうやっと呟いたのが俺だった。 「兄貴も喜ぶと思います」 その言葉に皮肉が混ざっていたことに気がついたのは、吐いたあとだった。 「ありがとう」 彼女はそれでも、俺に微笑んでくれた。 彼女は静かに両手を合わせる。俺は彼女の後ろでただその背中を見つめる。何も出来ない。ただ立ち尽くすだけ。永遠とも思える一時。俺は一体ここに何をしに来ているのか。そう思い至ったところで、彼女がゆっくり振り返る。 「私はこれで」 彼女は静かに頭を下げて立ち去ろうとする。呼び止めたい衝動に駆られる。けれど、俺はそれを必死に飲み込む。 「あ、そうだ」 彼女は今思い出したように言ったけれど、それはどこか演技ぽかった。 「これを――」 おずおずとバッグから、それは差し出された。ダークブラウンの包装紙に包まれたそれは、不意打ちのようでもあり、俺に一瞬の喜びをもたらして、次の一瞬で、唐突に理解した――たとえそれが独り善がりの理解であったとしても。 俺はそれを静かに右手で受け取った。右手の感触はやたらと重かった。 「ありがとう」 と、彼女は静かに言うと、そっと踵を返した。沈んでゆく夕日とともに、彼女が遠くなる。 分かっている。これは、彼女の封印なのだ。これは俺にプレゼントされたのではなく、彼女の中の一つの儀式なのだと。俺に渡すことで、彼女の気持ちの封印なのだ。 俺の右手のそれは確かに見た目以上に重かった。片手で持てるけれど、俺の両手で持つには重過ぎるほどに。 「なあ、兄貴。どうして俺たちは、同じ顔なんだろうな。どうして俺たちは、双子なんだろうな……」 俺は兄貴の墓石を前に呟いた。分かっている。誰も悪くない。誰も。俺も。父親も母親も。それでも、俺は――。 頭の片隅で理解していることと、どこかで否定したいことと、それに伴う感情は今も追いつかない。死んだはずの兄貴と同じ顔の俺が生きている。その意味は――。 声にならない叫びを俺は夕焼けに空に叫んで、手にしていたそれを地面に叩きつけようとして、膝から崩れ落ちて泣いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――― いろいろ考えた末に、誰も救われない話に。 もともとギャグを考えていたのに。
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