月明かりに輝いて ( No.2 ) |
- 日時: 2011/04/11 00:40
- 名前: RYO ID:uwX1DpyI
雨夜だった。しとしとと静かに振っていた。咲き誇っていた桜は、散ってしまわないだろうか? この雨に濡れることは構わない。 翔子が歩く桜並木の桜が、どうなっているか。薄暗い街灯では知りようがない。多分、このくらいの雨では散ることはないだろうと、期待を込めることくらいはできる。それでも、薄明かりに淡く映える桜は綺麗だった。時間は深夜の三時を過ぎたくらい。傘はない。一時間前までいたバーに忘れてきた。 翔子がバーを飛び出してきたのは、怖くなったから。なんてことをしてしまったのだろう。涙があふれて止まらない。酔いに任せて、眠ってしまえればどんなに楽だっただろう。けれど、意識ははっきりしている。ほろ酔いなんて、もうとっくにすぎて、冷たく振る雨が、眠気を殺してしまっていた。ベンチに座り込みたい。びしょ濡れなのだからそれもいいかもしれない。でも、座ってどうしたらいい? ぐちゃぐちゃとなった頭の中は整理することはできない。 翔子が恋人の聡史から、「結婚してほしい」と言われたのは、さっきまでいたバーだった。綺麗なバーだった。真っ白なブラウスを着た女性のバーテンダーが、フットライトの眩しいカウンターでシェイカーを振るうバーだった。どこか無表情な人形を思わせるほど綺麗なバーテンダーだった。長く黒い髪を上げて、白いうなじがまぶしくて、シェイカーからグラスに注ぐ指先はすっと長くて、差し出された桜色のカクテルはきらりと輝いて、思わず見上げたバーテンダーはほのかに微笑んでいて、翔子はもうどこにいるのかも分からなかった。桜色のカクテルはほのかに甘くて、「あっ、美味しい……」と口からこぼれて、翔子の胸を高鳴らせるに十分だった。女性のバーテンダーがにっこりと笑みを浮かべて「ありがとうございます」と深々と頭を下げて、翔子はその立ち振る舞いに目を奪われてしまっていた。 「いい店だろう?」 翔子をこのバーに連れてきた聡史は、どこか得意げだった。 聡史とは会社の同期として出会った。自信ありげで、仕事ができそうな様子が印象的だった。その印象そのままに、聡史は同期の中でリーダー的な存在になっていった。周囲からも信頼される聡史は、翔子にしてみれば眩しく見えた。憧れだった。会社に貢献できない自分が歯がゆくもあった。いつのまにか、聡史を目で追いかけるようになっていた。聡史とはときどき目が合うようになって、少しは脈があるのかと思うようになって、すぐにそんなことはないとかき消して、溜め息を吐く。どうすれば聡史に釣り合う女性になれるのかばかり考えるようになった。自分を磨こうと、仕事も頑張った、料理も勉強した、ダイエットもした。それでも、聡史はあっさりと主任になってしまうし、いつも女性が取り巻いて媚を売るかしていたし、上司は聡史を信頼していつも仕事を任せていた。翔子がどんなに頑張っても、聡史は手の届かないような男性なのだと、諦めようとしていたときだった。同期で飲みに行ったときだった。聡史から「付き合ってみないか」と告白されたのは。帰りが同じだからと送ってもらっていて、「本当は俺の家、逆方向なんだけど、今を逃したらもうチャンスはなさそうでさ」と、照れくさそうに笑う聡史は少年のようだった。翔子はあまりのことに泣き出して、聡史はひどく狼狽していた。もう一年も前のことだ。入社して四年目を迎えたときだった。 付き合い始めて、聡史と呼べるまで随分と時間が掛かった。聡史はすぐに翔子と呼んでくれたというのに。会社の方に付き合い始めたことは隠していたけれど、一月もしないうちにばれてしまった。原因は、休み時間に聡史が積極的に翔子の所に来るようになったからだ。あからさま過ぎで、そういうところには鈍感な聡史らしかった。 「これから一体どんな顔をして会社に来ればいいのよ」 と、翔子は頬を膨らませて怒ってみたものの、 「何か言ってくる奴がいたら、文句は俺が聞くよ。翔子はいつも通りしていればいいよ」 と聡史は気にも留めていなかった。 「あんなののどこがいいんだ?」 まもなく同期の男性社員がにやにやして、聡史に話しかけていたことがあった。「あんなの」とは間違いないなく翔子のことだった。その場面に出くわした翔子は思わず身を隠した。 「あんなの、ってなんだ? 俺の彼女のことか?」 「い、いや、彼女って、どこかどんくさいっていうか」 「どんくさい?」 聡史が冷たく睨みつけると、その男性社員は押し黙って、それ以上何も言わなかった。翔子は「周りからは、やっぱりそう思われていたんだ。でも――」と、ほのかに幸せに包まれていた。 聡史が見せてくれたダイアの指輪は綺麗だった。照明にキラキラと輝いていた。付き合って一年。お互いに三十を前に、意識していなかったわけではなかった。でも、なんとなくその話題は避けていた。少なくとも、翔子からはできなかった。聡史はいつも忙しそうで、今のままでも特に不満もなかった。それが、 「結婚してくれないか?」 と、聡史が指輪を見せてプロポーズされた瞬間、翔子の中で嬉しさがこみ上げてきて、指輪に手を伸ばして、聡史の顔を見る。聡史はどこか緊張して表情ではあったけどにっこり笑っていて、翔子は手を止めた。ちらりと女性バーテンダーを見る。目を閉じてシェイカーを振っていた。ピンと背筋を伸ばして、小刻みに慣れた手つきで、迷いなく。私は、どうだ? 翔子の中に、どうしようもない不安がこみ上げてきて、わけがわからず飛び出していた。 「あ、あああ、あああああ……」 翔子の口から嗚咽がもれる。翔子は雨に打たれて思う。なぜ、飛び出してしまったのだろう? 風が吹く。寒さが身に沁みて、翔子は歩みを止める。散る桜に、並木を見上げる。息を整える。雨が弱くなっていることに気がつく。雲の切れ間から静かに、月が顔を覗かせる。十六夜だった。眩しい月の光に、雨が止み、濡れた桜が仄かにきらきらと白く輝く。 翔子は唐突に気がつく。 ああ、私はただ不安だったんだ。 聡史と私は本当に釣り合っているのだろうか? 聡史はこんな私のどこが良かったのだろうか? 私は、聡史を不幸にしないのだろうか? 私にはもっとふさわしい人がいて、聡史にももっとふさわしい人がいて――。 翔子は一歩も動けなくなって、ただ立ち尽くす。月が雲に隠れて、再び闇が覆う。 そうだ。明日、聡史に謝って、別れよう。別れれば――ダメ。できない。 翔子の中で聡史の存在があまりに大きくなっていた。別れることなどとてもできない。一緒にいたい。一緒にいれれば、それでいい。ただそれだけ。ただそれだけなのに、『結婚』というのは、あまりに重くて、重くて――。 気がつくと翔子は「聡史、聡史」と泣いていた。 「翔子!」 前から走ってくる人影があった。聡史だ。翔子は振り返って逃げようとするけれど、足が震えて動かない。聡史が翔子の目の前に駆け寄ってくる。 「翔子、一体、どうしたんだ?」 「だって、だって、私、私、聡史みたいに、なんでもできないし、すぐ感情的になるし、ずっと聡史とは釣り合わないんじゃないかって不安で、不安でしょうがなくて、結婚っていきなり言われても、聡史には私なんかよりもいい人がいて、私なんかと一緒になってら、聡史は不幸になるんじゃないかって、私はもうどうしたらいいか分からなくなって――」 翔子は首を横に振り、泣きながらまくし立てていた。聡史はただ静かに聞いていた。終わるまで静かに聞いて、 「俺は、そうやって自分のことに一生懸命な翔子だから好きになったんだよ。不器用でも、上手く行かなくても一生懸命、頑張っているから。俺は言葉が下手で、あんまり上手く言えないし、全然伝えて来れてなかったと思うけど――」 聡史がそっと翔子を抱きしめる。 「翔子は翔子のままでいいんだ。無理に背伸びをしなくていい。俺に合わせる必要もない。だから俺とこれからもずっと一緒にいてくれないか?」 抱きしめられる腕に力がこもる。不安が安心に変わって、心が満ちていく。 「本当に、私でいいの? 我がままで、自分勝手だよ」 「知ってる」 「後悔するかもしれないよ」 「今、離れるほうが、もっと後悔する」 「苦労するよ」 「それはもうした。翔子の了見の狭さが思いやられるな」 「何よそれ」 翔子が聡史を見上げ、微笑む。 「やっと笑ったな」 聡史がほっとしたように笑う。 「覚えているか、ここ?」 「ここ?」 「一年前に、俺が告白したところ」 「あっ!」 雲が晴れて、月が顔を覗かせる。雨に濡れた桜が月の柔らかな光に輝く。自然と翔子と聡史は体を離す。 「あの日も桜が咲いていた」 「そうだったわね……」 「酔い覚ましに缶コーヒーを飲みながら」 「確か二人とも、BOSSのブラック無糖だったわね」 「そこまで覚えてない。告白で頭が一杯だった」 聡史は照れくさそうに笑う。 「聡史でもそういうことがあるんだ」 「好きな女に告白するときは、頭の中は真っ白だぞ」 「そんなことより――」 翔子が左手を聡史に突き出す。顔は桜に向けて。 「つけてよ」 聡史は優しく微笑んで、ポケットからケースを取り出す。 「あと、寒いから缶コーヒーが飲みたい。またBOSSのブラック無糖がいい」 「はいはい」 聡史は思わず苦笑して、ケースを開く。そこには月明かりに輝くリングがあった。 --------------------------------------------------------- 二時間強かかりました。 4000字行かないくらいです。 クデクデな子どもっぽい恋愛物になってしまった。 勢い任せです。
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