糠漬け ( No.2 ) |
- 日時: 2011/03/06 20:21
- 名前: 脳舞 ID:ZYlFTwm.
「ほれ、もっと沖まで行っとくれ」 「へいへい、人使いが荒いったらないぜ。まったくよお」 平助はぶつくさと文句を垂れながら、それでもゆっくりと船を漕ぎ出しました。お得意さんの頼みともあれば無碍に断る訳にもいきません。魚釣りのために小舟を出して一日仁八爺さんに付き合ってやれば、結構な収入になるのです。 「それがお前さんの仕事じゃろうが。そう言えば、お前さんのへちまみたいな顔を見て思い出したんじゃがな」 「誰がへちまみたいな顔だよ、失礼な爺だな」 「お前さんこそ爺は失礼じゃろうが。まあいい、そのへちまの話なんじゃが、あれは体を擦るのに重宝するじゃろ」 「年寄りの固い皮膚にはちょうど良いだろうな」 軽口を叩く平助を横目で睨みながら、仁八爺さんが竿の準備を始めています。 「最近は妙に高くての。買い替えるのを躊躇してしまう」 「すぐに駄目にしちまうほど固いのかい、爺さんの背中は」 適当な返事をする平助に、仁八爺さんも特に何かを言い返したりはしませんでした。所詮は退屈な時間の埋め草です。 「うむ、ここで良いぞ」 船を停めさせて満足げに釣り糸を垂れる仁八爺さんの隣で、平助は座り込むと後ろに両手をついて空を眺めます。お天道様がまだ上を目指している最中の秋空を、雀がさっと横切って行きました。 「……ま、ほとんどはこうしてぼんやりしていられるしな。楽な商売だ」 大あくびをしながら呟いてうつらうつらしている平助に、 「平の字、船を漕いどる場合じゃないっ……手を貸せ」 突然、仁八爺さんが騒ぎ出します。平助は苦笑を浮かべながらも竿を一緒に握って力を籠めました。 「つまんねえ駄洒落だな、爺さんよお……っと、こ、こりゃでかいな」 平助も仁八爺さんも必死になって竿を引きます。引っ張ったり引っ張られたりする度に船が大きく揺れ、今にもひっくり返りそうです。 「うわあっ」 仁八爺さんのその声は、悲鳴にも歓声にも聞こえそうなものでした。
平助はほくほく顔で往来を闊歩しています。その懐が平助には珍しいほど暖かだからでしょうか。 「へへ、魚のことになると気前が良くなる爺さんだからな。へちま代をケチってたくせによ」 先ほどの釣りで仁八爺さんは大きな秋刀魚を釣り上げて上機嫌になり、いつもより二朱ほど余計に船代を弾んでくれたのです。おまけにそれで満足したのか、まだ昼までも大分あるというのにそこで今日の釣りは終わりになりました。 こういう時の平助の行き先はひとつです。平助はひょいと小料理屋の中を覗き込むと、 「よう、もうやってるかい」 そう声をかけます。その声に、忙しく動いていた尻が振り返りました。 「あら、平助さん。ごめんなさいね、ここの掃除が終わったらすぐに開けますから」 鼠地に梅小紋の袷、藍海松茶の昼夜帯といった飾り気のない恰好の若女将は、にっこりと微笑みながら平助に答えました。 「お、おう。かまわねえからゆっくりやってくんな」 少しだけ伸びかけた鼻の下に手をやりながら、平助は顔を引っ込めて店の外に出してある長椅子に座りました。本来は順番待ちの客が腰かけるものなのですが、最近はあまり使われている様子がありません。 「女将、最近はどうだい」 店の外に出てきて暖簾を整えている若女将に平助が問い掛けます。若女将は少し困った顔をしながら、 「あまり流行ってないんですよ。これからいくつか値上げも考えなきゃならないっていうのにどうしましょう。平助さんがよく注文してくれる糠漬け、高くなる前に味わっておいた方が良いかも知れませんよ」 「糠漬けもかい。そいつはちょっと困るな。なんだってまたそんなことに」 平助が渋い顔をしました。 「糠が値上がりしてるんですよ。今漬けてある分が終わったら……」 若女将は頬に手を当てて溜め息を吐きました。釣られるように平助も溜め息を吐いて、 「そうかい。ま、糠だってちょっとずつ減るもんだしな。しかし糠が値上がりしたり、へちまが値上がりしたり、世知辛い世の中だなあ」 そう呟きます。若女将はぱちんと手を打ち鳴らしながら、 「そうなんですよ。へちまが値上がりしたのがそもそもの原因だってお話で」 よくわからないことを言いました。 「へちまと糠に何の関係があるってんだい。糠は米から出るもんだろ」 合点がいかないという顔で平助が眉を寄せます。若女将はそんな平助に説明を始めました。 「へちまを買い占めた商人がいるらしいんですよ。それで、僅かに出回っていたへちまが値上がりして」 「おう、そこまではわかるぜ。知り合いの爺さんもそんなこと言ってたな」 「そうなると今度はその代わりになるものの値上がりが始まって」 「……ひょっとして呉絽(ころ)かい」 呉絽とは堅い繊維の織物で、へちま同様に体を擦るのに用いられることのあるものです。 「……ええ。そうしたら次に豆の粉や米糠が値上がりしてしまって」 豆の粉や米糠は、石鹸が普及するまでは体を洗うのに用いられていました。 「……どこのどいつだ、そのへちまを買い占めた野郎ってえのは」 いつの間にか立ち上がっていた平助が、怒りにまかせて勢いよく長椅子に腰を下ろすと、平助の世界が突然ぐらりと傾きました。 「な、なんだぁ」 「あらあら、平助さん大丈夫ですか。お怪我はありませんか」 若女将に手を差し伸べられ、何が何だかわからないままに引き起こされるとようやくその理由がわかりました。長椅子の片側の脚が折れています。平助はそこから滑り落ちたようでした。 「こ、こりゃすまねえことを……」 「いいんですよ、もうかなりガタが来ていましたもの。平助さんが座った時がたまたまで、遅かれ早かれこうなっていたでしょうから」 転がる脚を拾い上げ、あっけらかんと笑いながら若女将がそう言いました。屈んでいるせいで白い胸地がちらりと覗き、顔を背けながらも平助の視線はそこに吸い込まれています。 ちょうどそこに、近所に住む大工の熊二が通りかかったのに気づいて若女将が立ち上がりました。 「熊二さん、ちょっとちょっと」 声をかけられて、熊二が若女将の方を向いてバツの悪そうな顔をしました。名前の通り熊のように大きな体が、心なしか小さく見えてしまいます。 「あ、女将さんか。悪い、最近は仕事が少なくて店に寄れるような懐具合じゃねえんだ」 「いえ、そうじゃなくて……お仕事を頼めませんか」 熊二はそれを聞くと安心した顔になって、 「おう、そういうことなら。何でえ、雨漏りでもしたかい」 腕をぐるぐると回しながらこちらに近寄って来ます。 「この長椅子なんですけどね、脚が折れてしまって」 「ぽっきりいってるな。女将さんの頼みだから手間賃は負けとくが、木材がちょっとなあ……」 長椅子を眺め回して頭をぼりぼり掻きながら、熊二が困った顔をしました。 「木材がどうしたんだい」 平助が横から嘴を差し込みます。熊二はお前いたのか、という顔をしながら、 「いやなに、近頃は高えんだよ。雨漏り直すだけなら適当な板っ切れでも間に合わせられるが、椅子の脚ときちゃあそういうわけにもいかねえからな」 腕を組んで難しい顔をします。 「おいおい、木材まで値上がりしてやがんのか」 平助が素っ頓狂な声を上げました。 「何だか知らねえが、最近は人足の合羽に使う呉絽が値上がりしてやがるらしくてな。木材の運搬なんて人手あってのものだから、余計な費用が嵩むとか何とかで……俺ぁ他の値上がりにかこつけた便乗値上げだと思うがね」 熊二が材木河岸のある遠くの川辺を睨みつけながら、そう言いました。 「呉絽ってことは……やっぱりへちまか」 「へちまがどうしたってんだ」 平助の呻きに、熊二が怪訝そうな顔をしました。若女将がその熊二に頭を下げます。 「でも直さないわけにもいきませんから、熊二さんお願いします。高くつくのは仕方ありません」 「……わかった。ちょっとひとっ走り、木材の調達に行ってくらあ」 言い残して駈け出そうとした熊二の腕を、平助が捕まえて言います。 「ちょっ、ちょっと待った」 「何でえ」 「仕事が終わったらここで酒呑ませてやるから、もう少し負けてやってくれねえか」 「……女将にいいとこ見せようって腹か」 にやりとしながら、熊二が平助の脇腹を小突きます。 「違えよ。あの椅子が壊れたのは俺のせいだからな」 「わかったわかった。そういうことにしといてやるから、酒を忘れんじゃねえぞ」 もう一発、強めに平助の脇腹を小突いてから、熊二がどすどすと音を立てて材木河岸へと走って行きました。 「違えってのに……あ、痛てて……」 脇腹をさすりながらそれを見送った平助は、 「女将、糠漬けくれ。それと酒も」 若女将を促しながら暖簾をくぐりました。
「ここのところ爺さんが姿を見せねえと思ったら、まさか寝込んでるとはなあ……」 ぶつぶつ呟きながら往来を歩いているのは平助です。ここ何日かは客らしい客も来ず、川面に映る自分と睨めっこをするのに飽きた平助はちょっとした思い付きから知り合いの店を訪ねることにしました。 「よう、ちょっと見繕って欲しいんだけどよ」 挨拶もそこそこに、平助は店主の弥六にそう持ちかけます。 「誰かと思ったら平助さんかい。今度の貢ぎ物は何処の女にするつもりだい」 「……俺が今までにいっぺんだってそんなことしたのかよ」 「いいや、ないね。で、何を見繕えばいいんだい」 弥六は涼しい顔でそんなことを言い、平助に促します。出鼻を挫かれたせいで、平助は少し言い出し辛そうにしながら、 「いやその、女に贈り物をしたいんだがな」 そっぽを向きました。頬が心なしか朱に染まっています。 「へええ、本当に女かい。半年も遅れて春が来るとはねえ」 「ち、違えよ馬鹿っ。詫びの品を贈りたいんだよ、小料理屋の女将に」 「……一体、何をやらかしたんだい。ま、いいや。予算はどれくらいだい」 平助が持ち合わせを告げると、弥六は渋い顔をします。 「女に送るってことは細工物とかかんざしってことになると思うんだけどね。駄目だめ、そんな金じゃウチの品物は譲れないよ」 すげなく首を横に振る弥六に、平助が食い下がります。 「そう言うなよ。少し前に来た時には手が届くくらいのものがいくつかあっただろ」 「あの時よりはいろいろと値が張るようになったからねえ。どうしても細工にこだわりたいってのなら、向かいの店で新粉細工でも買って行ったらどうだい」 新粉細工というのは餅状に蒸した米粉に細工を加え、動物や魚などの形にしたものです。黒蜜をかけて食べるのが良しとされています。 確かにお詫びの品としては、値が張り過ぎない新粉細工の方が適当ではあるのですが、明らかに馬鹿にした弥六の物言いに平助もこのまま引き下がる気にはなれません。 「安く仕入れるくらいの腕もないなんざ、目利きの商人が聞いて呆れるぜ。何でもかんでも値上がりしてるこのご時世に、変わらない値段で売ってこその一流だろうが」 平助が毒づくと、弥六は面白くなさそうな顔をします。 「へちまが値上がりして、あとは芋蔓式に高くなってるからねえ。ま、へちまを買い占めたのはウチなんだけどね」 「何だって」 「おっと、口が滑った。言ってしまったからには仕方ないが、へちまの相場を操作して一儲けしようと思ってね。もっと資金があれば他に関連して値上がりするものも買い占めて濡れ手に粟の銭を稼げたんだが……へへ、まだまだへちま相場は上がりそうだ」 悪どい笑みを浮かべる弥六を見て、平助は胸の内で吐き捨てます。 (お、おまえだったのか) 思いがけず黒幕に行き当たり、平助はどうしたものかと頭を悩ませます。 「なあ、米糠が値上がりしてるのは知ってるか」 「まあそりゃあ、値上がりしてても不思議はないねえ。たいしたうま味もないから手は出さないけど」 頭の中で算盤を弾きながら、弥六が答えました。 「おかげで糠漬けが高くなっちまってな。俺の船のお得意に釣好きの爺さんがいるんだが、こいつが今は寝込んでてな」 「ああ、あの爺さんかい。そう言えば近頃は姿を見ないと思ってたけど、臥せってるのかい」 「おう。その爺さんが毎夜毎晩、うわ言でこう呻いているらしくてな。『死ぬ前に糠漬けが食べたい、冥土の土産に糠漬けを……』だと」 平助のしわがれた声真似を、弥六は一笑に付しました。 「そいつはお気の毒に。しかしね、儲ける好機に儲けようとしない商人なんていやしないよ。そんなやつは商人失格だ」 弥六の悪びれない言葉に、平助は腹立ちを抑えるのに苦労します。 「なあ、死にかけた爺さんの儚い望みのためにも、へちまを手放してやっちゃくれねえか」 手を合わせて頼み込む平助からはもう視線を外し、商品の整理をしながら弥六は、 「しつこい男だね。そんな情けをかける理由なんてどこにもないよ」 しっしっと追い払う仕草さえしながらそんなことを言いました。 「このまま爺さんが死んで祟られても知らねえぞ。ひょっとしたら今頃はもうおっ死んでるかもな」 捨て台詞を吐いて店を出て行く平助には目もくれず、弥六は入れ違いに入ってきた客の相手を始めました。
平助が弥六の店を訪れた日の夜のことです。月明かりも頼りない薄曇りの空の下、弥六の屋敷の部屋にはぼんやりとした灯りが点っています。 「……笑いが止まらないね」 銭勘定をしながら、弥六が忍び笑いを漏らしています。それらをしっかりと仕舞い込んで、そろそろ床に就こうと立ち上がった弥六が雨戸を閉めようと庭に目をやった時、違和感を覚えてそのまま動きを止めました。 庭の漆の木と雲の隙間からは痩せた月がわずかに顔を覗かせています。風もなく、物音もない静かな夜です。 「気のせいか……」 呟いて、雨戸を閉める手に力を籠めた弥六はその途中で顔を強張らせました。 「あ……」 その後には絶叫が続き、屋敷の使用人が駆け付けた時には泡を吹いてひっくり返っている弥六がいた……というのは町で噂になっているのですが、本当のところはどうだかはっきりとはしません。 ただひとつ確かなのは、その翌日に突然へちまが大量に市場に流れ、へちまの値はもちろんのこと、引きずられるように他のものの値も下がったということです。
「……ああ、暇だ暇だ。暇だから昼間っから酒でも飲むか」 客の来ない船を放り出して、平助は若女将の小料理屋を訪れました。 「よう、もうやってるかい」 店の中を覗き込む平助に気づくと、若女将の尻が振り返りました。 「たった今、掃除が終わったところですよ。どうぞ中へ入ってくださいな、平助さん」 手招きされて、平助は座敷に上がるといつものように糠漬けと酒を注文します。 お銚子とお猪口、きゅうりとにんじんの乗った皿を盆に乗せて、若女将が平助のところへやってきました。 「平助さん、糠漬けの値上げはしなくて済みそうなんですよ」 お酌をしながら、若女将が平助の耳元で静かにそう言いました。 「へえ、そりゃよかった。米糠の値上がりが終わったのかい。これであの爺さんも安心して天国に行けるな。って言っても、でかい魚を釣った時に腰を痛めて寝てるだけだから死にゃあしねえだろうが」 お猪口を干して平助が笑いました。仁八爺さんは家に帰った途端に腰が痛いのに気が付いて、そのまま寝込んでしまったのです。興奮していたせいで直後は痛みに気づかなかったのでしょうが、釣り好きもここまでくると立派です。 「なんでも、糠漬けを食べさせろと恨み言を呻く幽霊が、へちまを買い占めた商人の屋敷に出たとかいう噂で……漆の木の上に現れた幽霊に肝を潰したその商人は青くなってへちまを手放したそうですよ。本当のところはどうなんだかわかりませんけど」 若女将がほっとした表情で空いたお猪口に酒を注ぎながら言いました。 「へえ、祟りってやつかね。怖い話もあるもんだな」 ぱりぱりときゅうりを齧りながら、平助は気のない返事をします。 「……平助さんの仕業でしょう。あら、仕業はおかしいのかしら。この場合はおかげかしらね」 「知らないね」 「あらあら、そうなんですか。お顔が少しかぶれているように見えるのはきっと気のせいなんでしょうね」 「布団を干すのをさぼったせいで蚤が湧いてな。まったく痒いったらありゃしねえ」 ぼりぼりとにんじんを齧りながら、平助はそんなことを言いました。いつもより糠漬けの量が多いことには気づかない振りをしています。 「ああ、そうだ。女将、この前の椅子を壊した詫びにはちょいとケチなもんだが、これ」 新粉細工の詰め合わせを差し出しながら、平助はお猪口を口へと持ってゆきます。 「あら、そんな気をつかわなくても……せっかくですから、今お出ししますね」 包みを持って奥へと引っ込んでゆく女将の尻に平助は、 「おいおい、酒に甘いものは合わねえって。店を閉めたらゆっくりとつまんでくんな」 そう言って、ここの糠漬けでも持って仁八爺さんの見舞いにでも行くか、などと考えながら良い音を立ててきゅうりを齧っているのでした。
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任意お題まで全部使ってみました。縛りの消化が甘いかなあ、と思います。 書いている最中に何故か時計の読み方を忘れてしまいました。一時間以上は「たくさん」です。 数の数え方も忘れてしまいました。六〇〇〇文字以上は「たくさん」です。
……ごめんなさい。
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