再会 ( No.2 ) |
- 日時: 2013/09/30 00:57
- 名前: Φ ID:ZoYl.lzQ
橋は二段構造になっていた。歩道は下段にしか設置されていないが、上段の影に入っているので見通しが悪いうえ、狭いのでいざというときの逃げ場がない。柵を越えた先にあるのは海だ。高さは目測で二十メートルといったところだろうか。十メートルで水面はコンクリートの硬さになると聞いたことがある。飛び込みや着衣水泳の訓練を受けたことのない私は、無事に岸まで辿り着く自信がなかった。 一方、上段の車道は大小の車がばらばらに停止し、遊園地の大迷路の様相を呈している。こちらも必要がなければ避けたい道だったけど、一本道よりかはいくらかましだと思えた。道中で有用な道具が見つかる可能性もある。行くなら上段しかない。背中のリュックに括りつけた金属パットの存在を右手で確かめ、私は気持ちを奮い立たせる。 予想していたとおり、車の中には白骨化しかけている古い死体が散見された。あの日、パニックになった人たちが一斉に島から出ようとして橋の上で渋滞を起こしたことは想像に難くない。無事にこの橋から逃げおおせた人も中にはいただろうか。道すがら、ドアから転びでた死体のポケットや車のダッシュボードを探り、ライターや十徳ナイフといった小物を掠め取っていく。幾つかの車は給油口が開きっぱなしになっていた。私のように後でやってきた者にガソリンを抜かれたのだろう。 奴らの呻き声が聞こえて身構える。足元からだ。上の道を選んで正解だったな、と一息ついて、何気なく跨ごうとした死体に目が止まった。見覚えるのある服装だ。米軍の払い下げ品のミリタリーコートに、編み上げブーツ。この期に及んで好んでこんな仰々しい格好をする人物はそう多くないだろう。うつ伏せになっている死体の頭を蹴り、腐りかけの顔――しかし周囲の死体とは進行具合が明らかに異なる――を露わにする。やはり、それはひと月ほど前に別れたばかりの岡くんだった。 岡くんとは駅前のビルの地下二階にあるスーパーマーケットで会った。私はエスカレーターの手すりをぎゅっと握りしめ、なるべく物音を立てないよう一段一段慎重に降りていた。最後の一段から足を踏み出そうとした瞬間、風切り音とともに頭のそばを何かがかすめた。背後で壁に物が当たる硬い音がして、それが矢であることを悟った。全身を駆け巡る戦慄が不思議と私を冷静にさせ、すぐさま口を開かせた。 「私に敵意はありません」 ドラマや映画の中でしか聞かない台詞。これが彼と最初に交わした言葉になった。まるで未開の地に済む原住民とのファースト・コンタクトだ。今では思い出すだけで吹き出してしまう。 岡くんにカップ麺の容器に淹れたインスタント・コーヒーを分けてもらいながら、私は彼の弓の腕を褒めた。一センチほど外したとは言え、電気系統が止まり、一筋の陽光も届かない暗闇の中で動く標的を狙っていたのだ。素人目にもそれが容易でないことはわかる。彼は自分が高校で弓道部の次期主将候補であったことを告げ、続けてこう言った。 「声をあげてもらって助かりました。何も聞こえなかったら二発目を射るつもりだった。奴らは声をあげないから」 嘘か真か、彼はわざと矢を外したのだ。 それからスーパーマーケットを拠点として、岡くんと共に行動していた。冷蔵・冷凍設備が機能していないために新鮮な食肉は期待できなかったが、倉庫には大量の缶詰やペットボトル飲料が残っており、食糧と水分には当分困らなかった。毎日少しづつ街の地図を開拓し、他の生存者や街の外への連絡手段を探した。岡くんの高校生とは思えない慎重な行動指針は、今日まで生き残る上で非常に役立った。彼は荷物から一冊の本を取り出して見せてくれたことがあった。サバイバル教本。家族と死に別れて独りになったとき、最初にしたことが本屋に行くことだったらしい。彼より一回りも年上である私は、そうした行動に思い至ったことすらなかった。 この出会いがなかったら、今ごろ私の肉体はどこかの道端で腐り始めていたに違いない。それが寝ているか起きているかはともかくとして。 もちろん、彼と出会って得られた一番大きなメリットは、サバイバルの知識や豊富な食糧などではなく、私が独りでないというそれだけの事実だ。彼と街を探検する時間は、修学旅行で友人とともに見知らぬ地を歩んだ記憶を思い起こさせた。驚くことに、この滅茶苦茶になった状況を、私は楽しいとすら思い始めていたのだ。 ある夜、上階の家具売り場のベッドで寝ていた私は、不審な物音に目を覚ました。警戒した私はベッドに立てかけていた金属パットを手に取った。柱と柱の間に吊り下げられたハンモックに人の姿はない。階段とエスカレーターを監視できる位置にあるので、岡くんはそこを好んで寝床にしていた。トイレに出かけているのかと思ったが、トイレなら同階にもある。物音は下へと続く階段から聞こえてきた。その不規則なリズムは明らかに人為的なものだ。岡くんがの呻き声が聞こえた。私は意を決し、金属パットを構えて階段を駆け降りる。 階段の踊り場、可燃ごみや不燃ごみ用のかごの前に音源はあった。彼はそこに立ったまま、陰茎に布を巻きつけて手淫をしていた。暗がりでよく見えなかったが、その布が何かはすぐに気付いた。私が捨てた下着だ。洗濯の手間を考え、服は使い捨てにしていた。 彼と目があった。何の表情も浮かべていなかった。私は恐怖を覚え、ひ、と小さく悲鳴を上げた。彼は汚した下着を再び屑かごに戻すと、すぐさまその場から走り去った。何も考えられなかった私は、彼を追いかけることができなかった。そのとき以来、今日まで岡くんとは一度も会っていなかった。 彼のコートの内ポケットを探ると、例のサバイバル教本があった。本の後ろには何も印刷されていない空白が数十ページあり、彼はそこに手記を記していた。 手記の最初の方には、どこに食糧があった、どこに危険地帯があったかなどの実用的な情報しか記されていなかったが、私と出会った日から、段々と感情的な描写も増えてきた。どこか飄々としていた彼も、私と同じくらいあの日々を楽しんでいたということを知って、微笑ましく思った。私と別れて以降の日付には、彼の自責と後悔の言葉ばかりが綴られていた。それを読んでいると私の中の罪悪感がぶり返してきて、ページを捲る手が早まった。 生きて会うことがあれば、優しく声をかけるつもりだった。結局のところ、彼は十も歳下の子供なのだから。 手記の最後のページを開いた。彼も今の私と同じように、島を目指すことにしたらしい。だが、この橋の上で感染者と格闘している間に噛まれてしまい、理性を保てるうちに自らナイフで頸動脈を切る決心をしたという。 その後には、恵まれた家族と友人に囲まれて暮らした、かつての日常を感謝する言葉が述べてあった。 「……ぼくはぼくなりの幸せを享受したと思います。ただ、あとひとつ心残りがあるとすれば、女性と関係を持てずに死んでいくことだ。冗談みたいだが、これは本気なんです。ほんとうに嫌になるけど、死を目前にして、ぼくの頭はそのことでいっぱいだ。きっと動物的本能なのでしょう。でも、これからはそれに悩ませられることも無いのかと思うと、少し清々します……」 彼らしい馬鹿正直な言葉に、思わず私は笑ってしまった。手記の最後は、みみずの這ったような字でこう締めくくられていた。 「……意識が朦朧としてきました。最後に、この手記を読んでくれているあなたへ。わずかな時間でもあなたの孤独を忘れさせることができたのなら幸いです。どうか生き延びてください」 どこまでもよく出来た子だと思った。私は岡くんの目蓋を閉じ、蛆虫の蠢く唇にそっと口づけをした。 手記をリュックの中に入れ、私は再び島に停泊しているフェリーを目指した。
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