夜の一幕 ( No.2 ) |
- 日時: 2013/08/05 22:02
- 名前: かたぎり ID:pO0i6JW6
仕事を終えると、同僚の誘いを蹴って独り、繁華街から離れたバーにむかう。隠れ家的スポットとまではいえないが、少なくとも会社の連中とはち合わせるおそれはない。無口なマスターが淡々と酒を運び、こちらを静かな気分で酔わせてくれる。客は多すぎず少なすぎずといったところだ。カウンター席にはまばらに客がいるのみで、私はいつも奥の席に座って酒を飲む。そんな孤独な時間が、私という人間にはうれしかった。五十を過ぎてやもめ暮らし。一度は家庭を持ったが、数年ともたずに崩壊させた。二十余年も前の話だ。気ままでよいとはときに言われるが、真似をしたいとはついぞ聞かない。私を見れば思うのだろう、この男の末路はさぞ哀れなものに違いないと。 「あはは、バッカね。そんなの相手が悪いに決まってんじゃん! 殴っちゃいなさいそんな奴。ワンツー、フィニッシュ! こんな感じよ、こんな感じ!」 思わぬ声に慌てた。心を読まれたかのようで、とっさに声のしたほうに視線を向けた。見ればふたつ離れたカウンター席で、女の客が両拳を交互につきだしている。当然私のほうではなく、女はつれのほうに向けて喋りかけているわけだが、その声のやかましさに呆れる。そもそもの地声が大きいのかもしれないが、一言一句までが筒抜けで、中高年が集まる場末のバーにはまるで似つかわしくない。 「わかった? ワンツーってね。あれ、うわ、二の腕蚊に噛まれてる! どうりでむずむずするなって思ってた。昨日外を歩いてたとき蚊が多かったんだよね。川沿い歩いてたからやぶ蚊かもなあ。昨日の朝は雷雨だったでしょ? 湿気が多いと蚊って増えるからね。いやだわー。うわ、なんかどんどん痒くなってきた。ちょっと、マスター! マスター! ムヒちょうだい! ほら、あの塗るとスーってするやつ!」 馬鹿女が。 そんな私の侮蔑などつゆしらず、当人は無口なマスターに両手を合わせて頼み込んでいる。ジェネレーションギャップという言葉が私の脳裏に浮かんだが、はたしてそんな得体のしれない言葉で片づけて良い問題なのだろうか。こうした若者を育てたのは、私たちの世代であることには違いないのだ。育ってしまったものは仕方ないとして、その上で今我々にできることはもはや何もないのだろうか。 「わ、ありがと、マスター! 好き好き、マスター超好き!」 女はマスターからムヒを受け取り、嬉々として己が二の腕に塗り始めた。私はマスターを睨む。違うだろう、マスター。我々がすべきはこうではないだろう。もっと大きな見地に立って物事の道理を説き、そして、ムヒはバーで頼むものではないと切々と諭す……、いや、違う。そうではない。そうではないのだが。カウンターの隅で頭を抱える私をよそに、小娘に媚売ったマスターは、背中を向けて酒瓶の位置を整えていた。 「あれ、なんの話だったっけ? どこからムヒの話になってったんだろう。ワンツーでムヒで。あ、そっか。ようするに、あんたは物事を深く考えすぎなんだって。もっと適当でいいんだよ。考えたって仕方ないことばっかりなんだし」 私はグラスに残った水割りをいっきにあおった。こんな奴らがこれからの日本を支えていくのかと思うと、憮然となる。公の問題には微塵の関心を持たず、ましてや貢献などするはずもなく、男漁りとゴシップだけが楽しみだという下らぬ人生を送るのだろう。これ以上は聞くに堪えぬ。私はただちに席を離れ、マスターにあんな下品な客は入れてくれるなと文句のひとつも言って、店を出ようと決めた。 「わたしもさ、昔はすっごく考えちゃうタイプだったんだ。うちって母子家庭だったから、ひとりでいる時間が長くて、さびしくさ」 持ち上げかけた腰が固まった。母子家庭、子供の寂しさ。そんな言葉に私という人間はどうしようもなく反応してしまう。私は座りなおすと、グラスに残った溶けかけの氷を見つめるようにしながら、女の言葉に耳をたてた。 「学校から帰って家にひとりっきりでいるとさ、わたしはなんでこんなところにいるんだろう、わたしがどんな悪いことをしたっていうんだろうなんて考えちゃう。暗い子供でさ、学校ではやっぱりいじめられたよ。無視されて、教科書破られて、ランドセルにはボンドぶちまけられて。もう死んじゃいたい、なんて何度も思った」 彼女の言葉が少しずつか細くなっていく。語っているうちに、過去の記憶とそこにまとわりつく負の感情が湧きあがってきているのだろう。私はこの話を聞きとどけねばと思い始めていた。先ほどまで見下してくせに、話題が変われば素知らぬふりして話を盗み聞く。そんな自分に飽きれてしまう。真にあさましきは、私のほうではないか。 「ずーっとさ、辛かったんだ。ホントに毎日毎日辛いわけ。朝起きて寝るまで生きられる時間がまるでないの。この気分はきっと永遠に続いて、私はそのうち取り返しのつかないことをする、そんなことばかり考えてた。そうしないかぎり、この辛さからは逃れられないんだって」 私の胸のうちに去来するものはなんだろう。同情、違う。哀れみ、違う。あるとするなら、それは自らの過去にたいする罪の意識だ。胸が締めつけられる感覚に、空のグラスをきつく握る、痛むほどに歯を食いしばる。意味のない行為とわかりつつも、今の私には自らを罰する手段を他に思いつくことができない。。 「でもね、そうじゃないんだよ」 彼女の声色が不意に変わった。ふっと重しが取れたような、なにかをあらためて思いだしたような、そんな口調だった。 「違うな、そうじゃないことも起こるっていうのかな。辛くて辛くてたまらないのがつづいてもさ、ときどき、良いことってあるじゃん。他人からすれば、ほんのちっぽけなことだよ。ちっぽけなことだから、すぐに喜びなんて薄れてって、消えちゃって、すぐにまた辛い気分に胸が苦しくなる。それは、あんたもわかるよね? そう、生きてるって辛いことのほうが多いっていうか、辛いことのほうがどうしたって目立っちゃうっていうかさ。でもね、ここからがおもしろいところ。それでもなんとか生きてると、あるときね、良いことふたつ重なるの日がくるの」 グラスを握る力が弱まっていると気づいた。良いことふたつ重なる日とはなんだろう。彼女はそこに何を感じ、何を見出して生きてきたのだろう。手にしたグラスを二、三度回して氷の粒が回転させると、カランと透明な音が耳を打った。私は目をつむって彼女の言葉に耳を傾けた。 「わたしの場合だとね、まず幼稚園時代に仲良くしてくれた友達から手紙がきた。元気にしてますか? ってそんな内容のやつ。嬉しいことはうれしいけど、あの時のわたしはかえってとまどったな。だって、死ぬほど辛いなんて書けないじゃん。元気だよって書きたいじゃん。どう返したらいいだろうって考えて考えて、半日家の中をぐるぐる歩き回ったよ。 でね、ここからが不思議なんだけど、その日の夕方、郵便受けにもう一通別の手紙が届いたんだ。わたしの馬鹿親父からの手紙だった。宛名が母さん宛てじゃなく、わたし宛てになってたから、わたしはだまって手紙を読んだ。内容はさ、自分はお金を送ることしかできないけど、もし進学や病気や辛い何かに困ったときには、何かの助けになるように別に貯金してあります、いつでも連絡してください、ってことだった。 二歳の時に親父とは離れたから、顔も声も憶えてない。子供のわたしじゃ、お金を稼ぐってことがどれだけ大変かもよくわからない。だけどさ、なんか、あーって思った。わたしってこの人の子供でもあるんだなって。結局親父には返信しなかったよ。母さん裏切るみたいでいやだったから。 それでもね、ふたつの手紙を受けとって、わたしのなかで、なんていうかさ、なにかが弾けたんだ。すげーなって、生きてるとこんな日があるんだなって。きっと別々だったら駄目だった、足りなかった。ちっぽけかもしれないふたつのことが重なって、何倍にも膨れ上がって、わたしは、よし、やってやる! って思えたんだ。本当に本当だよ、だからわたしは今生きてるんだもん。奇跡なんて大げさなものじゃなくていいの。ちっぽけな重なりでいいんだ。それは誰にだってやってきて、びっくりするくらいの力をくれる。 だからさ、あんたも今が辛くてたまらないなら、待ってみなよ。時間がかかるかもしれないけど、待ってるかぎりそういう日はかならず来る。ちっぽけな喜びがふたつ、もしかしたらみっつ、重なる日がさ。そしたらまた歩いていけるよ、きっと」 私は彼女らの後ろを通って出口へ向かう。マスターにいつもより多めの金を渡し、あの子たちの分もそれで済ませてほしいと頼んだ。 「よろしいんですか?」 マスターは、柄にもないことをする私に驚いたらしく、私の顔を覗きこんできた。思えば、このマスターと目を合わすのは初めてかもしれない。 「ああ、良い話を聞けたからね」 そう、それは私のこれからを、哀れな末路がただ待つと思っていたこの人生をまばゆく照らすほどの話だった。 「あれでなかなか良い子たちでしょう?」 「そうだね。ああいう子に、いや、ああいう子たちが育ってくれているなら、とてもうれしく思うよ」 照れ笑いを浮かべる自分に気づくが、嫌な気はしなかった。私はマスターに別れを告げ、出入り口のドアの取っ手に握る。そして、彼女が口にした言葉をもう一度反芻した。 良いことがふたつ重なる日、か。 ならばそれは私にとって今日という日に他ならない。素晴らしい話を聞けたこと。彼女の成長を見届けられたこと。私はカウンターのほうを一度振り返り、またまた来るよと小さくつぶやいて、夜への一歩を踏み出した。
------------------------------------ まずは、投稿が遅れてすいません。今後は気をつけます。 別に書こうとしていた話がどうも進まず、こういった話に変えました。4000字弱というところ。 今回手間取りましたが、まあ、それでも総じて楽しめたかな。 また気が向けいたとき、参加させていただきたいと思います。
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