Re: 即興三語小説 ―今週から残業が多いという理由で業務量が減った― ( No.2 ) |
- 日時: 2013/07/06 13:19
- 名前: zooey ID:9Q5u88xc
映画が始まるのは五時。迎えはその二時間前ということになっている。 額にかかる前髪から汗が滴り、だら、と頬まで垂れてくるのを感じ、里枝はそれを手の甲で拭う。そうしながら、やっと、ひっつめた頭から幾房もの髪が零れていることに気が付き――腹に虫が蠢くような、ざわ、とした感触が走る。とっさに時計に目をやると、もう二時五十分になろうかという頃だった。その数字がはっきり脳に刻まれると、腹の感触は、ざわわ、ざわわ、と上って来、どろりと溶けて絶望になり、内腑を侵食する。彼女が来るから、と必死で家中を掃除したのに、自分がこれじゃあ、どうしようもない。 「ママー」 そうこうするうちに、二階から娘の美里の声が響いてくる。続けて、トントントン、という軽やかな足音が、階段を下りてくる。もう支度を整えてしまったのだろう。里枝は、はあ、と息を吐き出し、観念する。 「史也は?」 「知らない。部屋でケータイでも見てんじゃないの?」 「もう、そろそろ時間だっていうのに」 もっと時間があれば、という自分の感情を棚に上げて彼女は言い、息子の史也の部屋へ向かう。ドアの前まで来ると、開けようとノブに手を掛ける。が、その瞬間、心に、キン、と嫌な音がし、思わず手を引っ込めてしまう。仕方なく、ドア越しに声を掛けた。 「史也、早くしなさい。パパと佐藤さん、もう来ちゃうよ」 しばしの間。先程心を傷つけた音が、不安となって胸に広がる。時間がじっとりと流れる。しかし、しばらくするとその沈黙を破り、ドアが開く。 「分かってるよ、うっせーな」 中学二年生の史也は、まさに反抗期の真っ只中にいた。母の里枝が何を言っても、返ってくる言葉は「うるさい」とか「ほっとけよ」とか、そんなものばかり。夫と別居し始めてからはさらにぶっきらぼうになり、ほとんど部屋から出てこなくなってしまった。そんな彼を、夫とその新恋人と共に出掛けさせるなど、里枝には思いもよらなかった。だが、夫は恋人と子供たちを親しくさせたい一心らしい。元モデルで青学出の彼女に、娘の美里はすぐに懐いた。学校の宿題をみてもらいながら、てらてらとした憧れの眼差しを、美しい父の恋人に向けていた。 史也と共に階段を下りていくと、リビングから美里の大きく張った声がする。 「この間ね、国語の問題で分かんないのがあって、りかちゃんに聞いたの。四字熟語? だっけ、そんなのの問題で、『破顔一笑』っていうのの意味が分かんなかったのね、で聞いたらさ、すぐに、ホント、すぐに、分かったみたいで、教えてくれたんだ。しかもね、分かり易かったんだよ、説明。『破顔』は顔がほころぶことで、『一笑』はちょっと笑うことなんだって。でね、こんな風に似た意味の言葉を重ねたものっていうのが、四字熟語の一つの種類なんだって。すごいよね、先生みたいだったよ、りかちゃん」 娘が夫の恋人を褒めるのを、そしてりかちゃんという愛称で呼ぶのを聞くと、別居やなにやらで負った傷に直接触れられるよう。胸が疼く。しかし、それに顔を顰めまいとしながら、鞄を肩に掛けようとする美里の姿を捕えて、ママだってそのくらい分かるよ、と口にする。すると、すぐ隣の史也が、 「てかさ、そのくらい誰だって分かるだろ?」 「そうかなあ」美里はやや不満気に眉を下げる。「でもさ、こないだ、お兄ちゃんだって、『青梅市』の読み方、教えてもらってたじゃん」 「そりゃ、そこに住んでりゃ読み方くらい知ってんだろ。自分ちの住所読めなくて、どーすんだよ」 そんなやり取りをしている間に、インターホンの音が鳴った。 ああ、来てしまった。 里枝は息を吸い込むと、声を高くし、 「ほら、迎えに来た。いってらっしゃい」と言って、美里の背中を、ぽん、と叩く。史也にも視線を投げ、彼のそれと重なると、にこりと笑って見せる。そうするより、他にないから。 美里は、ぱっと顔を輝かせ、玄関へ小走りする。史也は、すっと目を逸らすと、如何にも面倒臭そうに、だらだらと足をずって歩く。里枝も二人の後を追い、玄関へ向かう。 美里が勢い込んでドアを開けると、ぶつかりそうになった夫が、おお、と零しながら後ろへ体を引いたのが分かる。いきなり一発食らいそうになったにもかかわらず、彼の顔の上では楽しさが踊っているよう。その後ろの恋人も、いましがた彼が食らいかけた攻撃に、飾り気のない声を上げて笑っている。 「ごめんな、もうちょっと早く来るつもりだったんだけど」 「大丈夫よ」 と笑顔で返しながら、里枝は今の自分に違和感を覚える。 「帰りは十時頃になると思います。夕飯も二人と食べたくて。いいですか?」 心がナイフで切り付けられた。 だが、気が付いた時には、ええ、と口から出ていた。そう言うしかないと、意識よりも深いところが分かっているのだ。じゃあ、いってきます、と夫の恋人が、ありがとな、と夫が言い、ドアがぱたりと閉まる。空気の流れが、しん、と止まり、里枝の周囲を静寂が満たす。覚えず、口から溜息が漏れた。――と、 突然ドアが開いた。入ってきたのは、史也だ。 「ケータイ忘れた」 短くそう言うと、彼は靴を踏みつけて脱ぎ、どけよ、と里枝を片手で押しやって通ると、足音をさせて部屋に戻っていった。 再び史也が出ていってから、里枝はぼんやりと空っぽの家を眺める。そういえば、史也にママって呼ばれなくなったな、となんとなく思う。すると――冷たい孤独が蛆虫のように背中を這い上ってきた。夫も娘も取られて、息子からは嫌われている。彼女は一人だった。 里枝は一人で食事をし、後片付けをし、テレビを観、風呂に入り、そして四人掛けのソファに座った。子供たちがいない、それだけで不思議とこの家は冷たくなる。人肌の温かさが消え、家具は無機質な陶器やガラス、合皮の塊でしかなくなる。偶にいなくなると、人の温かさを思い出し、はっとする。 二人は十時どころか、十一時近くなるまで戻らなかった。夫から、少し遅くなる、というメールはあったが。帰ってきてから、彼らは慌ただしく寝る支度をし、まともに母と話さないまま床についた。 翌日、里枝は六時に起き、朝食の準備を始めた。出来上がると、子供たちを起こしに行く。彼らがのろのろと食事を食べ、身支度を整えるのを眺め、偶に、急ぎなさい、と声を掛ける。いつも通りの、朝。 美里の方が支度が早く、先に出ていった。史也は母のせかす声など聞こえないかのように、だらだらと動く。本当に、もう、そんな風に思いながら、ふと、嫌な考えが脳裏をよぎる。この子はもう、私のものではないのかもしれない。 史也がやっと出ようかという時、里枝は昨日のことを思い出した。 「忘れ物してない? ケータイとか」 「してねーよ」 まともに顔も向けずに言いながら、史也は足を靴に掛けると、紐が緩んでいたらしく、床に腰を下ろす。なんだか、妙に手古摺っている。しかし、ある瞬間、彼はすっと手を止め、 「忘れてた」 そして振り返り、にこりともせずに、こう言った。 「ママのがきれいだ」 そして、そのまま出ていってしまった。 ドアがぱたりと閉まる。空気の流れが、しん、と止まり、里枝の周囲を静寂が満たす。覚えず、溜息が漏れた。
------------------------ 二時間くらいです。 よろしくお願いします。
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