Re: 即興三語小説 ―来週だけで残業が20時間オーバーな予感― ( No.2 ) |
- 日時: 2013/06/03 00:33
- 名前: ひ ID:p5F1XOQs
「あの女、ころしてやる」 山野愛子はそう呟いたが、このとき当該「あの女」――小説家、篠田明美は死んでいる。 既にして。 死体はデスクに突っ伏していた。パソコンの電源がついている。画面には書きかけの文章が。そしてパソコンの近くに立てられた木製のボードには、いくつかの付箋紙が貼りつけられている。 殴り書きの態様でそれぞれ「岩絵具」「娘」「白ビール」「バルザック」「からくり」「インドネシア」 斯くの如き単語群がどのような物語を目指していくはずだったのか、いまとなっては深い闇のなかだ。 篠田の死体は後日彼女の担当編集によって発見された。警察はこれを自死とした。
銀河高原ビールを飲んでいるとき、中学校の級友である近藤ちかから架電があった。 「あのさー、篠田、死んだんだってー」 山野愛子は「えっ、うっそ! まじでー!」といいながら「うまっ! ビールうまっ!」と考えていた。 山野愛子は篠田がきらいだった。ずっとそうだった。許したことなど一度もなかった。 だからビールがうまかった。
篠田明美は焼かれて生家の敷居を跨いだ。 葬式中の篠田家の前を、近藤ちかが車で通りかかったとき、降っていた雨が激しさを増した。 彼女の友人である山野愛子が、中学生であった当時、篠田明美を憎んでさえいたということを、ちかはもちろん知っていた。 しかし先日電話で話すまで、まさか二〇年近く憎みつづけていたとは思いもしなかった。ちか自身は、その頃の篠田の仕打ちについて、すでに決着をつけていた。 とうぜん、許したわけではなかった。しかし同時に諦めていた。起こったことはどうしようもなかった。水に流すなんてとんでもない。けれどいまさら責めてみたってなんにもならない。 「……でっかい家」 呟いて、眉根がふかく寄っているのを意識した。 そして雨のなかを通りすぎた。
山野愛子は飲んでいた。 行きつけのバーで飲んでいた。 店を出て、タクシーに乗り、そのまま知らない部屋へ招かれ、シャワーを浴びながら、自分の右の乳房をみたとき「あの女ころしてやる……」と口を衝いてでた。 「ころしてやると思ってたのに」とあらためて発音したが、舌がまわっていなかった。 数日前にもおなじことを呟いていたのだと思い至ることはなかった。
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