Re: 即興三語小説 ―GWとはなんだったのか ( No.1 ) |
- 日時: 2014/05/18 19:12
- 名前: 雪国の人 ID:9P5LAcyA
決意の寝坊
ファイルを添付して、メールを送信したのが明け方の四時だった。それから私はしばらく眠った。 目覚まし時計の音には気づいた。私は無視して眠り続けたので、「これは寝坊だなあ」と頭のどこかでは思っていた。もっとも、ピピピ、と鳴りつづける電子音は不快であったし、私はいまだ、仕事をやり終えた達成感などは感じていなかったので、(ベッドに伏せる直前まで取り組んでいた問題はいまだ私の頭に絡みついたまま取れずにいたのである。)他人事のような救難信号じみたものについて考える気力はなかったので、とにかく何もかも泥沼の睡眠の中に封じ込めてしまいたかった。つまり結果論的に言えば、決意の寝坊であったといえる、と思う。 しばらく後になって私はようやく目を覚ました。午前の十時。目覚まし時計は私が何をする必要もなく、もう止まっていた。身支度を整えて玄関の扉をあけたとき、午前十一時。雨だ。薄く黒く青みがかった雲がのっぺりと広がって、私がひろげて、見上げるビニール傘の向こう側を覆っている。 濡れた土の匂いを感じて、それで私は思い出す。去年の梅雨の時期、つまり今からちょうど一年前に私は文芸部を退部したのだった。同時に演劇部に入部して、今までいくつか台本執筆の真似事のようなことをした。 決意は雨と共にある……、と私はなんとなくそんなことを思う。私は慎重な気持ちで一歩を踏み出す。落ちてくる雨粒が傘をうちポタポタと音を立てる。雨の中を踏み出す決意は一般的にいって憂鬱だし、私が演劇部に対して考える問題は憂鬱だ。そしてもちろん、常に決意を伴っている。 演劇部には俳優役の生徒が十人程度在籍している。舞台装置や衣装、台本(私のことだ)などとのちょっとした兼ね役、それに幽霊部員も含めれば二倍、三倍くらいの結構な人数になるだろうけれど、その辺の正確な人数は私は知らない。ただ重要なことはここに書く一つのことで、つまり、容姿と演技力に優れた、劇の主演をつとめられる俳優となると、これは私には高学年の三人が思い当たる。ここでは仮にA、B、C、としておく。私が今朝方まで書いていた台本(『シンデレラ』である。)の配役は、(つまり部員の誰がどの役を演じるのか、という振り分けについてである。)この私の評価に則って、私が書いた台本には記されている。(つまり「私の評価」とはいったものの、これは演劇部に在籍する部員達にとって広く一般的な認識であるはずであるし、「私が書いた台本には記されている」とはいったものの、これは要するに、演劇部の部員達が認めるエースの俳優であるA、B、Cの三人について、演劇部の部員達が想定する通りの配役を、私が彼女達に対して提案したという意味である……。しかしこれをその言葉通りにだけ書いてしまうのは私は後ろめたいのである。その理由はこの後に書く。)つまり、Aは万人が認める美しい顔立ちをして、薄黒くつややかな髪、ぱっと花が咲くようなと形容するしか方法の見つからない印象的な笑顔は人を引きつけ、声量は申し分なく、私は彼女の配役について、劇の主役であるヒロイン『シンデレラ』がふさわしいと判断して、そういうように台本には書いた。 BはAに負けず劣らず美人であり、ただし受ける印象はだいぶ違う。配役はシンデレラのガラスの靴を拾う王子様、髪はショートカットにさっぱりとまとめて、これはB本人のいわく「役作りと実益を兼ねているから」ということらしい。どういう意味の言葉だろうかと私が推測するに、すなわち、短髪のカツラがあれば劇の男性役は誰でもつとめることは可能であるが、しかし劇の男性役に選ばれることが可能である人間は少ない……、のである。これには私はなるほどと思った。私の髪はAのような綺麗な整った長髪ではないし、Bのような短髪でもなくて、その中間、肩にかかる程度のいわゆるセミロングでなんだかどっちつかずだし、ジョークをいうならば、もちろん、男性役に選ばれる為に日頃短髪のカツラを鞄に入れて準備していたりもしない。 Cは名前を森川静といって、配役はシンデレラをいじめる継母の実の娘、つまりシンデレラを含めた三人姉妹の、その長女にあたる人物であり、シンデレラにとっては義理の姉である。 雨の中を歩いていると、やがて、赤と橙の看板が鮮やかなコンビニエンスストアが見えてくる。私の歩く向かって左手側にあって、そのコンビニとは車道を挟んで対面には私の通う高校の校門もある。私の右手、フェンスのすぐ向こう側の、高校の敷地内に生徒達の姿は見えない。雨が降っているから屋外で活動はしないだろうというのもあるし、今日が休日だという事情もある。時刻は十一時三十分。 ジャージや制服姿の生徒達は私の視界の中に見えなかった、けれど、それらとは違う別の種類の人影ならあった。 私は少し急いで校門を通り抜ける。フェンス越しのU字型を回り込むような形になって、私はその人影に近づく。 雨のために頭の上に構えた傘が揺れて、小走りの私の周囲へ、余計にパタパタと落ちる。(私はそうして近づくにつれて、決意の気配のようなものが私の背後へ忍び寄るのを感じる。繰り返しになるが、つまり、結果論的にいえば、であるが。) 背の高い広葉樹が校庭の隅の奥まった日陰の場所に立っていた。人影はその広葉樹の下にあった。雨はその人の周囲には落ちてこないように見えた。雨宿りだ。しかし、どうしてそんな場所で? 私はその人の着ている服を見て、自分の心臓が冷えるのを感じる。純白の、スカートの裾が大きく広がったドレスだ。人が着ている実物をまだ見たことはなかったが、作りかけのものは演劇部の部室で見たことがあるはずだ。つまりシンデレラの劇で使うはずの、ヒロイン『シンデレラ』がお城のパーティで身に着けるドレス。それにしては全然まったく、そんなドレスがこんな雨の降っている中で屋外にあっていいわけがなかったし、……私は思うのだけれど、(私が演劇部の企画進行について自分の立場以上に偉そうなことは言えない役割であるのは反省しつつ、けれども言いたいことはあった。)その『シンデレラ』のドレスを着ているのがAでないというのは、私にはまったく予定外の状況だし、控えめにいって、それを森川先輩が着ているというのは面白くない。 私はなんて声をかけようか、しばらく考えつつ、その場に立ち尽くした。 雨あしは次第に強まりつつある、気がした。 「森川先輩」 ようやく私はそれだけ言った。私の傘や地面を雨粒が叩く音、木の葉を叩く音の中で、私の呼びかけた声は弱弱しかった。 はたして、森川先輩は顔をあげて私を振り返ってみた。(純白のドレスを着た天使のようだった、的なことを書くべきでしょうか……あとで消します)それまで、森川先輩が何を見て、何を考えていたのか私は知らないしわからない。 「横間ちゃん」と森川先輩は言った。私の名前で、フルネームでは横間菫という。森川先輩は彼女の立ったその場所から動かないままなので、私の方が近づいていく。 「その服、シンデレラの衣装ですよね? あ、えっと、つまりヒロインのシンデレラがパーティで着る衣装」 劇の題名とヒロインの名前が同じなのでややこしい。私はそれで、劇の題名はちょっと私自身のオリジナリティを出したらよかったのだろうか、と少し思う。ただたった今の当面の問題はそこではない。 「うん、そう、似合う?」 「似合います」 問われて、答えてから「しまった」と私は思う。しかし「似合わないです」というのも気がひけるので、どう答えても仕方ないのかもしれなかった。森川先輩はちょっと笑う。 「ありがとう。横間ちゃんの書いてくれた台本では、私はシンデレラの義理の姉の役ということになっていたけど」 「そう書きました」 私は頷きながら答える。今朝、早朝の四時に演劇部の部長宛てにインターネットメールで送った台本だ。 「なのにでも、じゃあどうして、森川先輩がその衣装を着てるんですか?」 私は尋ねる。 「まあ、シンデレラ! 掃除は終わったの? 洗濯は?」 唐突に、森川先輩は大きな声を出した。私はビクリとして、それから傘を持ったままちょっと途方にくれる。 「洗濯を終えたら、あなたは芋の皮むきをしなければいけないわ。それが済んだら、鶏達の世話です」 シンデレラの義理の姉が、シンデレラに向かって話しているのだ。私の書いた台本の台詞とは違ったはずで、(寝ぼけて書いたせいか、あまり記憶にない……。それとも森川先輩の演技が私の書く台本よりもずっと正しいからかもしれない。)森川先輩は即興の演技をしているはずで、着ているのはヒロインの『シンデレラ』のドレスだけれども、私はたった一人の観客で、目の前の森川先輩のことをじっと見つめている。 「お城の舞踏会の招待状にはこうあるわ、つまり、『ふさわしい服装で』と。ね?」 最後の「ね?」というところで、森川先輩は私をちらりと見る。私は慌てて言う。 「そうですわ、そう書いてあるように見えますわ、おねえさま」 私は劇の台本を書くが、演技をする役者として舞台にあがる役目もおっている。台本には私の名前は横間菫と書いてあって、配役は、シンデレラの継母の実の娘で、次女。すなわち森川先輩の配役であるシンデレラの義理の姉の「ね?」という呼びかけに対して「そうですわ」と答える役である。続けて「そう書いてあるように見えますわ、おねえさま」と答える。私の予定ではそうなっている。(つまりこのことが、私の在籍する演劇部における私にとってのメリットが、実際の形をとってあらわれた現象であるといえる。あえて格好をつけず、シンプルにいうなら、極めて自然に、不必要でなく森川先輩に対して「おねえさま」と呼びかけるのが可能である状況が、つまり私のいうメリットが実際の形をとってあらわれた現象である。私はジョークでなく、恥ずかしい思いを我慢して、これをいっているのだけれども、つまりこのことを前提として考えてほしいのだけれども、そうすると、たった今の現実の森川先輩がヒロインの『シンデレラ』の衣装を着ているという状況が、いかに私にとって予定外の不本意な焦るべき事態であるか、理解してもらえると思う。) 限りなく一瞬に近い間が、無かったように思う。 「言われた通り、カボチャを持ってきました、おばあさん、でもこれが一体どうして……」 森川先輩は『シンデレラ』の演技をはじめている。魔女のおばあさんに、日付が変わる深夜零時までに帰ってこなければ、魔法がとけてしまうとさとされるシーン。 私は、森川先輩の持っている、限りなく一瞬に近い間を、現実のものとして感じ取ることができない。そんなものが確かに存在しているのか、否か、ということさえはっきりとはわからない。多分あるだろう、と推測はするけれど、それだって希望的観測とゴチャゴチャに混ざってどこまでが希望で、どこまで私はしっかり考えられているのか、わからない。 上手く説明できない。うまいたとえ話は見つけられない。「『シンデレラ』の衣装を着たシンデレラの義理の姉」の演技をする森川先輩はその場所にいて、「『シンデレラ』の衣装を着た(本当ならパーティへ出発する前のみすぼらしい服を着たはずである)シンデレラ本人」の演技をする森川先輩もその場所にいた。ではそれが切り替わる瞬間は……私はその瞬間、ずっと森川先輩の表面の恰好をじっと見ていたけれど、……でもその瞬間の彼女はいったい何だったんだろう? 森川先輩の配役が切り替わる瞬間、目の前にいる彼女は何を着ていたのだろう? (私の疑問は上手く説明できない。)私の心臓はドキドキと鳴っている。宙ぶらりんの状態で、誰にも着られていないはずの瞬間が確かにあったはずのシンデレラの純白のドレスは今もその場所にあって、森川先輩が着ている。 森川先輩はどんな配役の演技もできる。森川先輩が本当ならどんな宗教を信じているのか私は知らない。けれど、矛盾するようだけれど、私は仏教を信仰する森川先輩を知っているし、カトリックを信仰する森川先輩だって知っている、メッカに向かって祈りを捧げる森川先輩のことも、嘆きの壁に向かって祈りを捧げる森川先輩のことも、知っている。ただ私は知っているだけだ。私は森川先輩が明日の時点で何を信仰することになるのかわからない。昨日の時点の森川先輩のことは? もちろんわからない。私は森川先輩についてのいろいろなことを知っているし、知らないことだってある。森川先輩についてわかっていることは多分ひとつもない。わからないことだらけだ。何故こんなことになるのかというと、理由はシンプルで、どうしてかっていうとそれはつまり、私は森川先輩が何を考えているのかわからない。森川先輩はいつだって何かの演技をしている。私が知らないいくつものの配役を彼女は持っていて、それらをいつだって披露しているのだ、たった一人の舞台で、自分の周囲の人間は皆全員、彼女を見る観客だ。私は森川先輩の配役が切り替わる、その、限りなく一瞬に近い間が、無いように感じる。無いというように感じるが、しかしあるはずだ。あるはず。そうでなければ、私はこんなに森川先輩のことが好きじゃないと思う。 森川先輩の演技はいつの間にか切り替わっていて、彼女は言葉を続ける。 「横間ちゃんの書いてくれた台本はすごく良かったけれど、部のみんなで話し合って、配役だけはちょっと横間ちゃんの提案とは変えてみようってことになって」 私は用心深く頷く。 「森川先輩は、それで、ヒロインのシンデレラの役に?」 「うん、そう、なんだか、そういう流れになっちゃったというか……」 「森川先輩なら、シンデレラの役も、王子様の役でも、きっと何でもすごくやれてしまうと思います」 「ありがとう」森川先輩はちょっと苦笑の混じったような顔をする。「でも横間ちゃんにとっては、私は意地悪な継母の長女の役が適してるのだった?」 「……そういう、役柄のきせんのようなものについて、私は何も考えてないです」 私は嘘は言っていないはずだ。 気を取り直して、私は気になっていることをたずねる。 「森川先輩が『シンデレラ』の役なら、継母の長女は誰が演じることになったんですか?」 「長女、えっと、確か……」 森川先輩はAの名前をあげた。つまり単純に、Aの配役と森川先輩の配役が入れ替わって、『Aが演じるシンデレラ』でなく『森川先輩が演じるシンデレラ』に、『森川先輩が演じる長女』でなく『Aが演じる長女』になったということ? 「横間ちゃんは次女の役でしょう? それは変わってなかったはずだと思う」 「そうですか……」 私は気を抜かずに頷く。 「せっかく横間ちゃんが提案してくれた意地悪な長女の役だったから、私はそっちの方をやってみたかったな」 森川先輩はぼやくように言った。私のその提案には後ろ暗い目論見があったわけだから、森川先輩のそういうような発言を聞くと、私の心は少し痛む。 「じゃあっ、今から抗議しに行きませんか、私も森川先輩の長女役が見たいです」 私は合法的に「おねえさま」と森川先輩に呼びかけたいです、と続けるのははばかられた。 「横間ちゃんがもうちょっと早く登校してくれたら、話し合いに間に合ったかも」 森川先輩はちょっと笑って、私は顔を赤くする。 「ごめんなさい、寝坊しました」 (私の今朝の寝坊が『決意の寝坊である』と私に自覚されるのはもうちょっと後のことである。) 「あはは、まあ私が配役の交換を、一回は了承しちゃったわけだし、今さらそれを取り消してもらうって、かっこ悪いもんね」森川先輩の、バツが悪いというような笑顔。「でも、だからって、こんなところでこんな格好でポツンと立ってたってどうしようもないか」 言葉を発しているうちに、だんだん、森川先輩の顔から笑顔は消えていく。 「横間ちゃん、笑わないで聞いてくれる? 私ね、劇の練習を途中で放り出して、逃げてきちゃったんだ」 私は一瞬、ドキリとしたが、頷く。舞台の衣装を着たまま、森川先輩が雨の降る校庭に一人でいるのは不自然なシチュエーションだが、森川先輩の言葉が本当だったら、舞台の衣装も、雨なのに傘をさしていないことも、たった一人で何をするでもなく校庭の隅にじっと立ったままなのも合点がいく。(私は同時に、利己的な考えを働かせる。……森川先輩が劇の練習をボイコットしたなら、それは私の台本のせいだろうか? それはそうだ、けれど、理由のうちの百パーセントすべてが私の書いた台本のせいというわけではないはずだ。私は森川先輩の配役は『シンデレラ』がいいと提案していない。……しかし、森川先輩は私を嫌ってしまっただろうか? つまり、私が偶然に書いた、本来なら森川先輩とはそれほど関係がなかったはずのヒロイン『シンデレラ』の演技の内容がまずかったのではないのか、ということだ。そして事実、その推測の通りだったのであり、森川先輩は理由を話し始める。) 「このクライマックスのシーンが問題だと思うの」 森川先輩はいつの間にか手に台本を持っていた。紙の束をホチキスでとめただけの簡単なものだ。私が今朝メールで送ったものを印刷したのだ。(しかし、手品師のような鮮やかさで、森川先輩はそれをどこからともなく取り出した。私にはそんな芸当はできないし、あらためて緊張する……、というのも、私の行う森川先輩との会話というのはやはり、森川先輩が演じる劇の一部であるということを、目の前の人間から強いられたものであるという現実の状況を、私は改めて実感するからである。森川先輩はちょっと頬を紅潮させて、私を責めるような目つきになる。やはり嫌われているのかと私は焦る。) 「こう書いてあるわ……『シンデレラ』と王子は抱き合ってキスをする……と」 森川先輩は、自分の発言がいかに恥ずかしい秘密のものであるかということを強調するような細いトーンの声で、心底困ったような表情付きで言う。 しかし見た目の演技はそうでも、私にとって森川先輩は年上で、学年が上のいわゆる先輩にあたる人物で、もちろん目上の人間なので私は対応に困る。 「演劇だから、本当にするわけじゃないです。演技でいいじゃないですか」 私は平静を装って言う。それとも、こういえばよかっただろうか、たとえば「台本を書き直します」(私はようやく台本を書き終えて、非常に疲れているので、本音をいうなら、もう二日くらいは演劇部にかかわりたくなかった。であるから、台本を書きなおす旨の発言は私には不可能だった。)それとも別の何かをいうとするならば、「やりたくない役をやらされるなんて不本意ですよね、やっぱり抗議しにいきましょう、私が作家権限で森川先輩の要望を無理やり通します」(私に作家権限なんてものはないので、どうしようもないのだった。ただ抗議をするだけなら私にだってできるけれども、それは哀れである。)私はベターな、もっといえば模範的な発言をしたと思う。事なかれ主義だ。 「でも、本番中に役に入り込んだら、演技でなくて本当にキスしちゃうかも」 「そうしたらきっと、素晴らしい劇になると思います。ベストの結果ですよ」 「私にも気持ちがあるのよ。演劇部の演劇の成否だけが大事だと言われたら、私の立場からいえばちょっと不満なのよ」 「そりゃ、そうかもしれませんけど……」 「ねえ横間ちゃん、笑わないで聞いてよ?」 私はまたちょっと身構える。 「私、キスしたことなくて、不安があるの」 はたして本当だろうか、と私は思う。森川先輩にはキスしたことがあるタイミングと、したことがないタイミングがあって、今は偶然、あるいは意図的に森川先輩が後者の方を選んで演じているだけだ。(私は心の中でそう思う。) 「初めてキスするのは、横間ちゃんみたいな可愛い女の子とが良かったな」 意表をつかれて言葉に詰まった。私は思わず言い訳を考える。どんな言い訳かというと、やっぱり森川先輩は後者の方だったじゃないか、というような、よくわからない話だ。森川先輩に両手を握られて、視線が合ったので、私は目を閉じた。つまりそうするのが一般的な様式だからだと思ったわけで、はた目には私の様子は素晴らしく滑稽だったと思う。目をあけたりしめたりしていたので、思い返してみると、外の様子は断片的に理解できた。雨は相変わらず降り続けていて、けれど薄まった雲の隙間から日差しがおりていた。コロイド状の日光のかたまりが徐々に周囲の雨の中へとけて広がっていく見た目がした。(つまり思い返してみると、私はこの時に傘を取り落としていて、しかし立っていた場所が広葉樹の下だったのでずぶ濡れにはならず、それにもしかしたら、もうすぐ雨はやみそうな気配を感じたのかもしれなかった。すると森川先輩は雨やどりをやめてしまうし、……そうすると私は、森川先輩との立ち話を終えなければならなくなる。)私は自分の胸を抑えたかったが、森川先輩は両手を離してくれなかった。キスが終わった後で、森川先輩は私の顔をじっと見つめていた。私は自分がどういう表情をしているのか、どうしてもよくわからなかった。自分では、間の抜けた真顔をしているつもりだったけれど、それでは森川先輩が私の顔を見つめる理由がつかない。その時、森川先輩の顔はまだすぐ近くにあるままで、私は両手の自由を奪われてどうしようもなかったので、森川先輩がもう一度顔を少し傾けたら、私はまた両目を閉じた。また唇の先に触れる感触があった。今度は一瞬だけで、それっきりだけで私が恐る恐る目をひらくと、森川先輩は楽しそうな笑顔で私を見つめている。私の顔は真っ赤だった。からかわれていると思ったし、それで森川先輩のことが嫌いになるはずがなかったし、私は森川先輩の顔をまともに見れなくて、それに「どうか私のことを嫌いにならないでほしい」と強く思った。 私はなんて利己的なんだろうと思った。 私はとうとう、配役でない、本当の森川先輩に触れる方法を見つけたかもしれない。 それはキスによって得られた。 (どうか笑わないでほしいのだけれども、つまり……機会の多寡の問題なのではないかということで、……つまり、森川先輩と接する機会が多ければ、それだけ、森川先輩の演技の奥に見え隠れする本当の彼女を見つけられるタイミングを多くつかめるのではないか、ということで、この問題には、これを成功させるのには、おそらく一定の、つまりそれだけ、あるいはこの程度、くらいの接触頻度が必要であるという一種の閾値が存在したのだ、と私には理解できたのだ。(何度もいうけれど、)つまり、はっきりいって、私は森川先輩のことが好きだからずっと一緒にいたいし、森川先輩の方からキスしてくれたんだから、たぶん、まあ、脈無しというわけではないと思うし……、(「横間ちゃんみたいな可愛い女の子とが良かったな」と言ってくれたし、ところで、好きな人が自分のことを可愛いと言ってくれている様子を文章におこすのは非常に心地良い……。)私の中にそういった欲があるのは一旦置いておくとして、重要なのは、キスを含むそうした連続的なやり取りは必要な閾値を超えるのだ、とわかったのだ。(キスをして気分が良くなったから、そういう思い込みを言い訳にして、もっと森川先輩と接していたいという欲求を自分が納得できる形にさせたいだけかもしれない。それは私自身がよく自覚していることだからいいのだ。)私は自分の決意を目視した気持ちになった。結果論的にいえば今朝方の寝坊は決意の寝坊だった。森川先輩が『シンデレラ』を演じるのだから、私が意地悪な次女を演じる理屈はなく、そして森川先輩が嫌がる演技を私が助けられる一石二鳥の方法があった。この時、校舎の昇降口のほうから歩いてくる人影があった。私はそれに気づいて、顔をあげた。) ひとりの女生徒が森川先輩と私の立つ広葉樹の下へ歩いてきて、そしてなんだか、呆れたようなほっとしたような、とにかく間の抜けたような顔をした。私はその顔をちょっと見つめてしまった。(つまり、間の抜けた顔というのは、見ていて楽しいものなのかもしれないと、私は認識を改めなければならないのかもしれない。)女生徒は演劇部の部長で、仮にDとしておく。Dは私を見て、「台本、おつかれさま、ありがとう、すごくよかった」と言った。 「ありがとうございます。……おはようございます」 私は褒められてうれしかったので即座に返事をしたが、その途中、もしかしてDの発言には嫌味も含まれているのではないか、と思い当たって、だんだん声を小さくしながら、朝の挨拶をようやくした。 「ごめんなさい、遅くなっちゃって」 私の発言ではなかった。Dのものでもない。だから森川先輩のものだったのだけれども、意味がわからなくて、私は隣に立つ森川先輩を振り返った。 「急に雨が降ってきちゃって。ここなら濡れないし」 森川先輩はそう続けて、それに対してDが「もおーっ」と不満そうに息を吐く。 「もおーっ、だから衣装のまま出るのはやめなさいって言ったでしょう」 「えぇー、だって、こんなに綺麗だし、……わざわざ着替えるのも面倒だったし……」 森川先輩はいつの間にか片手にコンビニのビニール袋をぶらさげていた。中にはお菓子や飲み物のペットボトルや、パンやおにぎり。重たそうだ。 「そんなヒラヒラの衣装着たまま、コンビニで買い物なんて、アタシは絶対無理だわ、恥ずかしいでしょ」 「誰も他人のことなんてそんなに気にしてないよ」 森川先輩はいかにもどうでもよさそうに言う。その手にもったビニール袋のロゴは、この学校の校門前にあるコンビニの赤と橙色のものだ。つまりそこで買い物をしたということで、(袋の中身と、それにDとの会話から察するに、演劇部の部員としての買い出しである。)その帰りに雨が降ってきたので、この木の下に避難をしたということで、それだから、森川先輩は演技ばかりしていて、森川先輩本人のことはわからないのだと私は思う。 「じゃ、戻りましょ」Dが言って歩き始めた。雨は止んでいた。Dは傘を持っておらず、私もようやく自分が傘を落としたままであることに気づいた。「もう十二時回っちゃったし、練習は休憩ね、お昼にしましょう」Dは森川先輩の持ったビニール袋を指す。森川先輩もDに続いて歩き始めた。私は自分のカバンの中を探った。それで、ハサミがあったので、取り出した。自分が途方もないことをやろうとしている自覚はあったが、ハッタリがなければ無理は通らないのである。私はちょっと前を歩く二人に声をかけた。それで二人が振り返って少し待ち、私は自分の髪の毛をバサリとやった。森川先輩もDも唖然とした顔をしたが、森川先輩はやがて笑った。それは演技に違いなかったが、私はもう決意したのである。
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飛び入りで失礼します。 文章テーマというのが面白そうでしたので参加させていただこうと思いました。 深夜アニメを見ていて思いつきました。 文章量と執筆時間についてですが申し訳ありません。 よろしくお願いします。
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