Re: 即興三語小説 ―夏休み。それは子どもの頃の思い出― ( No.1 ) |
- 日時: 2013/08/05 02:52
- 名前: 弥田 ID:Vrnz9ThU
昼過ぎだというのに薄暗かった。部屋に篭もってKと二人、ぬるい麦酒を飲んでいた。熟れた夏の暑気はべとついて、汗ばんだ肌へ執拗に纏わりつく。ときおり吹き抜ける風は生臭く、雨の気配が重く漂っていた。 「しかしこのヤブ蚊にはまいったね」 飛びまわる羽虫をハエタタキで打ちながら、独りごちるようにKが愚痴る。先ほどから首もとを加減無く掻きむしっているので、薄皮が破れて、うっすら血が滲んで痛々しい。なおいじろうとするのを注意したが、痒いものは痒いのだ、と聞く耳をもたなかった。 「キミはいいよな。さっきから蚊が寄りつかない。よっぽど不味そうに見えるんだろうね」 「もともとそういう性質なんだよ。そうでもなきゃ、こんなところ引っ越してこないさ」 「というと、はじめから蚊の湧くことを承知していたのかい」 Kは僕の顔をまじまじと見ながら、正気を疑うね、とちいさくつぶやいた。
家の裏手にドブ川が流れているのだった。ドブ川といっても正確な名前だってあるのだろうが僕は知らない。ヤブ蚊はみなここからやってくる。澱んだ川面にボウフラがやたらと湧くのだ。周囲には極彩色の植物が繁茂しており、鼠やら野良猫やらが迷い込んではそのまま住み着いている。とにかく評判のよくない川で、生活排水やら糞便やら得体の知れない物が流れ込んでおり、近づくとその異様な臭気に目をやられた。向かいの女がめくらになったのは川に落ちたせいだ、などという噂が蔓延しており、近隣の住人に半ば冗談、半ば本気で信じられている。
「祭りはいつごろ始まるんだったかな」 「夕方だったかな。まだ昼過ぎだ、気長に待とうよ」 「こんなところで気長にも何も無いじゃないか。すぐにでも発ちたいくらいさ」 「まあまあ、ほら、麦酒でも飲みなよ」 「これだって俺が買ってきた酒じゃないか」 「しかもぬるい」 「そうだよ、ぬるい。その冷蔵庫、壊れてるんじゃないか」 「中古だからな。Sからのもらいモンなんだ」 「おいおい、あいつ、酔っ払った夜に製氷機で小便凍らせたんだぜ、知らないのか。俺もその日に居合わせたんだが、翌朝さ、コップの中の氷がさ、濃い黄色に濁ってさ……」 「うえ、ありがと、覚えとくよ。さいわい、まだ氷は作ってないんだ。既製品を買う癖がついてて」 その時、遠くで雷が鳴った。 「降るかな」 「どうだろ」 「ま、すぐに過ぎるだろうよ」 「夕立にはちょっと早いかな」
Kの言うとおり、雷雨はすぐに去っていき、夏祭りは予定通りに開催された。日暮れ頃、合図の号砲が聞こえて、市民公園へと連れ立って歩いた。祭りは明るく賑わっていた。粗暴なテキ屋がひしめき、しわがれ声で客引きをしていた。まるい提灯が夜の闇をくっきりとさせていた。 「おお、本当だ。よさげな娘が大勢いるじゃないか、見た目もよくて、ノリも軽そうで」 「だろ。この辺りはそういう人がたくさんいるんだ。飛騨新地みたいなとこでさ」 「荷風が生きてりゃ泣いて喜ぶだろうね、それじゃ、俺は適当に見繕ってくるよ、部屋で落ち合おう」 Kは早口でまくし立てるなり、闇にまぎれてどこかへ行ってしまった。こちらはさすがに、着いたばかりでそんな気にもなれなかったので、見知った売人でもいないかと、人気の少ないところを見て歩いた。鉄棒のところにYがいたので、ハッパをすこし買う。こそこそと手で巻いて、火をつけて、吸って、吐いて、そこで女に出くわした。向かいのめくら女だ。白杖をかかえこむようにして、植樹された柳の木の根に座り込んでいた。知らない仲でもなかったので声をかけると、向こうも会釈をかえした。 「ひとりですか」 「ええ」 「この人混みでしょう、不便ではないですか」 「慣れてるから、大丈夫……。ね、それより一口くださいな」 「どうぞ」 ハッパを吸わせてやると、控えめに吸い込んで、吐く煙も見えないくらいだった。 「やっぱり匂いでわかるんですか」 「匂い? ……ああ、そういうわけでもないけれど、勘みたいなものね」 「隣に座ってもいいかな」 「どうぞ」 女は地味な紺がすりの浴衣を着ていた。胸元がすこしはだけているのを直してやると顔を赤らめ、「ありがとう」と言った。礼替わりにたこ焼きをひとつ貰う。大粒のそれを口の中で咀嚼していると、 「あなたもひとりなの?」 と女が聞く。急いで飲み込み、 「いえ、連れがひとり。……今は、はぐれてしまっているのですが」 「あててみせましょうか、女の子を口説いてるんでしょう」 「あはは、まさか。いたって真面目な奴ですよ」 「そう。じゃあそういうことにしときましょうか。ね、たこ焼き食べる?」 「いただきます」 女は息で冷ましたのを僕の口元まで持って行き、しかし、にや、と笑って自分で食べてしまった。思わず苦笑し、なにか言ってやろうかと開けかけた唇に、女の唇が重なり、よく噛みこなされたのが流れこむと、ほのかに温かく……。
女を家まで送ることになった。道中、白杖を上手に繰って危なげもなく歩く姿を、感心して見ている。と、視線に勘づいたのか、「これだけマスターするのにも時間がかかったのよ」と笑う。その直感がなんとなく恐ろしく思えて、「生まれつきではないのですか」などとつい余計なことを聞いてしまった。 「そうよ、川に落ちた、ってHさんに聞かなかった?」 「ええ、聞きはしましたが、無責任な噂話かと」 「本当の話よ。目がやられたのも、その時」 それからふたり、黙りこくってしまって、無言で歩くとそのうちに件の川が見えてきた。 「そういえば雨が降ったのだっけ。きっとずいぶん増水しているはずよ」 女が言って、見てみれば、なるほど、普段は膝の辺りまでしかないような水面が、縁いっぱいにまであがってきている。それでも臭気は薄まることなく、鼻の奥がちくちくと疼いた。 「川にはね、いろんなものが流れているのですよ」 「例えば、死体とかですか」 どこか気まずい空気を変えたくて、ははは、と笑ったが、なおも女は真面目な顔つきをくずさず、 「そうね、死体も」 そう言って、手近に生えていた花を二つ三つちぎると、川へと流した。 「これは線香代わりに……」 「すみません、軽率な冗談でした。昔、なにか事故でもあったのでしょうか、なにぶん来たばかりで、知らなかったものですから……」 「事故。……そうね、事故だって流れているわ。もちろん」 女との交際が始まってまだいくばくもないが、時折このようなよくわからないことを言う癖があるのは承知していた。これまでと同じように、適当に話を合わせようと、 「諸行無常だといいますからな。太宰なんぞは言いました。一切は流れていく、と」 「そうね、諸行無常も、太宰だって流れてる。川にはね、……この川にはね、一切が流れているのよ、本当よ、わたし見たもの」 「見たというと」 どうも話の流れがつかめない。戸惑う僕を気遣うように、女の声の調子がぐっと優しくなった。 「昔、近所に仲のいい女の子がいてね、よく遊んでいたのだけど……。ある日、学校で男の子にね、家のこととかでからかわれて、ほら、この川のことなんかも。それでその女の子が怒っちゃって。口論になって、最終的に、じゃあその川に飛び込めるのか、って」 ふいに女が腕を絡めてきた。内心の驚きを表に出さないようこらえるのは大変だった。女の体温が燃えさかっていた。 「女の子も後に引けなくなっちゃって、それで公園の裏の、比較的人目につかないところで、裸になって飛び込んじゃったのね。でも、前日の雨で流れが勢いづいてたから、あっというまに流されちゃって。男の子はすぐ逃げちゃった。わたし、どうしようって」 肩の上に頬が乗る。なまめかしい呼気が鎖骨のあたりに吹きかけられて、背筋が薄ら寒くなった。 おそるおそる、先をたずねた。 「それで……?」 「後を追って飛び込んだのよ。助けなくちゃ、って思って、パニックになって。でもダメね。やっぱり流されちゃって。服を脱ぐのも忘れてたから、余計に。でもその女の子だけは助けなくちゃって」 そこで女は口を閉ざした。僕は続きをうながすこともせず、ずっと待っていた。眼前では川が音を立ててうねっていた。泥の底になにか見えたような気がした。蟹のように見えたが、よくわからない。 「結局ね、女の子はすぐ引き上げられたの。男の子が助けを呼んで。それにもともと泳ぎは達者だったしね。その点わたしは、てんでだめで。浮かぶこともできずに、足を泥にかすめとられてしまって。それからしばらく川の中。息も出来なくて。だけど綺麗なのよ。静かで、目を開けると、昼なのに真っ暗で。時折ね、星粒のような光点が見えるのよ。これがね、よくよく目をこらしてみると、当時の学校の担任でね。とてもハンサムな人だったのだけれど。わたし、おかしくて笑っちゃった」 ふふふ、と女は笑った。僕は笑わなかった。女の与太に付き合うのにもいい加減疲れていた。疲労からすこし足が震えていたかもしれない。 「光の点はだんだん数を増していくのよね。それらはジャン・コクトーの詩だったり、完璧な数式の定理だったり、ホドロフスキーの映画の一幕だったり、木星の衛星エウロパだったり、どれも当時の私には理解できなかったのだけど、美しいものだということだけはわかった。わたしはそれらの光景をぼんやり眺めながら、静寂な川の底をたゆたっていた。 「どれくらいの間そうしていたのかわからないけれど、目覚めたときには家で寝かされていて、すでに視力は失われていた。その後、女の子にあったら、見た? って。わたしは知らないふりをした。女の子は疑っていたけど。自分だけのものにしたかったのね、人に話したくないの。いまだってだいぶ説明を省いたのよ。本当の川の底はね、言葉になんてできないものだもの。 「数年たって、女の子は死んだわ。川に飛びこんだの。きっと、もう一度あの光景を見てみたかったんでしょうね。かわいそうに。そのまま川に取り込まれてしまったんだわ。結局、死体が見つかることはなかった。身につけていた靴すらもね」 女がラリっているのは明らかだった。その体温は際限なく高まっていき、いまや触れているだけで火傷しそうなほどだ。冷たい夜気が心地よかった。女の呼吸は荒くなり、白い肌が色づいていた。胸元がふたたびはだけて、呼吸にあわせて大きく上下する胸郭が見えた。 「行こうか。キミは冷たい水でも飲んだ方がいいよ。それから、すこし休んだ方がいい」 「あら、わたし、クスリにあてられたわけじゃないわよ」 「それならそれでいいんだ。僕が疲れたんだよ。もう休みたい。家に来ないか? 麦酒がいっぱいあるよ。友人が持ってきてくれたんだ、Kっていうやつなんだけど」 「いいわ、信じてくれないならわたしにも考えがあるもの」 女が閉じていた瞼を開くと、僕は絶句してしまった。 「どう? 本当のこと言うとね、わたしの眼球は川の泥をたっぷり吸って、川そのものになってしまったの。だから私は川に入らなくても、こうしていつも素敵なものを見て暮らすことが出来るのよ。あなたが今見たのはそのほんの一端にすぎないわ。ね、あなたって、わたしに似てる。あなただってこんなうわべの現実を見て生きているの、馬鹿らしいと思っているでしょ。昔のわたしと同じ。ね、信じてよ、あなたのこと、助けてあげたいのよ。大丈夫、安心して。ころあいを見てひきあげてあげるわ。それに本当に盲になるわけじゃないの。むしろもっといろんな物が見えるようになって、いまよりずっと暮らしやすくなるわ……」 女が鼻頭を首筋にこすりつけてくる。 「ね、ね、いいでしょ。ね、ね。お願いだから。ホラ、トビコンジャエ……」 ハッパの作用が頭にまで回ってくる。僕は正常な思考ができなくなっていく。ハッパの作用が頭にまで回ってくる。僕は正常な思考ができなくなっていく!
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夜の一幕 ( No.2 ) |
- 日時: 2013/08/05 22:02
- 名前: かたぎり ID:pO0i6JW6
仕事を終えると、同僚の誘いを蹴って独り、繁華街から離れたバーにむかう。隠れ家的スポットとまではいえないが、少なくとも会社の連中とはち合わせるおそれはない。無口なマスターが淡々と酒を運び、こちらを静かな気分で酔わせてくれる。客は多すぎず少なすぎずといったところだ。カウンター席にはまばらに客がいるのみで、私はいつも奥の席に座って酒を飲む。そんな孤独な時間が、私という人間にはうれしかった。五十を過ぎてやもめ暮らし。一度は家庭を持ったが、数年ともたずに崩壊させた。二十余年も前の話だ。気ままでよいとはときに言われるが、真似をしたいとはついぞ聞かない。私を見れば思うのだろう、この男の末路はさぞ哀れなものに違いないと。 「あはは、バッカね。そんなの相手が悪いに決まってんじゃん! 殴っちゃいなさいそんな奴。ワンツー、フィニッシュ! こんな感じよ、こんな感じ!」 思わぬ声に慌てた。心を読まれたかのようで、とっさに声のしたほうに視線を向けた。見ればふたつ離れたカウンター席で、女の客が両拳を交互につきだしている。当然私のほうではなく、女はつれのほうに向けて喋りかけているわけだが、その声のやかましさに呆れる。そもそもの地声が大きいのかもしれないが、一言一句までが筒抜けで、中高年が集まる場末のバーにはまるで似つかわしくない。 「わかった? ワンツーってね。あれ、うわ、二の腕蚊に噛まれてる! どうりでむずむずするなって思ってた。昨日外を歩いてたとき蚊が多かったんだよね。川沿い歩いてたからやぶ蚊かもなあ。昨日の朝は雷雨だったでしょ? 湿気が多いと蚊って増えるからね。いやだわー。うわ、なんかどんどん痒くなってきた。ちょっと、マスター! マスター! ムヒちょうだい! ほら、あの塗るとスーってするやつ!」 馬鹿女が。 そんな私の侮蔑などつゆしらず、当人は無口なマスターに両手を合わせて頼み込んでいる。ジェネレーションギャップという言葉が私の脳裏に浮かんだが、はたしてそんな得体のしれない言葉で片づけて良い問題なのだろうか。こうした若者を育てたのは、私たちの世代であることには違いないのだ。育ってしまったものは仕方ないとして、その上で今我々にできることはもはや何もないのだろうか。 「わ、ありがと、マスター! 好き好き、マスター超好き!」 女はマスターからムヒを受け取り、嬉々として己が二の腕に塗り始めた。私はマスターを睨む。違うだろう、マスター。我々がすべきはこうではないだろう。もっと大きな見地に立って物事の道理を説き、そして、ムヒはバーで頼むものではないと切々と諭す……、いや、違う。そうではない。そうではないのだが。カウンターの隅で頭を抱える私をよそに、小娘に媚売ったマスターは、背中を向けて酒瓶の位置を整えていた。 「あれ、なんの話だったっけ? どこからムヒの話になってったんだろう。ワンツーでムヒで。あ、そっか。ようするに、あんたは物事を深く考えすぎなんだって。もっと適当でいいんだよ。考えたって仕方ないことばっかりなんだし」 私はグラスに残った水割りをいっきにあおった。こんな奴らがこれからの日本を支えていくのかと思うと、憮然となる。公の問題には微塵の関心を持たず、ましてや貢献などするはずもなく、男漁りとゴシップだけが楽しみだという下らぬ人生を送るのだろう。これ以上は聞くに堪えぬ。私はただちに席を離れ、マスターにあんな下品な客は入れてくれるなと文句のひとつも言って、店を出ようと決めた。 「わたしもさ、昔はすっごく考えちゃうタイプだったんだ。うちって母子家庭だったから、ひとりでいる時間が長くて、さびしくさ」 持ち上げかけた腰が固まった。母子家庭、子供の寂しさ。そんな言葉に私という人間はどうしようもなく反応してしまう。私は座りなおすと、グラスに残った溶けかけの氷を見つめるようにしながら、女の言葉に耳をたてた。 「学校から帰って家にひとりっきりでいるとさ、わたしはなんでこんなところにいるんだろう、わたしがどんな悪いことをしたっていうんだろうなんて考えちゃう。暗い子供でさ、学校ではやっぱりいじめられたよ。無視されて、教科書破られて、ランドセルにはボンドぶちまけられて。もう死んじゃいたい、なんて何度も思った」 彼女の言葉が少しずつか細くなっていく。語っているうちに、過去の記憶とそこにまとわりつく負の感情が湧きあがってきているのだろう。私はこの話を聞きとどけねばと思い始めていた。先ほどまで見下してくせに、話題が変われば素知らぬふりして話を盗み聞く。そんな自分に飽きれてしまう。真にあさましきは、私のほうではないか。 「ずーっとさ、辛かったんだ。ホントに毎日毎日辛いわけ。朝起きて寝るまで生きられる時間がまるでないの。この気分はきっと永遠に続いて、私はそのうち取り返しのつかないことをする、そんなことばかり考えてた。そうしないかぎり、この辛さからは逃れられないんだって」 私の胸のうちに去来するものはなんだろう。同情、違う。哀れみ、違う。あるとするなら、それは自らの過去にたいする罪の意識だ。胸が締めつけられる感覚に、空のグラスをきつく握る、痛むほどに歯を食いしばる。意味のない行為とわかりつつも、今の私には自らを罰する手段を他に思いつくことができない。。 「でもね、そうじゃないんだよ」 彼女の声色が不意に変わった。ふっと重しが取れたような、なにかをあらためて思いだしたような、そんな口調だった。 「違うな、そうじゃないことも起こるっていうのかな。辛くて辛くてたまらないのがつづいてもさ、ときどき、良いことってあるじゃん。他人からすれば、ほんのちっぽけなことだよ。ちっぽけなことだから、すぐに喜びなんて薄れてって、消えちゃって、すぐにまた辛い気分に胸が苦しくなる。それは、あんたもわかるよね? そう、生きてるって辛いことのほうが多いっていうか、辛いことのほうがどうしたって目立っちゃうっていうかさ。でもね、ここからがおもしろいところ。それでもなんとか生きてると、あるときね、良いことふたつ重なるの日がくるの」 グラスを握る力が弱まっていると気づいた。良いことふたつ重なる日とはなんだろう。彼女はそこに何を感じ、何を見出して生きてきたのだろう。手にしたグラスを二、三度回して氷の粒が回転させると、カランと透明な音が耳を打った。私は目をつむって彼女の言葉に耳を傾けた。 「わたしの場合だとね、まず幼稚園時代に仲良くしてくれた友達から手紙がきた。元気にしてますか? ってそんな内容のやつ。嬉しいことはうれしいけど、あの時のわたしはかえってとまどったな。だって、死ぬほど辛いなんて書けないじゃん。元気だよって書きたいじゃん。どう返したらいいだろうって考えて考えて、半日家の中をぐるぐる歩き回ったよ。 でね、ここからが不思議なんだけど、その日の夕方、郵便受けにもう一通別の手紙が届いたんだ。わたしの馬鹿親父からの手紙だった。宛名が母さん宛てじゃなく、わたし宛てになってたから、わたしはだまって手紙を読んだ。内容はさ、自分はお金を送ることしかできないけど、もし進学や病気や辛い何かに困ったときには、何かの助けになるように別に貯金してあります、いつでも連絡してください、ってことだった。 二歳の時に親父とは離れたから、顔も声も憶えてない。子供のわたしじゃ、お金を稼ぐってことがどれだけ大変かもよくわからない。だけどさ、なんか、あーって思った。わたしってこの人の子供でもあるんだなって。結局親父には返信しなかったよ。母さん裏切るみたいでいやだったから。 それでもね、ふたつの手紙を受けとって、わたしのなかで、なんていうかさ、なにかが弾けたんだ。すげーなって、生きてるとこんな日があるんだなって。きっと別々だったら駄目だった、足りなかった。ちっぽけかもしれないふたつのことが重なって、何倍にも膨れ上がって、わたしは、よし、やってやる! って思えたんだ。本当に本当だよ、だからわたしは今生きてるんだもん。奇跡なんて大げさなものじゃなくていいの。ちっぽけな重なりでいいんだ。それは誰にだってやってきて、びっくりするくらいの力をくれる。 だからさ、あんたも今が辛くてたまらないなら、待ってみなよ。時間がかかるかもしれないけど、待ってるかぎりそういう日はかならず来る。ちっぽけな喜びがふたつ、もしかしたらみっつ、重なる日がさ。そしたらまた歩いていけるよ、きっと」 私は彼女らの後ろを通って出口へ向かう。マスターにいつもより多めの金を渡し、あの子たちの分もそれで済ませてほしいと頼んだ。 「よろしいんですか?」 マスターは、柄にもないことをする私に驚いたらしく、私の顔を覗きこんできた。思えば、このマスターと目を合わすのは初めてかもしれない。 「ああ、良い話を聞けたからね」 そう、それは私のこれからを、哀れな末路がただ待つと思っていたこの人生をまばゆく照らすほどの話だった。 「あれでなかなか良い子たちでしょう?」 「そうだね。ああいう子に、いや、ああいう子たちが育ってくれているなら、とてもうれしく思うよ」 照れ笑いを浮かべる自分に気づくが、嫌な気はしなかった。私はマスターに別れを告げ、出入り口のドアの取っ手に握る。そして、彼女が口にした言葉をもう一度反芻した。 良いことがふたつ重なる日、か。 ならばそれは私にとって今日という日に他ならない。素晴らしい話を聞けたこと。彼女の成長を見届けられたこと。私はカウンターのほうを一度振り返り、またまた来るよと小さくつぶやいて、夜への一歩を踏み出した。
------------------------------------ まずは、投稿が遅れてすいません。今後は気をつけます。 別に書こうとしていた話がどうも進まず、こういった話に変えました。4000字弱というところ。 今回手間取りましたが、まあ、それでも総じて楽しめたかな。 また気が向けいたとき、参加させていただきたいと思います。
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Re: 即興三語小説 ―夏休み。それは子どもの頃の思い出― ( No.3 ) |
- 日時: 2013/08/09 01:22
- 名前: 弥田 ID:CVGm2ggk
感想です
>かたぎりさん 線香がどこでどう絡むのか楽しみにしていたのですが、結局出てこずでちょっと残念でした。 返事をもらえないお父さんがちょっと可愛そうに思えたのですが、最後の最後で救われてることがわかって安心しました。
>自作 後半に疲れがみえますね、キアイいれてください
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かんそう ( No.4 ) |
- 日時: 2013/08/10 12:25
- 名前: かたぎり ID:Nyb.Di1w
>弥田さん
描写が良いなあと思いました。川の臭気が漂ってくるかのようで。女の描写も妖しく艶めかしい。 たこ焼きを口移しで「僕」に喰わせるなんて、とてもエロティックです。 また、後半、川に落ちたという女の見たイメージに、狂気や陶酔を感じつつも、一方で美しいとも感じました。 気になったのは、たとえば「麦酒」とあるように、全体として一昔前の雰囲気を意識して書かれているように思ったのですが、 そんな中で、マスターする、パニック、という用語にちょっと浮いた感があったこと。ホドロフスキーとあるから、あるいは現代が舞台なのかもしれないけれど。 あと、あらためて読み返すとKとの会話って必要だったのかな、とも。
弥田さんの作品を読むのは久しぶりでしたが、以前よりグンとパワーアップされたなあ、などと思いました。また読ませてくださいませ。
>自作
出来が良いとはとても言えないなあ。でも、それが現実だって受け止めて、次に活かしたいと思います。 それと、お題をひとつ勘違いしてました。ごめんなさい。
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