『顔』 ( No.1 ) |
- 日時: 2013/03/20 02:08
- 名前: 沙里子 ID:vZq4WypQ
昨晩から空調が壊れている。陽が高くなるにつれて部屋の湿度は増して、裸のまま布団に寝転がった僕の気力を削いでゆく。八月の午後。窓枠にばっつりと切り取られた夏空は阿呆みたいに青くて、ふかい。 四畳半のこの部屋は、べったりと肌にまつわりつく湿気と、煙草の烟に充ちている。ブラウン管の玩具みたいなテレビに向かってコントローラーを叩いている同居人の頭を、軽くはたく。 「おい」 「何」 「煙草やめろ。うざったい」 ん、と彼は大人しく灰皿にまだ仄赤い吸い殻を落とした。それでももう片方の手はしなやかにボタンの上を滑りつづけている。こちらを見る気配はない。僕は手を伸ばし、灰屑にまみれた煙草を取り出してくわえ、ふたたび火をつけた。 「結局、喫うんだ」 ふは、と息の抜けるように笑う。はじめてこっちを見た。灰色の上下スウェットに、栗色のぼさぼさの髪。そして、ぐちゃぐちゃの醜い顔。 僕は烟を柔らかく吐き出した。真夏の午さがり。飛行機の轟音が、ほの暗い繭のような部屋を微かに震わせる。
一年前まで、こいつはきちんと人間だった。紺野光、という名前の、十七歳の男。僕の幼馴染で、小さい頃から一緒に過ごしてきた男だ。昔から運動が得意で、高校ではサッカー部の副主将をやっていた。得意な科目は体育、すきな食べものは寿司。四人兄弟の末っ子。坐るときはいつも背骨をかすかにまるめ、笑うと顔がくしゃりと柔らかく綻んだ。おおさっぱな性格で、いつも飄々としていた。そういう、人間だった。自動車事故にまきこまれて、顔面を崩すまでは。 執刀した大学院の医者は、皮膚が足りないと言った。だから僕は、自分の細胞を提供した。彼が助かるのなら、なんでもする。泣きながら僕は言った。もう一度、もう一度彼と話がしたい。こどもの頃の思い出をなぞりながら、僕は毎晩涙を流した。僕のたった唯一の、友だち。かれがたすかるのなら、なんでもする。 僕の細胞は培養され、増やされ、そこから顔のパーツが生成された。あなたの細胞がなければここまでの再生はなかった、と医者は言った。光の両親は泣いて喜び、僕を抱きしめた。 いよいよ、手術を終えた彼と対面することになった。僕は嬉しさのあまりにゆるむ頬をひきしめ、一人で彼の病室へ向かった。クリーム色のカーテンをあけたその瞬間、僕は用意してきた祝福の言葉のすべてを一瞬で失った。 光の顔は、潰れていた。唇は裂け、頬の皮膚は引き攣れていた。鼻筋はぐねぐねと曲がったかと思うと唐突に潰え、平たくうすい鼻腔がふたつ、押しつぶされるようにして開いている。目だけが異常に大きく、澄んでいた。喉元に嘔気がこみあげてきて、傍にあった銀色のボウルに吐いた。なんてきもちわるい顔。 「足りない部分にあなたの細胞から生成したパーツを縫いつけました。見た目はかんぺきに元通りとはいきませんが、五感はきちんと感じることができます」 医者の話から想像したのとは、まるでちがう化け物がそこにいた。青緑いろの泥のなかに、僕の顔をこまかくちぎり取って浮かべたようだった。ちぐはぐな、かんばせ。本能的な不快感で、また吐き気がせりあがってくる。おそろしく醜くなった自分を見ているようだった。こんなの、ただの怪物だ。 「だれだよおまえ」 唇の端からしたたる唾液を拭いながら、僕は光の肩をゆさぶって言った。まだ麻酔が効いているのか、彼はうつろな目で僕を見上げるだけだった。 「だれなんだよ、おまえは」 がくがくと肩を強くゆすりながら、叫ぶ。すぐに看護師がやってきて、僕を羽交い絞めにした。光は空虚なまなざしで、宙を見つめていた。
退院した光は、一人暮らしをしている僕の部屋に転がり込んできた。他に行く宛てがないのだと、彼はいびつな唇を噛んだ。両親のつくり笑いが鬱陶しくて、実家にはいられない。ほかの友達には、話しかけることすら許してもらえない。 「頼むから、ここにおいてくれないかな」 光は懇願した。潰れた顔の男が、僕によく似たかたちの瞳から涙を流している。たぶん、僕の部屋が彼の最後の希望だ。断れば、きっと彼は死ぬだろう。 幼いころからの、親友。いつも一人だった僕を、助けてくれた彼。 僕は目を閉じて、言った。 「わかった。一緒に暮らそう」 光は笑い、そしてまた泣いた。僕は目を逸らしながら、彼のおぞましい顔をティッシュで拭いて涙をぬぐってやった。
夏の午後は、ゆっくりと熟してゆく。腐った果肉のような赤い空を見ながら、僕はまどろみのなかでテレビゲームの音楽をきいていた。外で発情期の猫が鳴いている。きっと光は、この先女と寝ることはないのだろう。ロマンや恋愛などとは程遠い、薄暗く湿った部屋の隅に寄生して、ひっそりと日々を消化してゆくだけの人生。彼に僕の細胞をあたえたことに、果たして意味はあったのか。 「ねえ、知ってる」 ふいに彼がふりむいた。崩れてはいるものの、かつての面影がうっすらと滲む程度に残った輪郭。沈んだ眼窩にはめこまれた眼球は、まちがいなく僕のものだ。唇の色も。皮膚のざらついた質感も。栗色の猫っ毛も。なにもかも、僕のものだ。 溶けてゆく。彼のなかでふたりのにんげんが溶融して、ひとつになってゆく。彼は彼であり、彼ではなく、僕であり、僕ではない。 「俺がここに来てから、今日で一年経つよ」 ふうん、と僕は頷く。彼は顔をこれ以上ないくらいに歪ませた。目が幾重もの皺を描きながら細くなる。 「ありがとう」 彼は、笑っていた。喉元に何かがこみあげてくるのが分かったけれど、僕は必至で我慢した。悟られないよう無表情をつくって、できる限り平坦な声で訊きかえす。 「なにが」 「いや。ただ言いたくなっただけ」 それだけ言うと彼はふたたび僕に背を向けて、ゲームに熱中し始めた。 僕の顔をしたまま、僕にすがり、僕の部屋で生きている彼。こんな生活、いつまでつづくのだろう。ああ、と僕は声にならない声でつぶやいた。そうして、かつて紺野光だった生きものの背中に向かって、問う。 ひかる。おまえはいま、どこにいるんだ。 呟くとともに吐き出した烟が、揺らぎ始めた夕暮れの空に淡く溶けていった。
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久しぶりの参加になります。かかった時間は1時間半で、2490文字でした。 読んで下さった方、ありがとうございました。
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Re: 即興三語小説 -今週は祝日があったよね ( No.2 ) |
- 日時: 2013/03/21 03:32
- 名前: 水樹 ID:rtnuyD42
吹けよ春風
もっと吹ぶけよ春風、僕に力を。神様、どうか心の桜を満開にしてください。 「ごめんなさい」 見事に散った。彼女はその一言で足早に去って行った。せめてこの春風でスカートの中身でもと、男ならではのロマン、発情期さながらのよこしまな考えの僕に、朗らかな風が容赦なく突き当たる。 最初から咲いてはいないが、見事に散った。このまま春風に乗って南極で凍えてしまいたいぐらいだ。ああ、暖かい風は南風だから行くのは北極かカナダだ。北極にペンギンは居るのか居ないのか、英語は苦手だなとか、悩んでいる振りをして、振られたショックを無くそうとして立ち尽くしている僕に、 「ドンマイケル」 お尻に蹴りを喰らわせる。 ドンマイケルのケルは蹴るらしい、良く分からないが毎度の事、男勝りの幼馴染みのユカリに蹴られる。僕が振られるのはいつもの事だった。 「いてて」 お腹は痛くないけど僕はうずくまる、振られたショックで泣きたいからだ。 「強く蹴り過ぎたかな」 多少、天然が入っているが、一応は心配してくれる。 「大丈夫、この桃尻はちょっとやそっとじゃ…」 お尻を摩りながら見上げるとそこには満開の桜が、いや、ピンクの下着が咲いていた。春風ありがとう。 キャッ、とスカートの上から抑えるユカリにキュンとした。胸が高鳴り、股間に血が巡り、僕の立派な桜木が開花しようとしていた。 立つに立てない状況で僕は、膝を付け、 「信じて貰えないけど今、僕はユカリに恋をしたんだ。心奪われたんだ。僕と」 押し倒され、言葉を奪われた。厳密に言うと唇を奪われた。舌を絡める馬乗りのユカリを、僕の千年桜は突き上げていた。春風とユカリの温かさに包まれる。 何かもう、色々満開だ。
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