Hello. Most We Sing The Song? ( No.1 ) |
- 日時: 2012/08/26 22:46
- 名前: 星野日 ID:5yZgNZb6
スリッパが片方だけない。というのはよくある。それが靴下の場合もある。 もう一方がどこにもなくて、洗濯干しに吊り下げっぱなしの灰色の靴下を、来週の古着の日に捨てようとよく考えたりする。僕の脳みその一パーセントくらいは、靴下を捨てることを考えている。ということを話すたびに、律子は「またその話か。とっとと捨てればいいのに」とつまらなそうな顔をした。「きっと部屋のどこかにまだあって、もうすぐ見つかりそうな気がするんだ」と言うのは嘘で、古着の日に出すのを毎度忘れているだけだ。 ある日、マックでフライドポテトを食べていた。百円だからリーズナブルだと考えるか、フライドポテトを五回我慢すれば新しい本を変えると考えるか。それは人それぞれだろう。二回我慢すれば遊園地で動く犬とかに十分間乗れるし、それとも募金すれば百円で救える命があったと考えたりするのも自由だ。ということをだらだら考えて時間を潰すのには、マックで百円はらってフライドポテトを食べるに限る。 僕の携帯がなった。着信曲はU2の「Sunday Bloody Sunday」。I can't believe the news today。律子だ。 「涼さん。今どこにいるの」 と電話の向こうで苛立った声。 「マック」「どこの」そんなに答えを急かさないでほしい。「お前はお母さんか」「だから、どこにいるわけ」このとおり、話を聞くつもりもないらしい。場所を教えたら、彼女は急いでくるに違いない。それからマックのフライドポテトがいかに肝臓に悪いかとかを滔々と語ったり、それから夜ふかしはよくないとか、運動をしたほうがいいとか、言うのだろう。「GPSの使い方もわからないのかい」と言った。「そんなもの教わってないもの」知ってる。 電話を切る。イライラしながら爪を噛む律子が容易に想像できた。 「だれだったの」 眼の前の席には、女が座っていて、電話の相手を訪ねてきた。彼女は僕のフライドポテトを盗むのが趣味だ。女というのはたいてい、男からなにかを盗んでいく。 「妹だよ。帰って来いってうるさくて」 「嘘でしょ」 呆気無くバレてしまった。嘘はいずれ見ぬかれてしまうものなのさ。大丈夫、泥棒は始めないから。 「本当は、俺のドナー用クローン」 「ああ。事故とか病気になった時のために作る」 「うん。だから心配性なんだ」 ふうんと興味を失ったような相槌。彼女はまたフライドポテトをつまみ取った。ビーズやらを貼りつけた爪が、マクドナルドの安っぽい照明を弾いてキラキラと光っている。ここが森だったら、狼の恰好の目標になっているところだ。しかしコンクリートジャングルには紳士しかいない。無菌室みたいなものだ。 ポテトが残り一本だけ残った。向かいに座る彼女が脂ののった唇を舐めながら「私それほしい」と言いたげな視線で訴えてきた。このポテト一本で救える命がある。ってことは、これは命のポテトだ。僕だって食べたい。 ポケットからプラスチック製のナイフを取り出した。肉も切れるし、人参も切れるし、コンニャクも切れる。切れないものは人の縁くらい。だからフライドポテトだって切れる。不正確に二等分したポテトの小さい方をとって食べた。大きい方を差し出せば、彼女はご機嫌だ。 「フライドポテトって、食べるとレモンが欲しくなるよね」 と彼女が言うので、僕はキリンレモンを注文した。着色料が入っていないので体にいいはずである。
僕のアパートのスリッパの話をしていなかった。 といっても、スリッパが片方みつからないというつまらない話だ。 そのスリッパは僕が十歳の頃から気に入っているスリッパで、いまではもう足が入らない。お守りみたいなものだ。対のお守りの片方がなくなってしまった。これは不吉だ。例えるなら、二つのうち一つをヤクザに持って行かれてしまった肝臓のようなものだ。一度、借金のしすぎて取られてしまったことがある。だが律子のおかげで、僕は今元気だ。律子さまさまである。そういえば、一昔前に「〇〇さまさま」って名前のふりかけがあったな。 ともかく、大事なスリッパなのだ。漢字にすると素立派。つまり素から立派なものが、思い出と共にさらに立派なになったという。と言うのは嘘だが。誰にだってなんとなく捨てられないようなものがひとつくらいはあって、僕にとってはこのスリッパなのだ。思い出は大事だ。人間を大きくする。律子を例にしよう。見掛けは成人女性だが、実は四歳程度で、GPSの使い方もわからないくらいペラペラな過去しかない。読書歴もせいぜい、ノンタンではじまってバーバパパで終わっている程度。きっとピザの作り方すら知らないだろう。僕も知らない。クローンだけあって、そういうところは僕にそっくりだ。 思い出した。スリッパがなくなったのは二年前。甥っ子が遊びに来た時だ。当時は思いもよらなかったが、きっと甥っ子の犯行だろう。身内に犯人がいたとは、意外性抜群で火曜サスペンスにできるかもしれない。そういえば子供は何でも食べてしまうから気をつけなさいと言われていた。よだれをだらだら垂らしていたのもそういうことか。僕も危なかったかもしれない。 人間ならば簡単にクローンを作れる。だがスリッパのクローンなんて作れない。甥の胃袋に消えてしまったスリッパの片割れは、永遠に失われてしまったのだ。この悲しみを理解できるのは、世界に僕だけだろう。 そんなつまらない話だ。 U2の「Sunday Bloody Sunday」が鳴った。僕は英語の歌詞を心の中で和訳する。 “ニュースなんて嘘だらけ 目を閉じても忘れられない事件があったのに いつまでこの曲を歌い返せばいいのだろう いつまで、いつまで……” 着信が切れて、また冒頭から同じ音楽が繰り返される。律子め、一度電話を切ってかけ直す意味がわからない。十秒後に出なければ、十一秒後にかけ直しても出れないに決まっている。三回ほど和訳活動を強制中断させられて、僕は諦めて電話に出た。妥協するのはいつだって子供ではなく大人の方なのだ。電話に出なくたって、内容が「どこにいるのか」「なにをしているのか:「いつ帰ってくるのか」なのは分かっている。聞かなくても分かることをわざわざ言うて、脳みそが足りていないのではないか。「なあ、お前、クローンを作る気ないか。足りない脳みそを移植するために」、と律子に言ってみた。ぶつりと電話が切れる。洒落のわからないやつだ。 ところで、誰もがそうであるように、俺にも一人親友がいる。ジョージという男だ。 彼に呼び出された。そして喫茶店でいつものように他愛もない話をする。今日の天気の話。最近出たゲームの話。犬の話。共通の友人の噂。明日の天気の話。明後日の天気の話。 「ところでお前、律子ちゃんのこと大事にしてんの」 来週の天気の話のあと少し話題が切れて、思い切ったようにジョージが律子の話をしだした。 「大事にしてるよ。バーバパパの絵本を読んでやったり」 「それ、去年の話だろ」 よくご存知で。もしかしたらジョージは律子のストーカーなのかもしれない。だが律子は、性別が女だというところ意外、俺と同じ遺伝子を持つ(律子の性別が女なのは、女の遺伝子を持つからではなく、発生時にホルモンを調整しメス化したからだ)。つまるところ、律子をストーカーするということは、俺をストーカーするという事と近似した行為であり、ジョージはゲイなのかもしれない。 しばらく彼の話すままにして、僕は聞き手に徹する。どうやらジョージはかなり律子に同情しているようだ。「かわいそうだ」「あんなに可愛いのに」「人間らしく扱え」などなど。おいおい勘弁してくれよ。僕はこんなに良い子で、怒られるようなことなんてなにもしてないだろう。話にも飽きてしまったので、「そろそろ用事があるんだ」と嘘をついて分かれることにした。嘘だという事は呆気無くバレているだろう。でもジョージは「そうか」とだけ言って、僕らはわかれた。彼がこういう性格だから、僕らは親友でいられる。
久々に家に帰ると、アパートの前に律子が寝ていた。真っ黒な血が黒マントのように広がっている。空も飛べるはず、そんな昔の歌の歌詞を思い出した。見上げると、真上には僕の部屋があって、ベランダの窓が開いている。あそこから飛び出したのか。それは飛べなかったようだ。 警察呼ぶと、ジャスト五分後にパトカーが到着した。日本の警察は優秀だ。税金泥棒なんて僕は言わない。家に上がると、テーブルの上に紙がおいてあった。 「RYOさんが可愛すぎて生きるのが辛い。どういう意味でしょう」 「彼女には僕のことを涼ではなく、RYOと呼ぶように言ってありました」 「なるほど」 刑事がうなずく。ベランダには例の片方しかないスリッパが、両方揃えておいてあった。ふむ。僕は推理する。探しても探しても見つからなかったスリッパの片割れ。どうやら律子が隠していたらしい。もしかしたら靴下もあいつが隠しているのかもしれない。そう思って律子専用のタンスを開いた。空っぽで、バーバーパパの絵本以外にはなにも入っていなかった。
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