『拝啓』 ( No.1 ) |
- 日時: 2012/03/11 20:51
- 名前: 沙里子 ID:sKTeb2LE
拝啓
桜の蕾がほころびはじめた今日この頃、いかがお過ごしですか。 こうして貴方に手紙を書くのも久しぶりですね。急を要する報せなどはもちろんないのですが、暇なときはこうやって筆を執るのが習慣になってしまいました。この屋敷では、あまりにすることがないものですから。 今頃、裏庭の桃は満開でしょうね。いつでも薄暗いあの小さな庭に、露に濡れた梅の花がぼんやりと白く咲き散らばっているのを、今でもはっきりと思い浮かべることが出来ます。咲きたての梅のあまいにおいが家中にたち込めて、姉上たちはもちろん、父上や母上もその香をさぞや楽しんでいらっしゃるでしょう。羨ましい限りです。ですが、私のことを不憫に思わないでください。末弟に生まれた貴方はいつだって、時には痛々しいほど優しいのですから、私のことを考えて涙しているのではないかと心配でなりません。屋敷にも、あの家に負けないほど立派な庭がたくさんあるのですよ。松門を入ってすぐにある広大な庭が私は大好きですし、三つもある中庭はどれも素敵に苔むしていて、ささやかな花々がひっそりと咲いています。縁側に腰かけて、女中と話しながら茶菓子を頂くのが最近の何よりの楽しみになっています。 ああ、今、格子窓の外でひばりの鳴き声が聞こえました。春うらら、ですね。一緒に梅の花を眺めてお茶をしたいのに、旦那様はいつお帰りになるのか知れません。せめて桜の花見はご一緒できるといいのだけれど。旦那様にはまだ一度しかお会いしていません。あれは私が屋敷で暮らし始めてから一週間ほど経ったときのことでした。すらりとした長身に藍染の着流しをお召しになられた、美しい方でした。美しい、という言い方は相応しくないのかもしれません。けれど、やっぱりあの方は美しいのです。陶器のように張り詰めた白い膚、黒々と光る眸。あの夜、私はあの方の美しさに見惚れて身動きひとつできませんでした。それでも旦那様はお優しい方でした。あまやかな痛みのなか、障子の向こうでぼんぼりの灯りが揺らいでいた光景だけをはっきりと覚えています。 少し、余計なことまで書きすぎたかもしれません。不快になられたなら申し訳ありません。でも決して、母上には言いつけないでくださいね。私と貴方だけの秘密にしておきましょう。 明くる朝発つ前に、旦那様は私に桐でつくられたうつくしい万年筆をくださいました。今この手紙も、頂いた万年筆で書いています。あざやかな群青の文字をつらつらと書き連ねてゆくたび、幸福な気持ちになります。この桜色の着物も、そのとき一緒に頂いたものです。淡い桜色に金箔が散りばめられている布地に、萌え出でたばかりのように柔らかな若葉色の帯。こんなに素敵な着物をくだささるなんて、本当にお優しい方です。この着物を着るたびに、はなやいだ気分になります。格子戸の向こうに広がる空は青く高く、桜色の着物、ホトトギスの声、咲きほこる春の花の匂い。春、うらら。 もうすぐ雛祭りですね。女中たちがはりきって御馳走を用意してくれるらしいのですが、どうやら旦那様は今回もお帰りになられないようです。やはりご家族でお祝いされるのでしょうか。空を自由に飛ぶ鳥たちの姿を思うと、自然にため息が出ます。私はまるで文鳥です。風切羽を毟られ、美しく編まれた竹篭に閉じ込められた、ちいさな小鳥。気まぐれに与えられる餌を待ち続ける、ちいさなちいさな小鳥です。ああ、どうか勘違いしないでください。私は今、幸福です。広大な屋敷に美しい着物まで頂いて、本当に幸福なのです。ただ、旦那様が来られるまでの長い時間を持て余しているだけで。他に足りないものは何もない、幸福な日々を送っています。 便箋が尽きてしまいそうなのでそろそろ筆を置こうと思います。これからの時季、お体に気をつけてください。貴方は兄弟のなかでもひときわ体が弱く、しょっちゅう熱を出していましたね。貴方が蕁麻疹で寝込んだときのことを、ふと思い出しました。布団の傍に座り、貴方の手を握ったときの熱。闇に浮かんで見えるほど白い手のひらは、まるで炎のように熱かったのです。夢うつつで私の名を呼ぶ貴方が、いとおしくて仕方ありませんでした。貴方はとても優しい子。だけどどうか、私のことは心配しないでください。決して、屋敷の場所を突き止めようなどとは思わないでください。このことを知っているのは、貴方と私だけです。父上や母上まで心配をかけたくありません。私は幸せです。とても幸せに暮らしています。それだけ伝えておいてください。お願いします。 またお手紙を書きます。それまでどうか、お元気で。
敬具
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こういう形式で書くのは初めてです。 難しかった反面、楽しく書くことができました。もうやらないとは思いますが……。 読んでくださった方、ありがとうございました。
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