『つめたいまなざし』 ( No.1 ) |
- 日時: 2012/02/28 19:06
- 名前: 沙里子 ID:1OgHC0eY
そのままうごかないで、と卯月さんが言った。わたしは息をとめて膝を抱く。ふとももに押しつけられた小ぶりの乳房が、やわらかくつぶれる。 アトリエはいつもインクの匂いがする。きっと青いろの、さらさらとしたインクの匂い。眼球だけを動かしてあたりを見わたすと、窓からさしこむかすかな光の束に淡い埃がただよっているのが見えた。床におちたひかりは網になり、散らばった絵の具や筆やスケッチブックの上をゆるゆると揺らめいている。ふと小学生の夏休みを思いだした。大量の泡つぶ。プールの底にゆれるひかりの網。無音の世界。 狭いアトリエに、しゃっしゃっとカンバスに粗い線を描きつける音がひびく。彼がちらりとこちらを見あげるたびに、どうしようもないな、と思った。本当にどうしようもなかった。身じろぎすると、椅子が軋んだ。
陶器になったと思えばいいよ。ちいさくてまるい、つるんとしたまっ白の陶器。 はじめてわたしがヌードモデルをした日、卯月さんはそう言った。それ以来、わたしの頭の隅にはいつも白い陶器のイメージがある。 「実際、和泉さんは色白だし」 「それって、くどいてるんですか」 冗談まじりに訊きかえすと、卯月さんは声をたてて笑った。ふは、と息のぬけるような笑いかただった。 「要するに、無機物のようにつめたくて且つやわらかな白いまるみ、を意識しておいてほしい」 むずかしいこと言うなあ。わたしがつぶやくと、卯月さんはもういちどくすくすと笑い、それから「ポーズは任せるよ。和泉さんのいちばんリラックスできる格好でいい」と付け足すように言った。わたしはうずくまるようなポーズをえらび、それからずっとその格好で彼に見つめられつづけている。 卯月さんは高校の美術教諭だ。生徒に美術を教えるかたわら趣味のデッサンをして、ひそやかに暮らしている。ときどき油絵コンクールにも作品を出品しているらしい。美術部の部長だったわたしは、他の人たちより多くの時間を卯月さんと過ごした。だから、モデルのバイトをしてほしいとたのまれたときもわたしはすぐにひきうけ、そうしてためらうことなく服を脱いだ。 一度、卯月先生はどうしてわたしをえらんだんですか、ときいたことがある。まだ先生をつけて呼んでいた頃だった。雨に降りこめられた昼下がり、デッサンを終えたわたしたちは卯月さんの淹れたコーヒーを飲んで休憩していた。 「ヌードデッサンならわたし以上に描きがいのある人がいるんじゃないですか。もっとこう、妖女みたいにあでやかな」 卯月さんはコーヒーをすすりながらしばらく考えた。しずかな部屋に、雨音だけがやわらかく響く。 「伏せた目がね」 唐突に、卯月さんが言った。 「伏せた目が、きれいだと思った。あと肩甲骨のかたち。鎖骨。輪郭。背中。しなやかな喉頸」 ああもうそれ以上言わないで、とわたしは顔を赤くしながらさえぎった。卯月さんはおもしろそうに笑ったあとに真顔で、かわいらしいねえ、とつぶやいた。わたしはますます赤くなった。 そんなこともあったなあと、とりとめのないことをぼんやりと考えていると、あっというまに時間がたつ。時計がないからわからないけれど、はじまってから三十分は経ったはずだ。視線を泳がせていると、ときおり卯月さんの視線とかち合う。おどろいて、それでも逸らせずにいると、向こうからふっと逸らされる。目と目が合うその瞬間の、ひやりとした感覚がどうしても苦手だ。なんの感情もない凍てつくようなまなざしを、わたしはどこかで知っている。 子どもの頃、プールにつき落とされたことがあった。とても古い記憶で、どこのプールかも覚えていない。ただ灼けるような暑さと塩素のつんとしたにおい、ソフトクリーム屋の看板と人々のざわめきが、まなうらに強くのこっている。 若い男たちだった。浅黒い肌をした若者が、数人、わたしに話しかけてきた。おどろいて焦るわたしを、彼らはなにか囁きあいながらにやにやと眺めていた。そのうちひとりがこちらに手をのばしてきた。とん、とかるく背中を押され、次の瞬間にはもう水中にいた。目の前を、大量の泡つぶが過ぎてゆく。わたしはおおきく眼をひらいたまま沈んでいった。こわくはなかった。それよりも、こんなにまっすぐな悪意をむけてくる人がいるということにおどろいていた。それも水中につき落とされるぐらいに強く、純粋な悪意が。水底は、うつくしかった。どこまでも平坦な青の世界。水にふさがれた鼓膜で、それでも呼吸音が体の内側でひびいているのが分かった。 もしかするとあれは善意だったのかもしれない。迷子になっていたわたしに彼らは手を伸べただけだったのかもしれない。何かの拍子にわたしがひとりでバランスをくずし、プールに落ちていったのかもしれない。そんなことは知らないし、本当のことなんて知りたくもない。ただ水中に落ちていくときに見た、若者たちのひとみはつめたかった。まるで無機物を見るような、平らかで無関心な目つき。落ちていくわたしを傍観する、どこまでも凍てついた視線。わたしは二度と忘れない。透きとおった悪意を、あのまなざしを。たとえ錯覚だったとしても、わたしはけっして手放さない。 デッサンを終えるころには夕方になっていた。時計を見ると、一時間とすこしが経っていた。下着を身につけながら、わたしは卯月さんになにげなく訊ねた。 「今年もモデルのバイト、他の子入れないんですか」 卯月さんはわたしに背を向けるかたちでシンクに立ち、溜まった絵筆や汚れたパレットを洗っている。 「そうだね。和泉さんのバイト料をはらうのに、せいいっぱいで」 卯月さんは言いながら、ふふ、と笑う。彼の微笑みはいつだって優しい。たっぷりと熟れた、とろけそうなすももみたいな笑いかた。 「さて、次はいつ来てくれる?」 ふりかえり、ポケットから手帳を取りだしながら卯月さんが訊く。 「来週の水曜が空いてます。それと、あの、さっき描いた絵、見せてもらえませんか」 卯月さんは「いいよ」と言い、白いカンバスをこちらに向けて置き直してくれた。描かれていたのは、まるい背中だった。うなじから腰まで、うねうねと浮き出た背骨がのびている。いつか誰かに押された背中。とん、と。限りなくやさしく、残酷に押された背中。 わたしはデッサン中の卯月さんの視線を思い出した。傍観の瞳。ぞくりとする。たまらなく、好きだ。透きとおったそのまなざしに恐怖を感じる一方で、もっと欲しい、とも思う。 いつだってやさしい卯月さん。愛しい愛しい卯月さん。わたしのだいすきな卯月さん。もっともっと、わたしを見て。冷めた目で、わたしを見て。青の世界へ、つき落として。 微笑みつづける卯月さんを見ながら、どうしようもないな、と思った。初夏の夕暮れ。
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テスト前に何してんだわたしは、と我に返りそうになるのを必死にこらえて書き進めました。次回からまじめに勉強したいと思います。 読んでくださった方、ありがとうございました。
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