善人はなかなかいない ( No.1 ) |
- 日時: 2011/09/18 02:00
- 名前: ぢみへん ID:Apm6yEKw
「す、すみません」 明恵は慌ててタオルを取り出し、こぼれた液体を拭き始めた。その目前には、ビール、ワイン、水、コーヒー、様々な液体を一身に浴びた男が椅子に座っている。彼と一緒に円卓を囲んでいた数人は驚きと失笑を隠しえない。 男は言った。「友人達の前で食事の粗相をするとは、メイドの分際でどういうつもりなのかな?」この、壁際に座った客は見るからに怒っている。「恥をかきにこんなところまで来るなんて最悪の気分だよ」彼の肩越しに見える大きな窓から夕闇の迫った九月の空と秋葉原の雑踏が展望できた。 親からでさえこんな屈辱的な叱責を受けたことはない。父の言うとおりだった――色を失った顔で明恵は思う。17歳にして人生最初のバイトは父の言うとおりコンビニにしておくべきだった、メイド喫茶は失敗だ。 そこへ円卓を囲む男達の一人が明恵の顔の前にタオルを差し出した。 「どうもすみません」明恵はぶち撒かれた水で台無しになったピザを片付け、もらったタオルで台上を拭こうとした。 「そうじゃない」タオルを渡した男が言う。「彼を拭けよ」 「えっ?」どぎまぎしている明恵を円卓上の他の男たちはニヤニヤして見ている。「でも…」 「もういい」びしょぬれの当人が口を挟んだ。「店長を呼んでくれ」
数分後に店長がやってきた。「大変申し訳ありません」明恵はその隣で神妙にしている。 「店長」タオルで自分の顔や服を拭きながら被害者の男は言った。「秋津島に配達してくれ」 「いや、でも……その、まだ新人でして」 「いつかはやることだろ、え?」 「はい」 「じゃあ、そうして。いつものやつをね」 「いつものって?」 「……」 「あ、あの、少し場を和ませようと思いまして……すみません」 ほどなくして男とその連れは出て行った。それを見計らうと店長はテーブルを片付けていた明恵のそばに寄って言った。「明恵クン、ちょっと配達お願い」
20分後、アップルパイを持った明恵は高田馬場に向けて従業員控え室を出た。すれ違いざまにシフトに入ってきた20歳前半の女性が明恵を見て、少し驚いた顔をした。切れ長の目をした、顔立ちの整ったポニーテールの女性だった。 「新人さん?」 「はい」 「配達に行くんだ」 「ええ、店長に言われて……」メイド喫茶に配達なんてあるんですね、と明恵は話したかった。面接ではそんな仕事は聞いてないんだけど、みんなそうなんですか? 「気をつけてね」 「えっ」その切れ長の眼が何を言っているのか、明恵は直感で感じ取ろうとしたのかもしれない。でも、できなかった。 「何でもない。パイ潰さないようにね」
十数分後、明恵と入れ替わりにポニーテールの女性がメイド姿で店に入り出勤を伝えた。店長に直接声をかけて出勤を伝えるのがこの店の決まりだ。 「優子、入ります」 「今日もお願いね」 「店長」 「ん?」 「あの子を配達に行かせたんですか?」 「あの子というと?」 「さっき控え室から出て行きましたよ、パイを持って」 「ああ……」その瞬間、店長の目がどことなしに泳いだ。「『秋津島』だ。あの子は何も知らない」 「彼女、未成年ですよ」 「分かってる」分かっている。エスコートには早すぎる年齢だ、それは分かっている。 玄関でアラームが鳴った。新しい客のご到着だ。客への応対は店長の役目だった。「優子クン、じゃあまた後でね」
入り口で店長を待っていたのは最近顔なじみの客だった。酒癖の悪いのが少し気になるが金払いが良いので多めに見ている。 「優子ちゃん、いる?」 「いますよ」 「どこに?」 「それは知りません」 「……」 あえて表情に出さない客を見て、店長は屈託の無い笑顔で話を続けた。「冗談ですよ、場を和ませようと思いましてね――」
----------------------------------- 久しぶりに時間があったのでチャレンジしてみました。 構想と多少の推敲含めて3時間くらいですか。あまり深く考えず、イメージ先行で書きました。
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