材料人間たちの朝 ( No.1 ) |
- 日時: 2011/08/05 01:50
- 名前: 片桐秀和 ID:pO0i6JW6
朝、家を出るまでの時間はいつだって忙しなく過ぎるもので、今日は今日としてやはり慌しく、僕はどうしても決まらない髪型にいらだっていた。そもそも。そもそも僕の髪は猫っ毛であって、柔らかいのであって、そして細く、ムースだのワックスだのをつけてむおむおと格闘しても、すぐに形が崩れてしまう。僕はだんだんだんだんと腹が立ってきて頭がクラクラ熱くもなってき、ついに髪を毟り始めることにした。 「こんなもの、こんなもの」 僕が一人でぶつくさ言っているのを聞きつけた母は、僕の行為を観とめると、 「そんなことをしていたら遅刻するわよ。あきらちゃん」 と言うのであった。 あきらちゃんてなんだよ、ちゃんて。母は家にいるときだけならまだしも、友人と登下校中の僕と偶然ばったりするときも、あきらちゃんと呼びかけてくるので、僕はそれが困っている。なんどちゃんはやめておくれといっても、しかし母はいっこうにやめる気配がないどころか、あえてそうしている節が見て取れるのであった。この子はわたしのあきらちゃん。わたしのぼっちゃん。うふふ、といった風に。 いい加減髪をむしる時間さえなくなり、僕は母が朝食に焼いた餅をひと齧りすると、行ってくる、といって玄関に向かった。 「忘れ物はないの?」 母がエプロン姿で玄関まできていう。 「昼飯代」 僕は答えて言う。 「昨日渡したじゃないの」 「ないものはないんだ」 こうして朝のあわただしさの中で小遣いをせしめるというのは、僕がしばしば使う手であって、母としてもちまちま問答している時間はないことは承知しているはずで、しぶしぶ財布を紐を緩めた。 僕は母から父の指を二本もらうと、玄関の扉をあけて、今日という一日を始めるのである。
僕はバスに乗っている。学校まではバスで約二十分。自転車でいけない距離でもないのだが、そもそも朝に弱い僕であるから、バスの中でうつらうつらしながらなんとか頭を切り替えるというのが僕の習慣というものである。 愛子さんだ! うつらうつらの僕の頭をいっぺんに醒ましてしまうのが愛子さんで、僕の初恋の女性だ。隣町の停留所で愛子さんがバスに乗り込んでくると、今日はなんとどういうことか! 愛子さんは僕の座席のまん前に腰を下ろしたのであった。愛子さんは美しい人である。いつもおめかししていて、今日は耳からかかとが生えていた。どこぞの不良とは違って、角質ばっていないつるんとしたかかとのなんと美しいことか。愛子さんは髪を結わえてちょんまげのようにして、それを口にくわえ、停留所まで急いで駆けてきたためであろう、フッフー、と息を切らしながら僕の目前の席に座っているのであった。 湿気の多い五月末のことだから、愛子さんは汗もだらだらだらだらとたらしている。僕はそしらぬ風を装って、実は愛子さんのうなじばかりを見ていた。なで肩の曲線のうえにするんと延びた愛子さんの首筋は、微妙に曲がっていて、それがますます彼女の儚い美しさを際ださせている。 ああ、ああ、と僕は思う。憧れと慕情をもって、ああ、ああと思う。見つめている。 するとどうだろう。汗ばんだ愛子さんのうなじに溜まった汗が、つうとたれて、襟の中に消えた。 僕はたまらず愛子さんの首に両手を伸ばし、きつく絞るように握り締めた。 「あががうがが」 愛子さんは悶えているのか、断末魔の叫びなのか判然としない声をあげて、泡を吹いて絶命した。僕は自分がしたことに満足しながらも、朝のこんな時間にすることではなかったと、僕を見て笑い、あるいはまったくもうと呆れている周りの人々にぺこりと頭をさげると、おすそわけをせねばならぬと愛子さんの解体を始めた。 指をプチンともぎり、鼻をぴちゃんともぎり、眼球をつるんとくりぬく。そうして、周りの人に配ってまわった。最終的に僕に残ったものといえば、愛子さんのかかとほどのものであったが、それはそれで僕としてうれしくほこらしく、感謝をこめて僕はそれを自分の耳にめり込ました。 バスが学校の前でとまると、みなが降りだし、乗車代として、愛子さんの一部だったり、自分の指であったりを運転手に渡す。運転手は受け取って、それを大切に大きな袋に仕舞い込む。袋の中では各部があわさった新しい命が芽生えつつあって、もぞもぞと袋の皮を脈動させている。 愛子さんが、誰かの一部が新しい命として生まれ変わっても、僕は愛子さんが初恋の人であったとだけは忘れないぞと改めて思い、財布から父の指を一本抜き出し、運転手に渡した。
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