Re: 即興三語小説 ―第105回― 傑作選選考中です。よろしくお願いします。 ( No.1 ) |
- 日時: 2011/06/15 01:21
- 名前: 二号 ID:N.qGQq36
彼女がその夢を見たのは、彼女の両親に恋人との結婚の報告を伝える日の前日のことだった。
最後に両親に会ったのは二年前のことだった。そして二年前のその日以来、家族内のちょっとしたいざこざが彼女を家から遠ざけていた。久しぶりの、もしかすれば気まずいものになるかもしれない帰省を前にして、彼女は緊張と共に短い眠りにつこうとする。彼女は目を閉じる。喉の下、胸の上辺りに何かを詰め込まれたような違和感を感じて、それが気になって眠ることができない。 彼女は深呼吸をして、胸のざわつきを抑えるために頭の中を空っぽにする。眠りにつくためは、どうすればいいのだったろう。普段はどんな風に眠っていたのだったか、彼女は思い出そうとする。分からない。少なくとも、何も考えてはいけないし、何も感じてはいけないはずだ。
「いいことを教えてやろう」 彼女のすぐ近くで、誰かの囁き声が聞こえてくる。眠るための方法を教えてくれるのだろうか? 彼女は、はじめはその声を幻聴だと思う。もしくは自分は今夢を見ているのか。隣には夫となる男のほかには誰もいないはずだし、こんな時間に誰かが寝室に忍び込み、寝ている人間にただ何かを囁くということは常識的には考えられないことだ。そしてもちろん、それは隣で眠る男の声では無かった。そこには緑色の悪魔がいた。彼女は目を閉じたまま、自分の耳元に何かを囁く緑色の悪魔の姿を認識した。 「お前の両親はお前を嫌っている」 不意に彼女は最後に会った両親とのあいだで交わされた、個人的な怒りに満ちたやり取りについて思い出す。 その怒りの内容は非常に複雑なものだった。何か一つのものにその怒りの理由を見出すことはできなかった。沢山の小さな要素がその怒りのために重く、いびつな形で一つに交じり合い、何処かに出口を求めていた。少しの刺激で簡単に破裂するような、破裂する時を静かに待っているかのような怒りだった。 そして前回の帰省で、彼女が幼い頃から抱えていた目に見えない漠然とした不満を抑えていた堰のようなものが、積み重なって来たものに耐え切れなくなり、劇的な崩壊を迎えた。彼女の中で何かがはじけた。売り言葉に買い言葉で、もう帰ってこないとまで言ってしまっていた。たしかそのほかにも、自分は言うべきではない言葉を口にしたはずだ。それが彼女にとって好ましくないものだったとしても、かつてあった何らかのつながりを、彼女は怒りのままにぶち壊しにしてしまった。それはつまり、家族のつながりのようなものを。彼女はそのことについて思い出していた。
悪魔は淡々と言葉を続けた。 「お前にもうすうす分かっていたことかもしれない。分からないふりをして目をそらしていたことかもしれないが、これははっきりとした事実だ」 彼女は共働きの両親の元で育った。忙しく働く両親の負担になることも無く、あまり手のかからないおとなしい子供だったそうだ。彼女が小学二年生の頃に妹が生まれると、もともと家族としての時間が少なかった母親は彼女にあまり世話を焼かなくなっていった。そして彼女はしっかりとした姉として、妹を可愛がりながら、たいていのことは一人でこなせるように強く、たくましく育っていった。 「お前の母親は妹の方ばかり可愛がっていたと考えたことは無いか? 妹に嫉妬や憎しみを覚えたことはないか?」悪魔は言う。
無い。と彼女は応える。それについては彼女はしっかりと断言できる。 そもそも、もしも自分が妹と比べて可愛がられていなかったとしても、それは妹の責任ではないのだ。そんな理不尽なことを、彼女は考えない。
「かわいそうに、お前はそれについて考えることをやめるために、何か大切なものを自ら心の奥深く、どこかにある暗闇の中に押し込めてしまったんだ。恐ろしい負の感情を抱えながら、辛いことは考えないように、植物や機械のように無感覚になるために。そのためにお前は不完全な人間になってしまった。他の人間たちが成長するにつれて獲得していくものを、お前は手に入れることができなかったんだ」 「なにが言いたいの?」 「まず、お前の両親はお前を愛してはいない。そもそも今まで一度も、お前に対して愛情を感じたことなんて無い。そして、お前は強く、賢い、大した女だ。だけどお前は妹とも、家族とも、どんなに親しい人間とでも、ある一定の距離を置こうとする。それはお前の防衛本能のようなものだ。そして、誰かを真剣に、無条件に心のそこから愛するというためには、その距離は正しいものではない。残念ながら、お前はそういうものを知らずに育ってしまったんだ。」 「いつかお前はそのことに耐え切れなくなり、また怒りのままに全てを台無しにしようとする。いつになるのかは分からないが、その時はきっと来る」 女は目を覚ますと自分が体中に汗をびっしょりとかいていることに気がつく。背筋に悪寒が走り、心臓の鼓動が大きくなっている。 汗をかいたために喉がからからに乾いている。女は水を飲むために起き上がり、廊下にかけられた大きな鏡の前で立ち止まる。そこには普段と変わりない彼女の姿が映っている。しかし、彼女は自分が先ほどの眠りを境に何か変わってしまったように思える。今まで気づかなかった何か良くないものに、自分は気づいてしまったのではないかと彼女は考える。 夢の中で悪魔が言っていたことを思い出す。あれは本当のことなのだろうか? 自分が台無しにするものとは、一体何なのだろうか。 それについて深く考えようとするたびに、彼女は心臓が締め上げられていくような感覚を覚える。 いや、きっと嘘だ。ただの夢だ。 しかし、言いようの無い不安感が彼女の心に張り付くように残っていて、それを拭い去ることができない。 彼女は眠ることを諦めて文庫本を手に取り、眠りまでの時間をつぶそうと思う。それは海外の作家の短編集で『燃えるスカートの少女』という題名だった。人間から逆進化していく恋人を持つ女の話。ある朝主人公の女が目覚めると、隣で眠っていたはずの恋人がピテカントロプスあたりの類人猿に変わってしまっているという話だった。一つの短編を読み終えて、彼女は考える。これは、この話は一体何を意味しているのだろう。ただの奇妙な物語なのだろうか。それとも何かの比喩として、例えば、人間は時と共に変わっていくとか、なにかしらの意味のあることを物語の中にさりげなく潜ましているのではないかと考える。 考えるが、しかし、上手く考えがまとまらない。 先ほどの夢について、彼に相談をしてみるべきなのだろうか、と彼女は考える。 そんなものはただの夢だと笑い飛ばしてくれればいいと思う。 しかし、かれはもう眠っているし、牛の刻参りが始まりそうなほどに遅い時間だ。きっと迷惑にしかならない。普通の人間は、そんなことで誰かの眠りを妨げたりはしない。
そういえば、いままでそんな風にして誰かに頼ってきたことは無かった、と彼女は考える。自分自身の問題に対して、たいていのことは一人で何とかしてきた。精一杯努力して、どうしようもできないものならば、自分とは初めから縁の無いものだったのだと潔く諦めてきた。ずっとそういう風に生きてきたし、これからもそうするだろう。むしろ、自分はそういう風にしか生きられないのかもしれないと思う。 自分には何かが欠けていて、そのために自分は手に入るはずの何か良いものを、一生手に入れられずに生きていくのかもしれない。 そう考えた瞬間に、どうしようもないほどの焦燥感に襲われる。例えば、今この瞬間に涙を流しながら彼を起こし、自分の中にある不安の全てを吐き出してしまうことができたら、何かを手に入れることができるのだろうか? しかし、自分にはきっとそんなことはできないだろう。突然自分がそんな子供じみたことをするならば、彼もきっと困惑するだろうし、そしてそもそも、人前で涙を流すということが、意思とは関係なくどうしてもできない。 自分は一人で生きてきた。しかし、これからはそうではない。果たして自分はそのことに上手く馴染めるのだろうか? 今、彼を起こせば自分が今まで持たなかった何かを手に入れられるのだろうか、と彼女は再び考える。彼を起こすべきなのだろうか。いや、それとも明日以降、この個人的な問題について彼に相談してみるべきなのだろうか。そして、それは果たして正しいことなのだろうか。彼は自分が結婚に乗り気ではないのではないかということについて考え、傷つき、失望したりはしないだろうか。 もちろん、口にせずにやり過ごすこともできる。しかし、こんな気持ちを一人で抱え込んだまま、明日からそれ以降、彼と上手くやっていけるのだろうか? そしてその中で、自分は何か大切なものを自ら手に入れ損なってしまうのではないだろうか? きっといつかは、この個人的な問題と正しく向き合わなければいけない時が来る。それがいつになるのかは分からないが、彼女の仲には漠然とした予感のようなものがある。その時に、自分にそれができるだろうか。 彼女はすでに先ほど見た夢のことは忘れている。しかし、今彼女の心には実態の良く分からない別の不安が存在している。 少しづつ夜が明けつつある。彼女は今、どうしようもないほどの孤独と不安を抱えている。
六時間くらいです。心理描写という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしました。もやもや。
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