何も知らない彼女へ ( No.1 ) |
- 日時: 2016/01/21 12:30
- 名前: Mへの提出により仮名へ変更 ID:JyO3La7A
蒸気の臭いがする街を見たのはこの街の中ではなかった気がする。カイトは時々そう思いながら茶褐色の空を見上げた。茶褐色の空が虹色に変化し、虹色からコバルトブルーに滲むその向うに、沢山の羽を持つ同世代の人間が飛んでいる。カイトはその遠い友人を見ながら、自分の背中にある羽根が役に立たない事に落ち込んでいた。長老は、飛べない事があってもそれが人間の全てではない、と言っていたので、カイトはひとまずそれを不満ながらもそれを受け入れる事にはしていた。それでもどんな事を言われようとも、カイトの気持ちが青空の向こう側に抜け出る事はなかった。 カイトが空を見上げていると、カイトの後ろからオレンジに近い髪色をした女の子が走ってくる。彼女、ラクニエルは石造りのクリーム色をしたビルの谷間から濃い藍色の影を縫って、カイトの肩を叩いた。 「ねえ、カイトまた空を見てるの」 振り向いたカイトの目の隅に、ラクニエルの揺れる髪が映り込んだ。カイトは足音の主が誰かを知って力なく少しだけ振り向くと、また向き直りぼんやりと空を見上げた。それを察してか、ラクニエルはカイトの腕に絡みつきながらはにかんだ笑顔を浮かべる。 「カイトだけの良さが有るじゃない」 そんなラクニエルの方を見ず、カイトは空の明るさに目を細めた。 「この街の泉から生まれなければよかった?」 雲の影に二人が隠れる。 「いや、分からない。あの泉の側で、僕はこんな身体で生まれてきてしまった」 カイトは左手を背中にゆっくりと回すと、首根っこの部分に手を触れた。そこには小さなほくろのようなものが有り、そのほくろは静かに周囲の大気を吸い込んでいる。真っ黒で体内の様子は分からず、そればかりか何処へ繋がっているかも定かではない。その穴に触れるカイトの手に、ラクニエルの手がそっと撫でるように触れた。 「それの『せいで』、って?」 「そう、僕は多分こいつのせいで飛べないんだ」 ラクニエルは優しくその手を握り、顔をカイトの肩にあずけて目を瞑ると静かに微笑んだ。
泉から人が時々出てくるらしい。カイトがそれを聞いたのは、ほんの十歳の事だった。今から六年前のその日、カイトはその泉、と呼ばれるずいぶんと汚染されたヘドロを見た。そこから黒い塊が立ち上がると、周囲のパイプ類や、大気、色々なものを繊細に巻き込みながらうねりつつ起立していった。それがやがて人間の姿をとるにつれて、カイトは自分がこの住人である事を理解した。青白い眼球に映り込むその泥の姿は次第におぼろげな形をとると、マーブル化された周囲の景色は記憶の逆光から今の現実へと急激に引き戻した。 「カイト!」 排気パイプの向こう側で咳き込んだ後、ラクニエルが手を口の前に当てて叫んだ。縦横無尽にパイプが走るボイラー室。作業着のTシャツを着て、上着を腰巻きにしたカイトは我に返った。彼女の咳き込む理由が排気口の煙でない事をカイトは知っていたが、胸に沸き起こった不安をカイトは握りつぶして無理やり笑う。 「どうしたの、そんな顔して」 続けざまに咳き込みながらラクニエルは涙目で微笑んだ。そばかすが透けて見える。カイトはラクニエルの笑顔に恥ずかしいような、見透かされたような気分になりながらも、心のなかにある台詞とは別の言葉を語った。 「いや、ほら」 病気で死ぬなんて、嘘だよね。と言いかける。 「背中の、黒い穴から音がなるじゃない。遺物のモールス信号とか言う」 ラクニエルはその話を聞いて、困った顔をした。 「また気にしてるの? 大丈夫だよ。その音の事に関しても、遺物の本から救難信号だって解ってるじゃない」 「うん。そうなんだけど、詳しくは分かってないよね。電波の仕組みだってただ使ってるだけだし、昔の人達の写真には翼がないし」 カイトのすっきりしない顔を上目遣いでラクニエルは覗き込んで、いたずらっぽく言った。 「あたしの病気の事、心配しないんだ。それとも翼の後ろにある穴が心配? それともこの仕事が大事? それとも前のカイトにそっくりな彼の事?」 蒸気の勢いが激しくなると、カイトは目を伏せて数度まばたきをした。そして、左手においてあった殆ど白い部分の亡くなった手袋を急いでつけると、顔を拭って涙が出てきているのかどうか、自分でも分からないようにした。それを見たラクニエルは、優しい目をしてこう言う。 「心配してくれてるんだね。嬉しい」 ラクニエルはカイトを見つめて、オイルで汚れた顔が余計に愛おしさを感じる大切なものだし、意地悪の後の泣き顔も信じられないくらい可愛いと思った。カイトの気持ちが分かれば分かるほどその大切さが忘れられないものになってゆく。だからこそラクニエルは自分の病気の事でも茶化してカイトに伝えるようにした。 終了のベルが鳴り響いた。蒸気音と一緒にサイレンとベルがけたたましく通路内に響き渡ると、水蒸気に遮られたカイトの顔がラクニエルの前から姿を消した。こんな時だけ、ラクニエルは耳をふさぎながらも少しだけ不安になった。 「じゃあ、僕は仕事終わりだからいくよ!」 叫びがちにカイトがそう言うと、蒸気に遮られたラクニエルも、背伸びをしてカイトの方へと手を振った。ラクニエルは裏口へと走り、カイトは入り口へと向かった。 カイトは鉄板が無造作に敷き詰められた穴だらけの床を力を抜いた軽いペースで走り抜けると、作業員の同僚である白ひげの『しろ爺』に挨拶し、出口の光に目を細めた。だが、空の濁ったグラデーションが見える頃に、それは聞こえてきた。 「ああ、カイトのあの背中の」 「そうなのか? 本当に」 カイトは不幸な事に人の話を気にする性質だった。だから工員の話に自分の名前が入っている事に早くから気づいてしまい、ついに耳をそばだててしまった。 「あの穴、実は吸い込み穴だって」 「五十年に一度の吸い込み穴所持者だと」 「そうよ。泉で生まれたときの部品なんてもんじゃないぜ。あいつがいるだけで体がばらばらになっちまうかもしれない」 カイトは脱いだばかりの手袋とスパナを地面に落とし、そのまま呆然と立ちすくんだ。 話し込んでいた工員は、昼間の日差しに顔をしかめながらカイトの方を見て、あからさまに気まずい表情を見せた。
その後、カイトへの無視といじめが始まり、仕事場でのカイトの居場所はなくなっていった。スパナを隠された事や、半田ごてを押しつけられそうになった事、すんでの所でそれを止めに入ったラクニエルがやけどしそうになった事などが延々とカイトの頭の中に流れてゆく。入り口に立っていた二人は昼食を横取りしたりもした。しかし、その中で白ひげの爺だけはカイトを見捨てなかった。 「しろ爺、爺は何で僕が怖くないんだ」 爺は白いひげの下にある口元をにやりとゆがめると静かに笑う。 「老い先短いのに怖いもんかよ」 がらがら声が構内に響き、金槌の音が寂しく聞こえてくる。カイトの事を恐れたしろ爺以外は皆別の場所で作業するのが当たり前だと言った。だからここには誰もいない。 「僕は、ただ、みんなと空を飛んでいたいだけだったんだ。工員なんかと一緒にいるんじゃなく、空の巡回員になって天空にある遺物からいろいろ見つけて、そうやって暮らしたかった。同じ仕事でも違いすぎるよ。こんなのは惨めすぎる」 スパナを回しながら、カイトは薄暗くぶつぶつとした調子でつぶやくと、涙が床へとぽつりぽつりとこぼれた。 「ふうむ。工員なんか、かい」 しろ爺はそう言いながら金槌を正確に、一切の調子の狂いもなく振り下ろしている。それを見たカイトはしろ爺が特別今の言葉で感情を乱していない事を知りつつ、小さな声でごめんと言った。 「だがなあ、確かに俺といても楽しかねえわな。ラクニエルといる時と違ってな」 しろ爺は高らかに笑うと、カイトは手袋で涙をぬぐい、何も言わないまま計器に目配せした。 「ラクニエルちゃんと、する事はしといた方がいいぜ!」 しろ爺の声が響き渡ると、さすがにカイトも慌てた顔をして言った。 「そんなんじゃないよ」 そう言ったカイトに対して、しろ爺は急に黙りこくると、調整弁を回して蒸気の具合を確認した。それに追随するようにカイトもしろ爺の手の届かない弁を回すと、噴き出していた水蒸気は停止した。 「ラクニエルはな、おまえの事をよく知ってるのさ。だがそれは本当の意味じゃない。本当の知ってるって事は、ずっと続いてゆくんだ。その秘密を知ってるのは、おまえさんのよく知る長老だけさ。おまえさん、飛べないだろ。若い頃太っちょだった俺ですら飛んでたのに」 そこまで言った白爺に対してカイトは少しだけ声を荒らげようとして息を吸いこんだ。 「飛べない理由は簡単さ。長老がそうさせたんだ。長老に聞いてみな」 吸い込んだ息は言葉にならず、気の抜けた状態で空気中にはき出されると、カイトはしろ爺を黙って見つめただけだった。
村長は顔を上げると、カイトの怒鳴り声を沈黙で受け止めた後、古びた暖炉の炎を見つめながら静かに口を開いた。 「その穴が泉出身者でも少数の吸い込み穴である事は間違いありません。それを封じたのは私ですが、その原理は私にも分かっていません。ただ、遺物の暗号であるモールス信号と呼ばれる信号がそれを止める事が分かっているだけです。私からあなたの仕事場の方々にはよくよく伝えます」 そこまでを思い出しながらカイトは町の外れにある丘の上で風に吹かれていた。村長はカイトの穴を封じる事によって空を飛べなくなった事を確かに知っていたし、むしろその当事者でもあったと語ったが、穴をなぜ封じる必要性があったのかまでは言わなかった。その理由は、工員の言う噂と違わないものではないのか、という考えがぐるぐると頭を巡った。 「かーいとっ」 のぞき込む柔らかな髪の毛。大きな目と白い肌。ラクニエルは突然現れて、じっとカイトを見つめた。 カイトは逆にラクニエルの澄んだ瞳を見返した後、その頭をそっと引き寄せると、いつもより深いキスをした。その目は暗く真剣で、愛すると言うより貪るような印象を与えた。切羽詰まった様子を見て、キスから目覚めたラクニエルは少し神妙な顔つきで言う。 「待って、一体どうしたの」 ラクニエルはやんわりとカイトを押しながら見つめた。 「僕の症状は、いったい何だ。どうして僕はこんな目に遭うんだ。僕は普通じゃない」 カイトの声が急に震え始めた。それはやがて嗚咽に変わり、ラクニエルの唇を完全なる我が物にしようとした手は力なく地面にずり落ちた。恋人はそこにおらず、前後を見失った子供がそこにいるように思えて、ラクニエルは思わずカイトの両手を握った。 「カイト、聞いて。私は長老の隠している事を知ってるの」 それでもカイトは泣き止まない。 「それでね、長老は、確かにカイトの問題をモールス信号で封じようとしてるわ。でも、それを解いて、安全に飛ぶ方法も知ってるの。その方法はね、私が持ってる病気。この病気、カイトに開いてる穴を中和するの」 そこまでラクニエルが話すと、さすがにカイトは赤い目とまぶたを腫らせたまま、ラクニエルを見つめざる得なかった。 「だからね、黙っててごめんねカイト。私と一緒に飛べば、私の病気もよくなるし、カイトのモールス信号だって、いつか外せるよ」 にっこりとラクニエルが笑う。しかしその顔はどこか屈託がなかった。それを感じたカイトはラクニエルの唇に先ほどよりも優しく可愛いキスをすると、髪の毛をかき分けてあげながら、小さな声でありがとう、といった。ラクニエルはそこでやっと照れ笑いした。
ラクニエルは咳き込みながら背中の翼を出すと、長らく使っていない羽毛を何度か羽ばたかせ、地面の砂埃を舞わせた。今日は赤いドレスを着ている。ラクニエルの顔はとても楽しそうにほころんでいた。 カイトはラクニエルの様子を見ながら同じように羽根をばたつかせるが、いつも通り音波が強まって羽ばたけない。その様子を見てラクニエルは小さな玉を取り出し、カイトの方へと歩いて行くと、使い方を説明し始めた。 「これね、飛ぶ直前に使わなきゃだめよ。東南の風が吹いたらそれが合図。そしたらすぐにスイッチを押してね。村長さんの許可をもらってきたの」 ラクニエルはそう言うとカイトから離れ、羽根をばたつかせて空を見上げた。 土で固めた黄色いビル群が、金属で作られた古代の遺物との差を明確にした。遠く畑仕事に出かける男が似合わない帽子をかぶって鍬を肩に担いでいる。雲の流れが早くなり、重たい色の雲が建物の横から顔をのぞかせた。その次の瞬間に突風の音がした。 「今!」 ラクニエルの声とともにカイトは玉のスイッチを押すと、モールス信号音が消え、羽ばたいた翼が不自然なほど浮き上がった。カイトは羽根で飛ぶと言う事がよく分からずバランスを崩しそうになると、ラクニエルがカイトの手を掴んで軌道修正する。カイトのもがきにも似た運動とは裏腹に、ばたつく羽根は風に乗ってカイトを上空へと運んだ。見る間に二人視界から地上が遠のいてゆく。 これが空なのか。僕が手に入れられなかった空。みんなが飛んでいた空。高くて手の届かなかった。 カイトを見つめていたラクニエルはカイトの横を寄り添うように飛び、片方の羽根だけを器用に動かしながらカイトを導いた。ラクニエルがカイトに微笑むと、カイトもそれに合わせるように満面の笑みを浮かべた。雲が二人の下方をゆっくりと流れてゆき、渡り鳥が悠然とV字飛行をしている。遙か地平線の向こうにはなだらかで土気色の山々が見え、遠くには空を飛ぶ同世代の人間が旋回し、地上はガスで曇っていた。 初めて見る風景にカイトは乾く目の事も忘れて、あたりをきょろきょろと見渡した。 しかし、それを見つめるラクニエルの顔は少しもの悲しい顔へと変化し始めていた。 ラクニエルは風圧を押さえ込むようにカイトへと叫んだ。 「カイト! 私の近くに来て」 ラクニエルはカイトの手を取ると、体を引き寄せ、空中で止まれるはずだと耳元でささやいた。そんなはずはないと思うカイトは、先ほどの上昇中に奇妙な浮遊感を感じた事を思い出し、その感覚を持続させるようにすると、羽根を動かさずに空中で静止できる事が理解できた。その自分の様子をカイト自身が驚き、ラクニエルは驚くカイトの顔を見て愛おしそうに見つめるだけだった。 「これはどうして」 そう言うが早いか、カイトの心の中に妙な感覚が芽生え始めた。目の前にいる愛するものを取り込んで、文字通り壊すほど自分のものにしてみたい。その想いは黒い塊となってカイトの胸から広がり、ラクニエルを握る手に自然と力が入る。しかしラクニエルはその様子を全く意に介さないばかりか、カイトを見つめたまま言う。 「ごめんね、カイト。私、嘘ついちゃった」 カイトにの周囲の音が掻き消えた。 「私の病気とカイトの病気が中和されるなんて嘘。村長の家から持ち出したモールス信号の発生する玉も、ほんとは勝手に持ち出したの。あのね。私、カイトと一緒に死にたかった」 打ち付ける風が二人の間を吹き抜ける頃、カイトの背骨上に存在した小さな黒い穴は背中大にも大きくなり、『それ』の作用した空間が歪み始めた。 「私が昔つきあってた彼が居たって言ったでしょ。カイト、その彼が『あなたよ』」 巨大な重力波から発生するねじれが、ラクニエルの顔を歪めたかと思うと、ラクニエルの顔は見る間に空間ごと分断された。ばらばらになりかけた半分の顔のままラクニエルは続ける。 「カイト。私もかつて黒い穴の所持者だった。あなたがあの泉から生まれる前、あなたを殺してしまったのは私」 ついに体のほとんどが穴に吸収されたラクニエルは格子状の映像と化してカイトの手の中を滑り落ち、歪んだ空間を無機質な表情のままカイトの背中にある重力源へと吸い込まれていった。 カイトは残った理性でその瞬間を見つめながら、頭の中にあの泉の時と同じ感覚が沸き立つのを覚え、同時に今いたばかりのかけがえのない存在が一瞬で消え去った事をひどく混乱した頭で認識し、突風の中で絶叫した。
カイトはその日、赤茶けた大地に倒れていた。スペアの遺物が村長の家になければ、この遺物の町ごとカイトは大きな穴となって消えていたかもしれないという。その日以降背中の穴は消え去り、モールス信号も村長の許可が下りて解除された。 カイトは彼女の死後の世界の事を考えていたが、それはきっと自分の起源について考える事と同様ではないかと思い、やめてしまった。長老はカイトの秘密をはっきりと明かし、それが古代に滅した破壊の兵器である事が知らされた。ただ、数年に一度現れるその泉の兵器の所持者が何かを殺すと、代わりに村はずれの『泉』から何者かが誕生すると言う。 カイトは十歳の頃と同じように十八歳の今、泉の前に立った。
僕はもう君より少し大人だから、きっと君を導ける。 同じ病気になったらその時だけ抱き合って、二人が消えるまで空を飛ぼう。 君と僕が、お互いを自分勝手に想っていても。 仮に世界を壊すほど身勝手だとしても。
9時間43分
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