勇者の帰還 ( No.1 ) |
- 日時: 2014/02/09 01:59
- 名前: お ID:hiVfa4OY
【冬眠】【火気厳禁】【ミカン箱】 ※注:ほんのりお色気描写あり、お嫌い方はご注意を。(R-15) †=========† 勇者の帰還
街の彩は感じる者によって様々だ。冷たい風合いだという者もあれば、極彩色溢れているという者もいるだろう。 京塚臣継にとって街は灰色だった。 単調で、変化に乏しく、面白みもなければ、真実味もない、ただただ、果てしない白と黒の濃淡。おおよそのものは、そう、白か黒かですらない。灰色。どっちつかずに濃いか薄いか。それがこの街の本質であるかのように感じていた。 高卒でとある小さな商社に入社した。小さいながら業績は悪くない。出世を夢見、がむしゃらに働いた。海外勤務の経験もある。結果を出し、ヘッドハントでより大きな商社に移ってキャリアを積み、ゆくゆくは一部上場の大企業で責任ある地位に就きたい。さらなる高みへ。自分を高め、相応しい地位に就き、権力を手に入れ、それを振るい、贅沢もする。そのためにはどんな手段も厭わない。そう思っていたこともある。 今はどうか。 何もかも、どうでもいい。 あの頃は正しく世の中は極彩色に溢れていた。人、物、欲望を煽り立て、掻き立てる刺激、金、女、酒、クスリ、命がけの駆け引き、築き上げる信用と一瞬の裏切り、何もかもが飛切りだった。 あの時までは。 あの時以来、臣継は、何にも刺激を感じなくなった。何も欲しくはなくなり、何をしても充ちたりはしなくなった。まるで枯れ果てた老人のように。人であることを捨ててしまった抜け殻のように。 それすらも、どうでもいい。 そんな日々が、もう四年、いや五年も続いている。よく生きているものだと思うことがある。 仕事は続けている。一線を張るような仕事からは下ろされたが、事務的な仕事を任され、それなりにそつなくこなしている。やる気は薄いが無能ではない。やるべきことを与えられれば、人並み以上にこなす。元々が優秀な人材なのだ。 今日も小一時間ほどのサービス残業をこなし、家路に就く。特により道をすることもない。誰から誘われることもなく、特に寄りたいと思うところもない。真っ直ぐ家に帰る。 家といっても、街から外れた郊外の安アパート。最盛期より年収が三分の一近くになっているのだから、同じような贅沢はできない。したいとも思わないし、今の暮らしに思うところもない。雨露がしのげて、プライバシーが確保されたなら、それで充分だ。 異変に気付いたのは、一時間ほど揺られた電車を降り、駅の改札を出て数十メートルも歩いたかという頃。 最寄り駅とはいっても、そこから二十分ほどは歩く。バイクか自転車でもという発想はなかった。単に気力が湧かなかったからだが、歩くことは嫌いではなかった。 目の前をよぎった影は、一匹の黒猫。 道を横切ったかに見えて、半ばを過ぎた辺りで振り向き、なぁーおぅ、と鳴いた。 翡翠色の瞳。 午後七時過ぎ。 真冬のことであれば、陽は既に落ち空は闇、街から離れた片田舎のことなれば、空を照らす光もなく、寂しげな外灯がぽつりぽつりと道なりに続く。 宵闇に、翡翠色の二つの小さな光が、ふわりと流れていく。 それは日常だった。少しも日常から逸脱しない。よくあること。少しばかり験が悪いだけ。車で轢いてしまったわけでもない。気にするようなことは何もない。 ……のだが。 臣継の心に何か引っ掛かる。得体の知れない感情、あるいは、記憶……。心の奥底にわだかまり、澱み、忘れようと目を背けてきた、その核心。触れてはいけないナイーブなものに、それは、そっと、忍び寄る。 二つの、碧い、瞳。 纏わり付き、絡まりついて、じわりじわりと。心臓の辺りに黒い汗が滲む。そこはダメだ。それはダメだ。 藻掻くうちに、ふと、気付いた。 猫は、もういない。 なんてことはない、ただの猫だったのだ。 そう、思った。そう、思いたかった。 ふと見上げると、雑沓の中にいた。 駅……。改札口に向かうところ、まだ、電車にも乗っていない……のか? 何が、どうなった。郊外の駅、人気のない通り、まばらな外灯、暗い夜道、黒猫…… いや、待て。 臣継の家は確かに安アパートだ。が、一時間も電車に乗らなければならないほどの郊外ではない。街の外れではあるが住宅街で、明かりもまばらな田舎ではない。 では、あの風景は……、いったいどこだったのか、あれは、いつのことだったのか……。 ふらふらと足取りの覚束ないまま、人の流れに任せて改札に向かう。 混み合う駅舎。 行き交う人の中に、 あれは、何だ…… 人混みに紛れ何事もないかのように近付いてくる。 違和感なんてレベルじゃない、あれは異常だ。あってはならないもの、いてはいけないモノ。なぜ誰も騒ぎ出さない。まさか、誰もあれに気付かないのか。 かさかさに乾いた肌。水分が抜けきって、生物として最低限の活力も感じない。全体に縮こまり、皺だらけで、土気色に変色している。纏わり付くのは死の臭い。眼窩に眼球はなく、代わりに生気を感じさせない暗い光りが微かに灯る。 ミイラ。保存された死者の骸。 どこから力が湧くのか、しっかりとした足取りで近付いてくる。 すれ違いざま、 「【火気厳禁】」 とそれは言って、にやりと嗤った。 ユーモア、だったのだろうか。 しばし呆然とした後、はっとして振り返る。 いない。 跡形もなく消え去っていた。 立ち止まった臣継にぶつかり、ちっと舌を鳴らして通り過ぎていくサラリーマン。それにも気付かず、臣継は立ちすくんだまま。 あれは幻。白昼の夢。 そう言い聞かせたのはどれくらい経ってからだろう。駅員に声を掛けられ、何でもないと返して、改札を抜けた。 電車の中では何事もなかった。 駅を出て、しばし歩く。閑静な住宅街。再開発のおかげで駅周辺は綺麗に整えられ、いくつか大きめのビルも建ち、商業施設もできた。商店街も様変わりし、マンションや真新しく綺麗な一戸建ても建ち並ぶ。 臣継の住むのはそういうエリアを抜け、奥まった先。開発からは取り残された古い町が残る地域。空き地もちらほら目立つ。 そんな空き地の一つ、テレビアニメのドラえもんの中にでも出てきそうな、四角い荒れ地。短い草が生え、大きな土管など健在が置きっ放しにされている。 おかしいのは、猫が、たくさんの猫がそこに集まり、がやがやと、猫にがやがやという 表現もおかしいのだが、今はそう言わざるを得ない、まるで人語の重なるように、がやがやとたむろしている。 その中心、【ミカン箱】に乗って一団高いところから周囲を見下ろす一匹の猫。二足立ちにふんぞり返り、トップハットに白のドレスシャツ、黒いベストにズボン。蝶ネクタイが厭味にも見える。猫なのに、猫らしくない。厭に人臭い立居振舞。大声で何か叫き散らし、聴衆を睥睨する。 語るのは、意味の取れない言語、けれど聞き覚えがある。記憶に触れる。いずれそれは、猫の鳴き声とは程遠い、人が用いる高度な言語コミュニケーション。 まさか、そんなことが。こっちの世界で。ありうるわけがない。 その時、語る猫と目が合った。 にやり、とそれは嗤った。口の端を曲げ、牙を剥きだし、瞳を細め、量るように、侮るように。 「死人に口無し」 そして気が付くと、臣継は電車の中にいた。 ごとごとと揺れる列車。寿司詰めに折り重なる人。話し声、様々な表情、体臭、混ざり合い、絡み合い、列車という体表を得た一つの生き物を構成するように。 吐き気がする。 駅に着いて列車から吐き出された時には、ほっとする。一度は巨大生物に呑まれながら、命を存えた気分。さしずめあれは地を這う地竜といったところか。 皮肉な笑みを浮かべる自分に気付く。 家に帰り着いたのは、午後七時過ぎ。 何事をする気にもなれず、シャワーだけ浴びて、早々に寝床に着く。あまりに早いとは思ったが、夜中に目覚めればその時のことだ。 目をつぶる。が、眠れない。 やはり時間が早すぎるのか。そもそも眠いわけではない。特別することもなく、したいこともなく、する気力も湧かないから、蒲団に潜り込んだだけのことだ。当然の帰結とも言える。それでも起き上がる気にはなれず、ぼぉぅと天井を眺める。 見ているうちに、何かおかしいと感じる。 天井が歪む。 天井の木目はそのまま、まるでそれが溶けてジェル状になったかのように、ぬぅっと一部分が迫り出し、木目を映した透明なジェル様のモノがまるで人の顔のように。CG……か? と妙に間の抜けたことを考えた。馬鹿げている。馬鹿げているが、この現象自体が馬鹿馬鹿しいほどにありえない。これもまた、錯覚、あるいは夢、ストレスが過去の記憶と相まって何かしらありもしない像を見せる。精神医学には通じないが、そういうこともあるのかも知れない。 しかし、それにしても。 どこか他人事にように考える間に、ぬちゃりと、ねちゃりと、壁から引きはがすように顔から頭、頭から首、首から身体……、粘る糸を引き、天井からつり下がり、落ちてくる。 はぁぁぁぁ 息が掛かる。嗤っているのか、口の端が歪む。その凶相はどうだ、とても人のものとは思えないほどに、禍々しく、恨みの呪いに充ちている。 鼻先が触れるほどの眼前に迫る。 背景色を映すだけだったそれは、自身の色を取り戻しつつある。赤黒い肌、獣のような鋭い眼、歪んだ鼻、裂けた口、燃え立つ髪、筋肉の鎧をまとう身体は頑強で、両胸の膨らみから女だと知れる。着ている物はない。全裸だ。鋭い爪で臣継を威嚇する。 一閃、臣継の頬が切り裂かれる。 じんわりと熱がわき、それから鋭い痛み。夢ではない……のか。 急に恐怖が湧いてきた。 殺される! いまさら慌てたところでどうしようもない。臣継の上に覆い被さる。熱い。体温が異常に高いのか、その熱がじりじりと臣継を焼く。なお熱い息。吹きかけられただけで、皮膚が焼けただれそうだ。 ぐわっと耳の辺りまで裂ける口。人の頭など丸呑みできるほどの巨大な穴に、びっしりと鋭い牙が並ぶ。生臭い熱風。涎がぴしゃりと臣継の頬を打つ。 迫る巨大な闇。それが口腔だと知る。虚無である虚空。消滅も輪廻も許されぬ、死よりもおぞましい無限を直感した時、臣継の身体の芯に雷にも似た激しい感覚が突き抜ける。 熱い。 この熱さは自身の身体の内側から沸き立つものだ。何モノによるものでもない。 意志を威力に変える能力。 黒き太刀の切っ先。左の掌から突き出る。 それは昔馴染んだ能力。そして、今の今まで失われていた。なぜ今戻ったのか、今日のこの一連の異常な出来事と関係するのか。分からない。しかし、だからといって戸惑う理由も、それを利用しない理由もない。 臣継は、敵を打ち倒す、その意志を左手に具現化させ、突き上げる。 黒の力が解放される。黒は闇、闇は純潔、何も彼もを受け入れながら己を失わない、法と混沌の極限、聖も邪も受け入れ、なおぶれない力。それが臣継に与えられた、臣継に託された能力。 腹の底から湧き上がる力の躍動、魂のうねり、心の雄叫び、 おぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉ 掌に炸裂する力。熱くもあり、冷たくもある。優しくもあり、激しくもある。慈悲深くもあり、非情でもある。この世の成り立ちの根元にして、行き着くべき最終。 ――闇の力もて塵へと還さん―― かっと見開いた女妖魔の目。何が起こったかも分からずに、困惑と苦悶、それも瞬きの間、がくりと項垂れ、力なく身を伏す。 のし掛かる敵の哀れな骸。臣継は払うことなくその重みを受け入れる。 この敵は、俺が屠った。 その実感が湧き上がる。 その瞬間、全てを思い出す。 思い出すまいと頑なに閉じ込めていた記憶。時々漏れ出しては、非道い孤独と寂寥に苛まされ、過去を渇望する激しくも空しい思い、心と身体を千々に乱し、狂おしいほどに今を詛う。だから、捨ててしまいたかった。してられぬなら二度と開かぬよう蓋をして忘れ去ってしまいたかった。 けれどそれは、今の臣継を形作り、精神のよりどころともなっていることも、また事実。その記憶のために投げやりに落ち込みはしたが、同時に、その記憶があるために死なずに今まで生きてこられた。 かけがえのないもの。向こうの世界暮らした日々。そして、愛する女性。 思い出したと同時に、意識の有り様ががらりと変わる。意識の機微の一襞一襞が鋭敏化し、身体を作る細胞の一房一房が活性化する、まるで【冬眠】から覚めたかのように。 能力が戻ってきた、あの頃のように。 あの、こことは違う世界で闘っていた時のように。幾人かの仲間と共に、あの強大な敵を倒した時のように。 「ようやく思い出されたか」 凛とした声は、覆い被さる妖魔のものか。妖魔……、いや、これは。ごつごつした筋肉の塊ではない、柔らかく、温かい、すべすべと障り心地の良い……、人の身体……、それも女の、程好く肉が付き、それでいて引き締まった見事なプロポーションと肌質。上半身を起こそうとする時にかかるのは、さらさらの金髪。 「くすぐったいのでほどほどにしてくれぬかのう、主殿」 瞳が合わさったその顔は、美しい、みごとなまでに整った顔立ちの美女。白い肌、碧い瞳、癖一つない金髪、ほっそりした首、頸筋、鎖骨のカーブ、それから…… 「そのように見るものではない」 「姫君……なのか」 「そうじゃ、妾じゃ」 素肌の全てをさらしたのは初めてかのうと、頬を赤らめる。 「どういうことだ」 「久しぶりに逢うたというに、掛ける言葉がそれとは」 拗ねるように、それでいて、嬉しそうに、美しい少女が微笑みを向ける。 「悪い、すまない。混乱している。だが、あぁ、久しぶりだな、姫。そのような姿で、そのう、再会することになろうとは夢にも思わなかったが」 「痴れ者め」 頬をつねられる痛みに、これが夢ではないのだと再確認する。 「妾とて恥ずかしいのじゃ、あまり言うでない」 「悪い、その、つい」 主殿も男であるなと、わざとらしい溜息を吐いて、異世界の少女、アーウェンウィリァ王国の第三王女シエラリィテは、 「しばし眼をつぶってたもれ」 と言うと、もぞもぞと蒲団の中へ押し入り、ぴたりと身体を押しつけ、その二つの膨らみの控えめな柔らかさも、引き締まった腹も、絡みつく太腿、ぞわりとこすれる股間の、その奥は熱くしっとりと濡れているのも、すべて臣継に捧げるとばかりにすり寄せる。自分は今ここにいる、こんなにも待ち焦がれ、こんなにも喜んでいると身体で語っている。 臣継は何も言わず、ただ、ぎゅっとその華奢な身体を抱き締めた。ぎゅっと、強く、伝わってくる思いに応えるよう。そして、臣継自身抱いてきたこれまでの思いの伝わるよう。 五年前、入社して四年目の春、臣継はこの世を去った。といって死んだわけではない。この世界を旅立ち、別の世界へとたどり着いた。 呼ばれたのだと理解したのは、呆然と立ち尽くす自分を認識したあの場所。王始め十人に足らぬ王族と、十人ばかりの大臣、それに倍する従臣が高みから見下ろす。地上には、円陣を組む三十名からの魔導師群、その中に一人、抜きんでて力の強い魔導師長、円陣の中心に、臣継がいた。 王城の広間。 それが勇者召喚の儀式だった。 その世界で臣継は異端の勇者として、他の勇者達とは異なる働きで、最終的に魔王を倒した。その後、精霊の復活やなんだかんだでごたごたとした後、なんら知らされることなく、臣継はこの世界へと帰される。青天の霹靂。着た時と同じく、帰る時もまた唐突だった。自らの意志に関わりなく強制的に。 それは正しく絶望だった。 愛する人。離れがたい。魂のレベルで引かれ合い、一つに溶け合うような、比翼連理、永遠にも添い遂げるつもりでいた。そのために、魔王を狩った。それなのに。 二度と会えないと思っていた。あまりに遠い二つの世界、死してなお、交わること叶わぬだろうと。 それ以来、何もかもが色褪せて見えた。 こちらの世界を離れていたのはほぼ一年。こちら側ではどういうわけか海外でテロに巻き込まれたことになっていた。無傷で帰った時にはちょっとした騒ぎになったものだ。だがそんな騒動も、臣継には億劫なだけだった。どれだけ祝われようとどうでもいいことだった。むしろ、苛立ちすら覚えた。 あれだけのめり込んでいた仕事もすっかり色褪せて感じるようになり、まるで身が入らず、ミスを連続した挙げ句に配置換えされた。クビにならなかったのは事件のことがあって世間体をはばかったからだろう。馬鹿げても聞こえたが、命の瀬戸際にいたことは間違いではなし、率先して仕事を失いたいわけでもないので、提案を受け入れて今の部署にいる。 ただ一縷の望みは、あちらの世界で再び動乱が起こり呼び寄せられること。けれど、残念ながら、本気でそんなことを信じられるほど楽天家ではなかった。それに、あちらの世界が乱れれば人々が危険に去らされるということでもある。そんなことを望むべきではない、望むべきではないし、そうそう異界から勇者を呼ぶほどのことが起こるとも思えない、けれど……。 「主殿よ、息災のようでなによりじゃ」 胸に顔を押しつけたまま、少女の語る。目を合わせないのは、目を合わせられないくらいに照れているのだろう。 「ま、辛うじて生きてはいるな」 臣継もその何となく照れくさい気持ちはよく分かる。言葉がぶっきらぼうになるのは、そのせいだと自覚している。 「妾を遺して死ぬつもりでもあったのかえ」 「二度と会えないなら、それも良かろうとは思った」 「ふむ。それを責めることはできぬ、妾とてそうじゃもの」 それまで気丈にしていた少女の、泣き笑いのような表情は、この数年間に及ぶ時の、何を物語るのだろう。 「誰ぞに嫁がされることだけは避けておったが。あのまま平穏が続いておったら、どうであったろうな。妾は王女の身分を捨てる覚悟であったが、捨てたがどうなるというものでもない。そのまま朽ちておったかも知れぬのう」 さらりと言うが、一国の王女が言うには重すぎる言葉ではなかろうか。 「なれど、妾は今ここにおる。本来ならば喜んでなどおられぬのだが、しかし、せめて今この時くらいは、再会の歓びに浸っても罰は当たらぬ……、かまわぬだろう、主殿よ」 どのくらいそうしていただろう。夜は更けていく。闇は、二人が離れていた時の分の隙間を埋める間、優しく二人を包み込んでいる。 「さて、少し話をせねばならぬ、主殿よ」 「今回のことか」 「うむ」 「君がここへ来られたわけ」 「そうじゃ。そうじゃとも。喜んでばかりはいられぬ。妾は国の王女でもあるのだから」 本質を言えば、ただ一人の女、主殿の女に過ぎぬのじゃがと、少女は寂しげに咲う。 「何が起ころうとしているかは、妾にも正確には分からぬ。が、何かが起ころうとしておる。それは確か。妾がこうしてここにおることが、その証明」 「あの妖魔は」 「あれは依代じゃ。次元の壁を破るのにあの身体が必要じゃった。主殿に関わる妖異の者だけが、どうやら次元の壁を越えこちら側の世界へ赴くことができるようでの。覚えておられぬか」 覚えていた。いや、思い出した。かつて姫をさらいに来た妖魔の間者。人に化け、戦乱に乗じ、王城の陰をひた走り、王女をさらおうとした。そこを臣継が捕らえ捕虜とした。いくらか情報を引き出した後も殺さず捕らえたままにしていたのが、この場面で役に立つとは。 そういえば、思い出してきた。 あのミイラは、王家に取り憑いた旧王家最期の王の亡霊。魔剣の力をもって臣継が紅蓮の炎で焼き払った。火気厳禁とは、笑わせる。 猫の扇動家は、王家の醜聞をでっち上げ民衆をミスリードしようとした魔帝国の手先で、やはり臣継が手を下して葬った。「人の口に戸は立てられぬ」という猫に「生者ならばな」と応えた。 そういうことか。 あれらは、全て過去、あちらの世界で臣継が屠った敵。やはりあれは幻、しかし、鋳物ある幻、二つの世界の接近を知らせ、臣継に力を取り戻させるための…… とすれば、一番始め、全ての切欠ともいえるあれは、あの黒猫は何だ。あんな黒猫を殺した覚えはない。敵として出逢った覚えもない。あれは、何だ。 「あれとはいかにも礼を失した言い種はないか」 声がした。くぐもった声。 シエラを見るが、否定の意味で首を振る。 そも、シエラの美しい声とはまるで違っていた。では、誰が? 「我である」 枕元にちょこんと座り、なぁーおぅ、と鳴いた者――猫、件の黒猫が当然の顔をしてそこにいる。 それに気付いたシエラが、突然居直り、蒲団の上に平伏するのに、驚く。シーツを身体に巻くだけの冷静さはあったようだ。 「大精霊様」 とシエラは言った。 黒猫は、もう一度、なぁおぉう、鳴いて、臣継をじっと見詰める。 「我はそなたの死後生み出されたモノゆえ、そなたが知らぬのはゆえない。我、汝に伝えねばならぬ。汝、今一度、次元を渡り、我等が世界に来るべし」 「一方的だな」 「こちの世界とあちの世界が次元的に近付きすぎておる。このままでは合い打ち消しあってしまい、いずれの世界も跡形もなく消滅してしまおう。それを防ぐには、その現況となるモノを排除せねばならぬ」 「それが向こうにいると」 「そういうことじゃ」 「選択肢は?」 「ない」 「そうか」 「汝がどちらかの世界だけでも守りたいと思うなら、両方を守るしかない。その方法はただ一つのみ」 「俺でなければならないのか」 「汝の他にも、汝と似たような方法で試しはした。その結果、こちとあち、二つの世界で数名の勇者を確保した。が、結局のところ、決め手は汝となろう。以前の時と同じく」 「汚れ仕事をこなす者がいるか」 「清廉潔白な聖なる勇者は民衆を鼓舞し、軍隊を推し進めるには良い。が、そればかりでは勝てぬ。かといって、性根の腐った殺人狂などは始末に負えぬ。無論、勇者としての聖性を備えておらぬ者など始めから必要とはしておらぬのだがな」 「だろうな」 「頼めるか」 「仕方がない」 「うむ、すまぬな」 黒猫は、またも、なぁおぉぅ、と鳴いて、姿を消す。 「時来たるまでしばしの間がある。その間は、誰にも邪魔されることもなかろう。精々英気を養い、覚悟を決めるが良い」 そんなことを言い残して。
そして、臣継の冒険譚はまたここから始まるのだった。
†=========† 8817文字(一太郎より)。所要時間三日。
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