Re: 即興三語小説 ―おねえさんではない。おねいさんなのだよ。 ( No.1 ) |
- 日時: 2013/08/17 17:30
- 名前: 雪国の人 ID:5WMef7TA
ゆらゆら
俺の余命はあと二十四時間であると決定した。 ゆらゆらに感染したからだ。 背中を冷や汗が伝い、頭が混乱して考えがまとまらない。 とにかく走って、逃げて、右手をポケットに突っこんで携帯電話を取り出そうとして……情けない悲鳴をあげて、その場にすっ転んで尻餅をつく。 俺の右手はゆらゆら揺れる蜃気楼のようになって物をつかめない。 肘から先、十五センチメートルくらいのところで、出来の悪い合成写真のように俺の右手は途切れている。 今はまだ十五センチメートルだ。 ゆらゆら揺れる空気状のスライム的な境界部分は、次第に俺の肩の方へじっくりと移動していくのだ。 そしていずれ全身をやられて、人はゆらゆらになる。 ゆらゆらは人を襲う。 ゆらゆらに触れた部分の皮膚はゆらゆらになる。俺の右手だってそうだ……俺がこの手で誰かにさわればそいつはゆらゆらに感染する。 ゆらゆらはそうやって増えていったのだ。今ではもうかつてのような健全な日常生活は日本中のどこにも存在しない。 俺はじっとりと汗ばんだまま、炎天下のアスファルトに座り込む。 だんだん、頭が冷えてきている。左手で携帯電話を取り出して、ヒトミに電話をかける。何回か呼び出し音が鳴って、電話がつながる。 「俺だけど、ちょっと、いい? 金貸してくんない?」 「何それ……どうしたの急に」 「用事があって、万代駅コミュニティに行って買い物しなきゃいけなくなったから」 ゆらゆらに感染したから解毒クスリが必要だ、とは言えない。そうしたら電話は切れて二度とつながらない。 「結構遠いじゃん。それに怖い人いっぱいいるところだよ、スラムだし」 「でも行かないとだめなんだよ」 「……まあ、そうなんだろうけど、でも用事って、なに」 ヒトミの声の調子が低くなる。疑いと不安。 その気持ちはわかる。 国や都道府県といった社会が壊滅した現代日本でも、人はお互いに助け合って生きてきたのだ。 たとえば俺とヒトミは無人となったボロアパートの一室ずつを、それぞれの生活の拠点にしている。そうして付近一帯の人家を漁りながら日々の糧を確保しあっている。始終一人でいてば孤独であるし、夜間に身を守ることもできない。 かつて大都市の存在した地区には規模の大きいコミュニティが打ち立てられ、場所によっては千人単位の人々が共同生活を送っているという。 山林の近く、かつての農村部では最近になって再び農業がおこなわれているともいう。今でも大コミュニティへ行けば……現金さえ用意できれば新鮮な野菜を得られるのである。 「ちょっとセンチメンタルな用事なんだよ」 俺は深呼吸して答えた。今、ヒトミに切り捨てられるわけにはいかない。 「帰ったら話すし、金は返す。安田駅のコインロッカー、○○○番にメモ、頼む」 直接会えばばれる。メモに現金の隠し場所を記してもらって、俺がそれを手に入れる。金を返すあてなどもちろん無いし、万代駅コミュニティで解毒クスリを手に入れれば、ヒトミとはおさらばだ。 「……わかった。じゃ、用意するから」 俺は礼を言って電話をきった。 それで熱いアスファルトの上に座りっぱなしであったことをようやく思い出す。 立ち上がるとめまいがして、右手で自分の額をおさえそうになったが、すんでのところでとどまる。 肘と腕の間の部分。 ……さっき確認した時より、上がってきている気がする。 ゆらゆらに感染して、脳が侵されるまで、一般的に二十四時間であるといわれている。 脳が侵されれば終わりだ。 俺はゆらゆらになって、人を襲うだろう。 俺には解毒クスリが絶対に必要だ。 覚悟を決めて歩き出したところで、ふと、前方に不審な影を見つけた。 真夏の日光が奇妙に屈折して、地面に人の形を写している。 それは一歩、一歩、とじっくりと歩いて俺の方へ向かってくる。 ボロボロになった布きれを体にまとわりつかせているから、恐怖に駆られた俺の見るゴーストではありえない。 ゆらゆらは生きている。透明人間ではない。 俺は道端に落ちている小石を拾って、力を込めて前方の影へ向かって投げつける。 人の生身の皮膚にあたったような感触があって、小石は地面へ落ちる。 俺は片手でショルダーバッグからナイフを取り出す。 ナイフは護身用に用意してあったものだ。俺はすでに感染している。俺は冷静だ。とにかく脳がやられる前に解毒クスリを手に入れればいいのだ。 逆に言えばそれができなければ結局は死ぬ。 遅いか、早いかの違いだけだ。 俺はナイフを構える。やるべきことは簡単だ。ゆらゆらの心臓のところへ突き刺して、そのまま体重を乗せて奴を仰向けに押し倒す……簡単だ。ゆらゆらはノロマだ。 俺はもう一度深呼吸をする。 近づいてくるゆらゆらをよく見ると、顔のようなものが判別できる。 おそらくは女だ。とすると、生前は綺麗なお姉さんだったのかも……いや、そうであるに違いない。 ゆらゆらは正体不明の化け物ではない。ノロマの、人間の病気だ、ナイフで刺せば一発で殺せる。俺は勝手にガチガチと鳴る歯をかみしめる。 俺はナイフを握った左手を突き出す。 上手くいった。 想定外に硬い感触。しかしナイフはかげろうに吸い込まれるように、空中に消えて、その変わり、透明の液体状のドロドロとしたものがナイフの刃を伝って落ち始めるので、俺は慌てて手を離す。 相手を仰向けに倒すなんてことは不可能だ。俺は「ひいいぃっ」と悲鳴をあげて何歩も後退して、さっきまで俺の立っていた場所に、それは倒れ伏した。ゆらゆらと揺れる肌色上のもの。 ゆらゆらは生きた人間の病気だ。死体はゆらゆらしない。 やがて俺のすぐ目の前の地面に一人の人間の死体が転がっている。 なんだかその顔に見覚えがあるような気がする。 痩せこけている。初老の女。目を見開いて、真っ青な顔色をして口をちょっと開けている。 それは俺の母親の顔に似ている。死体にまとわりついたぼろきれはどうやら家庭用のエプロンであり、そのポケットに一枚の写真が入っていた。ナイフで刺され、倒れる拍子に写真はポケットを抜け出て地面に落ちた。 俺がほんの、五、六歳の時の写真。当時の俺はガキであり、満面の笑みで、そんな俺を抱きしめてしゃがむ俺の母親。 それを見ている今の俺には何もかも一切の現実感がない。 ヒトミにもう一度電話をかけて、現金は直接受け取りたいといって訂正する。 それでその場から離れた。 俺は考えてみれば、実家に残った読みかけの小説を取りに戻る途中でゆらゆらに襲われて、今も実家の近くを歩いているのだ。 だからヒトミに言った「センチメンタルな用事」というのはまったくのデタラメというのではないのだ。だからうまくいって、ヒトミも騙せる。
ヒトミと待ち合わせをした時刻は午後の四時である。 場所は安田駅。 現金を受け取って、万代駅コミュニティまで歩いて……四時間程度だろうか。 多く見積もって五時間。 万代駅コミュニティに到着するのは午後九時。 タイムリミットは明日の午後零時。少なく見積もって、午前十時としておいたほうがいいだろうか。 それでもたっぷり、残りは十二時間以上あるわけだ。 上手くいくはずである。 安田駅が見えてきた頃、待ち合わせの時刻までまだ余裕があった。 俺は歩いているうちにだんだん気分が悪くなってきていた。 ゆらゆらの自覚症状だろうかと考えたが、そういう話は聞いたことがなかった。 心理的な話で、俺がストレスを感じているだろうから、といえば、それは間違いなくそうだ。このままでは俺はもうすぐ死ぬ。だから気分が悪い。辻褄があう。 時間まで余裕があったので、俺は駅舎の外で胃の中のものを吐いた。涙を流しながら吐いた。何度もえづいて、気が付いてみたら、いつの間にか小便も大便も漏らしてひどい有様だったので、そうしたらいくらか落ち着いて、着替えた。 俺は冷静ぶって、考えた。「気持ち悪いというのは間違いないのだ。知らなかったとはいえ、自分の母親を評価するのに綺麗なお姉さんなどと言ってしまったのだから、……たとえ重度のマザコンでもそんなことは思わないだろう……気持ち悪い……」 それで俺はまた吐いた。吐しゃ物は俺が見たあの死体の上にふりかかっているような錯覚にすら襲われたが、しかしとめられなかった。 死にたいと思って、自分はミジンコ以下の最低の価値の無い生物であるとあらためて思い、何度も同じことを思った。この安田駅に着くまで歩きながら俺はずっと最低の生物であったし、これからずっとそうだ。 吐き続けた後、あらためて落ち着き、反省して、このことは今後一切思い出さないようにしようと誓った。 時間がきて、ヒトミが駅舎に姿を現した。もちろん、電車など走っていないのだから、俺と同じように徒歩で来たのだ。 ヒトミは俺の姿を探してキョロキョロと構内を見回す。 俺はつい今まで泣いていた顔をして、そのまま構内の物陰から姿を現した。季節外れのブカブカのコートを着て、腕を隠した。 「……どうしたの、その顔、……あとそのコート」 ヒトミは怪訝そうに俺の名前を呼んで、それで言った。 俺はひどい顔をしているに違いない。当たり前だ。もうすぐ死ぬのだから。 「ちょっと怪我をしてしまった。病院に行かないといけない」 「……痛むの?」 「うん」 俺は返事をしたまま、黙り込んだ。ゆらゆらに感染しても痛みはないが、それを正直に言ってしまっても仕方ない。 「……お金、持ってきたけど、……ほんとに大丈夫? ねえ、ほんとに?」 俺は大丈夫で、心配いらないと言った。 ヒトミは納得しない様子だった。 俺は心の中で二つのことを考えていた。 一つは、ここでダラダラとお節介な心配をされ続けても気分が滅入るだけで、そういうのは有難迷惑であるから、さっさと切り上げたい、この女は鬱陶しい、ということ。 もう一つは、実際に言葉にするのもはばかられる、最低の内容である。 つまり、俺はやはりマザコンではなかったのだ、と考えていたのである。ヒトミとこうして実際に会うように予定を変更したことは、間違いではなかった。 ヒトミは若くて健康で、顔が可愛い。 俺は隠していた自分の右手を見せた。ヒトミは俺のその部分がどうしてしまっているのかを認識して、すると顔から血の気が失せて、身をひるがえし、逃げ出した。 さすがにヒトミは聡明だ。しかし俺はその行動をあらかじめシミュレートしていたのである。 俺は素早くヒトミを追いかけ、左手の方で彼女の片腕を強くつかんだ。絶叫じみた悲鳴がその場に響き、俺はヒトミを構内の床に叩き付けるように押し倒した。 「逃げないでくれよ、金を貸してもらわないとだめなんだよ」 俺は努めて冷静に話した。 ヒトミは青白い顔をしたまま泣いている。 俺は我が身を振り返って考えてみる。ゆらゆらはそんなに恐ろしいだろうか。感染してしまえば、どうせ、死ぬのである。 「なあ、金は持ってきたんだろう」 俺は何度か話しかけたが、ヒトミはおびえて首を振るばかりで、要領を得ない言葉を言うだけだった。 やはりヒトミとこうして会えてよかった、と俺は思った。 俺はもうすぐ死ぬのである。つまりあるいはこれが、最後の機会だったのかもしれないのだ。 俺の胸のあたりにまとわりついていた気分の悪さは、いつの間にかすっかり消えてなくなってしまった。 ヒトミは泣いておびえるだけであったが、それで俺の欲求を解消するのに問題なかった。ただ、右手で彼女にさわってしまわないように注意しなければならなかった。 ヒトミがゆらゆらに感染してしまったら、今の、恐怖に押しつぶされるちっぽけな女がいなくなってしまうかもしれないのである。それでは台無しである。 健常者は何故かゆらゆらを恐れるが、そうした健常者の体を、自分の思いのままにできるのは幸運なシチュエーションであるといえる。 やがて俺は満足して、ヒトミのカバンから現金を探り当てると、しっかりとつかみ、ポケットに入れて、その場を離れた。
万代駅コミュニティに到着した時、すでに時刻は深夜の三時を回っていた。 万代駅コミュニティには何度か来たことがあるが、しかし何度来ても、人の多さには圧倒されてしまう。 ちょっと前……、ほんの数年前までは当たり前に『群衆』などという単語も使われていたはずなのに、いまではそんな光景は日本全国を見渡してみても、きっと数えるくらいしか探しあてられないのである。 しかも、この深夜の時刻にあって、風景が明るい。 驚くべきことだ。外灯がそこかしこに設置され、光をともしている。 電気がかよっているのである。 つまり発電所が存在して、正常に稼働している。 万代駅コミュニティには文明が存在している。ものを手に入れるのには通貨が必要であり、ローカルな法律が設けられて、運用されている。制服を着たポリスすら実在しているのだと話に聞いたことがある。 俺は暑苦しいコートを着たまま、肩を縮こまらせて歩いた。 ポケットには現金が入っていて、これを使って、解毒クスリを買うことができる。 しかしいつスリに出会って俺の現金を盗まれるかわからないので、俺は常に周囲に気を配らなければならなかった。 俺のコートの中の腕は、すでに右肩部分までゆらゆらの侵攻が進んでいる。何かのはずみで着ているコートが脱げるようなことがあれば、俺は即座に殺されるだろう。ポリスは銃を携帯しているはずだ。 夜の人ごみを経験するのは、本当に久しぶりだ。万代シティの廃墟が立ち並び、その隙間に即席の屋台が緑色の野菜や、良い匂いのパンを売る。 夜空を見上げてみると、満点の星空。なんて幻想的で、美しく、非日常的な風景なんだろう、と思う。N潟中央郵便局のビルディングと広々とした敷地が遠くに見えて、そんな建物の頭の上に天の川がかかっている。人間社会が崩壊する前には想像もできなかった景色である。 道をゆく人々は一様に疲れた顔、汚れた服、脂の浮いた髪で、まったく『北斗の拳』の世界にタイムスリップしてしまったような成れだが、しかし、波乱も何もない平和だった頃が今も続けば……その時には俺にとって愛すべき赤の他人であったかもしれない人々だ。地続きなのだ、と俺は急に悟る。 人々は非現実じみた星空の明かりの中で、屋台の安酒を買って飲み、立ち話をする。 何もかも依然とは様変わりしてしまったが、しかしここには社会があるのだ。 コミュニティとは、そのための場所なのだ。 俺やヒトミが孤独に片足を突っ込んで気ままに生きてきたのとは違って、ここには今も変わらない現実そのものがあるのだ。 人々は苦心してコミュニティを維持し、それを今まで守ってきたのである……。 歩いているうちに、目的の一角を見つけた。 地下に降りる階段の先に木製のドアがあって、開けると、アルコールの臭い。割れたガラス瓶が床に散乱して、先客が何人も室内にいる。 俺はポケットの現金を確認した。人間の腹くらいの高さのカウンターテーブルの端に売人が座っている。日本全国を渡り歩いて商売をする人物で、かつて日本の法律で違法とされたクスリの類も独自の方法で手に入れるという。 俺はその女に話しかけた。 「実は、俺に必要なクスリを探しているんだが……」 コートに隠していた右腕を見せようとしたが、女は片手をあげて俺の動きを制した。 「わかりますー、あなたー、ゆらゆらに感染してしもうてんでしょう」 女は流ちょうな関西弁で話した。(便宜上『ー』の文字で表現した部分は話し言葉が尻上がりになっている様子をあらわす) 俺はぎくりとして息を飲み込む。 女は手鏡を取り出すと、俺の顔を俺の目に見えるように置いた。 「今が夜でよかったなあー、あなたー、もうすぐ死んでまいますやん、運がよかったですわほんま」 俺の右の頬は、手鏡の中でゆらゆらと揺れて、もうほとんど目に見えない。 脳が侵されれば終わりだ。俺は死ぬ。 「くっ、く、クスリ、解毒クスリは……あるのか……?」 俺は慌てて売人にどなる。 売人の女はテーブルの上に親指の先くらいの大きさの小包を置いた。俺は左手を出してそれを取ろうとしたが、女の手が力強く制する。 「お金が先ですわ」 俺はポケットから現金を出してテーブルに置く。 「おおきに」 俺は今度こそ小包を取って、開封し、中のものを飲み込んだ。喉につかえそうになって、咳き込む。 「あっ、あかん、しもたー、間違えたー」 俺の意識は霧がかかったように朦朧として、それでそのまま霞の中に入っていくように消えていってしまうように感じた。 「解毒クスリと間違えて、飴ちゃん渡してもうたわ、あかんー」
#####
良さそうなオチを思いついたので書きました。 よろしくお願いします。
|
|