リライト作品 星野田さま『杞にしすぎた男』 ( No.9 )
日時: 2011/02/14 00:04
名前: HAL ID:ZLsdrgFo
参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/

 本題の前にちょっと事務連絡。本日0時をもちまして、原作の投稿を締め切らせていただきました。と同時に、リライト作品の投稿がスタートいたします!
 リライト作品の投稿は無期限です。もちろん、どなた様でも参加していただけます。皆様ふるってご参加くださいませ!

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 ……ということで、本題。星野田様の作品『杞にしすぎた男』のリライトに挑戦しました。
 星野田さまのファンの方に先に謝っておきます、改悪にしかなっていませんが、どうか広いお心でお読み流しいただきますよう……!(土下座)

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 それは遠い遠い昔、まだ平らな地面の上を太陽がめぐっていた時代のことだ。空の上には高天原(たかまがはら)、地の底には根の国があって、人々はその狭間、豊葦原(とよあしはら)の山野に海辺に、細々と己らが国を築いていた。
 そのひとつ、杞の国に、ある男がいた。それはひどく神経の細い男で、ぎょろりと剥いた目でせわしなくあたりを見回しては、よくもまあと人が呆れるほど、そこらじゅうからこまごまとした不安を拾いあげてくるのだった。田を均(なら)しては、今年は雨が降らないのではないかと空を見上げ、道を歩いては、石に躓(つまづ)いて転ぶのではないかと足元に目を凝らす。
 常からそのような調子であったから、男がある日急に、
「あの空はいったい誰が支えているのだ」
 などと言い出したときにも、邑(むら)の人々は軽く男をあしらって、
「誰も支えていなくても、空はそこに浮いているものだ」
 そういいきかせるのだが、男はぶるぶると震えだし、木鍬(こくわ)を放り出して駆け出した。そうして己の田畑(でんぱた)にはもう目もくれず、そこらじゅうから土を掻きだし、一心不乱に積みあげてゆく。
 周りのものがあきれて、いったい何をしているのだと訊けば、男は真顔で、
「天を支えなくては、いつかは落ちてきてしまう。あの空が落ちてきたならば、みなひとたまりもないだろう」
 という。
 はじめは誰もが笑って、また心配の虫が湧いてでたといったけれど、あまりに男が真剣なものだから、近所の童らが気の毒がって、石や小枝などを拾ってきては、男の積みあげる土に混ぜるようになった。
 男はきまじめに童らに礼をいい、また黙々と土を積んだ。己が田畑が猪だの鴉だのに荒らされても、そんなことには気づきもせずに、ただただ、天を支える柱を積みあげる。やがて一人の邑人が、呆れ顔でふらりと畑を離れ、
「そんな土くれでは、じきに崩れてしまって、天に届くほどには積み上がらんだろうよ」
 そういいながら、仲間とともに柱を担いで戻ってきた。古くなった櫓(やぐら)を解体したときにあまったもので、それは大きな柱だったが、それでも天に届くはずはない。それからも、彼らはときおり野良のあいまを見て、樹を伐り、削っては運んできて、男とともに組みあげるのだった。
 そんな日々が、何年ほど続いただろうか。男を手伝う人々は、驚くほどに増えていた。柱をつくる手伝いをするものばかりでなく、男に食べるものを差し入れる女たちもいた。己の口を糊(のり)するための田畑を蔑(ないがし)ろにしてでも、みなを落ちてくる天から守ろうと不恰好な柱をつくり続ける、そういう男の必死さに心を打たれたのだった。たとえその方法が、どんなに滑稽なものだとしても。
 雨が降ろうと、不作におそわれて飢えようと、寝食も忘れんがばかりに男はせっせと柱をつくり続けた。大工連中に教わったわざで、男は足場をつくる。土の柱では重過ぎて、柱自身の重さを支えることさえ叶わなくなっていたから、足元の低いところには土をさらに厚く積み、上の高いところは丁寧にこまかく木を組んで、なるたけ軽く、頑丈な構造をつくっていった。
 何年も、何年もの時間をかけて、徐々に柱はその高さを増してゆき、この調子であと何年か苦労を重ねれば、ほんとうに天まで届くのではないかと思われた。邑人たちは男をはげまし、ときに手を貸し続けた。
 そんなある年の冬だった。真夜中、自分のねぐらで休んでいた男は、轟音で目を覚ました。
「なんだ、いまの音は」
 あわてて駆けだすと、冬の夜空には分厚い雲が垂れ込め、雪が降りしきり、その上を、激しい白光が荒れ狂っていた。
 辺りには、木の燃える匂いが立ち込めている。森のほうで、あかあかと火が踊っているのが見えた。
 男は弾かれたように走り出し、毎日毎日精を出して積みあげた柱へと向かった。
 近づいても柱のすがたが見えないことに、男はおののいた。はじめは必死に走っていた、その足取りが緩み、力のない歩みに変わる。蹌踉とした足取りで、男は歩き続けた。
 柱は燃えていた。天から降ってきた神の怒りに打たれて、ごうごうと音を立てて燃え盛っていた。
 男は立ち尽くした。稲光が光っても、降りしきる雪に体が冷えきっても、ただただそこにいつまでも立っていた。
 邑人たちは皆怯え、それぞれのねぐらに引っ込んで、頭を抱えて小さくなっていた。あんな柱をつくったせいで、高天原の神々がお怒りなのだと、かれらは口々にいいあって、その慈悲を乞うた。
 夜が明けるまで、神鳴りは轟き続けた。


 男はそれからしばらくのあいだ、呆然としてすごした。日が昇って、また沈んでも、ただ焼け落ちた柱のあとを見つめ、力なくうずくまっている。そういう男を、邑人たちは気の毒がりながらも、声をかけはしなかった。神の怒りが、己らが身に及ぶのをおそれているのだった。
 男はやがて、立ち上がり、じっと空を見上げた。そしていった。
「もう一度、やるぞ」
 しかし邑人たちはぎょっとして、いっせいに男を止めにかかった。
「あんな高い柱をつくろうとしたから、高天原の神々がお怒りになったんだ。もう馬鹿なことはよせ。柱なんかなくったって、空は落ちてはこん」
「だけど」
「どうしてもつくるというなら、頼むから、邑から遠く離れたところでやってくれ。おまえの怖がりに巻き込まれて、神鳴りに撃たれるのは真っ平だ。もう誰も手伝わないぞ」
 その言葉は真実だった。もう誰も、男に手を貸そうとはしなかった。あの神鳴りで、柱ばかりか、森のかなりの範囲が焼かれたのだった。長年のあいだ彼らに恵みをもたらしつづけてきた森が。
 男はしょぼくれて、焼け落ちた柱の前にうずくまっていたが、やがてのろのろと腰をあげた。この数年ですっかり荒れ果ててしまった畑へ戻り、土の手入れを始めた男は、しかし、その目処もたたないうちに、はっと顔を上げた。
「そうだ。天を支える柱がつくれないのならば、穴を掘って、地の底に隠れればいい。俺は穴を掘るぞ。いざ空が落ちてきたときに、みんながもぐれるだけの穴を」
 邑人たちはぎょっとして、男をひとしきり止めたけれど、男はきかなかった。
「誰も手は貸してくれなくていい。ひとりでやる」
 男はそういって、自分の畑だった場所に、深い深い穴を掘り始めた。邑人たちは、困惑して、一心不乱に穴を掘る男の背中を見下ろした。
 柱をつくっていたときに身につけた大工の技で、木組みの支えを穴に添えることを、男は怠らなかった。そしてそれは、地上から穴の底に降りるための、足がかりをも兼ねた。いずれちゃんとした梯子をつくるにしても、ひとまずは己が降りられるほどのものでいい。
 男は延々と、地面を掘り続けた。これで充分だろうかと、ときおり顔を上げて、そこにぽっかりと開いた青い空を見つめては、あの日のおそろしい神鳴りを思い出し、ぶるぶると震える。たったあれだけの神鳴りでさえ、あれほどに頑丈につくった柱を粉々にしたのだから、いざ空そのものが落ちてきた日には、こんな浅い穴でどうにかなるはずもない。
 邑人たちは、今度は手を貸しはしなかった。それでも、男がひとやすみするために地上に上がると、誰か気の毒に思うらしいものが、黙ってその穴のわきに、握り飯なりと置いていてくれているのだった。ぼろぼろになった木鍬の替えが置かれていたときもあった。
 男は、邑人たちのすべてが隠れるだけの場所をつくりたかったから、穴はしぜんと広くなった。そのぶん、深く掘るのには時間がかかる。ときには地中の岩に突き当たり、それを掘り起こしては、かついで、不安定な足場に苦労しながら、地上に運び出さねばならなかった。それでも男は根気強く、毎日毎日穴を掘り続けた。
 ときおり誰かの差し入れがあったとはいえ、男はだんだんとやせ細ってゆき、また陽に当たる時間が短いためか、その肌は不健康的に青白くくすんでいった。たまに外に出ると、男は眩しげに空を見上げ、まだそれが落ちてくる気配がないことに安堵の息をついて、また穴の底に戻るのだった。
 掘り続けていったある日、男は地面の底に、おかしな手ごたえを感じた。そのまま掘り続けたものかどうか、男は迷ったが、それでも、空を見上げてたしかめれば、それはまだ充分な深さではないような気がした。
 ためらいためらい、男が地面に鍬をつき立てた、次の瞬間だった。男の足が地の底を抜けたのは。
「これはいったい、どうしたことだ」
 男はどうにか穴のへりにしがみ付いたが、やせ細った指では、たいした力も入らなかった。そのうえ脆い土のことだ。だんだんと崩れていく。やがてつかむべきところもなくなって、男は穴からすっぽ抜けると、真っ逆さまに落ち始めた。
 自分の命もこれまでかと、男が観念して、かたく目をつぶったときだった。男の体を受け止める、何ものかがあった。
「なんだなんだ。いったいどうして、人間が降ってくるのだ」
 呆れ声がして、おそるおそる目を開ければ、男の体の下には、ふさふさとした毛皮があった。真っ白で、つややかな毛並み。その内側にはゆるやかに躍動する筋肉があり、男の体の下からは、にゅっと大きな翼が突き出していた。それはまるで、鳥の翼のような形をしてはいるけれど、まじまじと見れば見るほど、その生き物は鳥のようには、とても見えなかった。
 それは、男がこれまで見たこともない生き物だった。体つきは狼に似ているだろうか。しかしこれほど巨大な狼など、男は見たことも聞いたこともなかったし、そもそも狼に翼はない。獣の額には二本の頑丈な角が生えていて、尻尾には蛇のような鱗があるし、その瞳はぎょろりと赤く光っていた。何より、
「訊いているのだから、答えたらどうだ。どうして人間が、こんなところにいる」
 そう人の言葉で訊かれて、男は驚きのあまり、身動きひとつとれなかった。もっとも、空中を飛ぶ獣の背中に乗っている以上、身動きなどとろうものなら、真っ逆さまに落ちていくしかなかっただろうが。男がおそるおそる、下のほうをのぞきみれば、その先は真っ暗で、地面は見えなかった。
「ここは根の国なのか。俺は死んでしまったのか」
 男が震えながらいうと、獣はあきれたようにため息をついた。
「根の国は、まだこのはるかに下のほうだ。お前はまだ死んではいないが、ここから落ちたら、まあ、死ぬだろうな。ところで人間、おれの質問に答える気はあるのか、ないのか」
 男ははっとして、獣の毛皮にしがみ付きながら、これまでの経緯を話しはじめた。いつか空が落ちてくるのではないかと、不安になったこと。それがおそろしく、天を支える柱をつくろうとしたが、叶わなかったこと。地面の下に隠れれば安心かと思い、村の地面を掘りすすめてきたが、もっと深く、もっと深くと思ううちに、こんなところまでやってきてしまったこと。
 獣は面白がるように相槌をうちながら、男の話を聴いた。男は話しながら、汗を掻いていた。太陽の光もろくに届かないというのに、地の底はほのかな赤い光に照らされており、何よりひどく暑かった。獣がこれほどの毛皮に身を包んでいて、なお平然としているのが不思議なほどだった。
「妙なことを考える人間もいるものだ。こんなところまで、自力で掘りすすんできた人間は、きっとお前がはじめてだろうよ」
 男が話し終えると、獣は興がるようにそういって、ぐるぐると喉を鳴らした。
「ちょうど小腹が空いていたから、お前を喰らおうかとも思ったが、お前はたいした食いでもなさそうなことだし、面白い話に免じて、見逃してやろう」
「それはありがたい。見逃しついでに、俺をあそこまで、運び届けてもらえはしまいか」
 男はおっかなびっくり、自分が掘った穴を指さしながら、獣にそう願い出た。獣は呵呵大笑し、
「臆病なのか、度胸があるのか、よくわからんやつだ。どれ、ついでだ。地上まで送ってやろうよ。つかまっておれ」
 そういって、悠然と翼をはためかせた。
 男の掘ってきた広い穴の中を、獣はぐいぐいと上りながら、もう一度笑った。
「よくもここまで掘ったものだ」
 男が何年もかけて掘った穴も、獣の翼にかかれば、あっという間に上りきってしまった。地上に出ると、あたりは夜更けで、獣は月明かりを仰いで、眩しそうに赤い目を細めた。
 邑人たちはすっかり寝静まっているようだった。男は礼をいうと、穴の脇に誰かが置いていてくれた握り飯を、おずおずと獣に差し出した。獣はぐるぐると喉を鳴らして笑うと、ひと呑みで握り飯を食べてしまった。
「たいした腹の足しにはならんが、まあ、礼に、土産のひとつもくれてやろう」
 獣はそう笑うと、男に、自分の翼の付け根を探るようにいった。
 男がいわれるがままに、そこに手を突っ込むと、翼と胴体のあいだには、いくつかの小さな箱が埋もれていた。
 その中のひとつを手に取ると、それは、螺鈿のみごとな細工の入った箱で、その紋様は、月明かりにきらきらと輝いた。そんな高価な細工など、一度も見たことのなかった男は、仰天し、ためらいながらも、そっと手のひらの上に箱を載せて、ため息をついた。
 ありがとう、と男が礼をいうと、獣は赤い目をきらめかせ、
「その箱は、開けないほうがいいだろうな。まあ、うまく使うことだ」
 そういい捨てて、穴の底へ飛び込んでいった。


 命拾いしたことに、しばらくは喜んでいた男だったが、やがてまた、空を見上げては、ため息をこぼした。柱をつくることもかなわず、地に隠れることもかなわなかった。空が落ちてきた日には、みな圧しつぶされて死んでしまうしかないのだろうか。
 男は邑人たちに、獣の話はしなかった。ただ、穴の底を突き抜けて、広い空洞にたどりついてしまったことを告げ、けして中に落ちぬよう、子どもらを近づけぬようにというばかりだった。
 邑人たちの好意で、男は邑のはずれに、新しい畑を耕すことを許された。空の落ちてくる日に怯えて鬱々とすごし、それでもその日がやってくるまでは、とにかく食わねばなるまいと、力なく新たな畑を耕していた男だったが、ある日、野良を終えて戻ると、誰もいないはずのねぐらの中で、奇妙な声がした。
「開けてくれろ。開けてくれろ。この箱のなかは昏(くら)い。とても昏いのだ」
 男は飛び上がって驚いた。箱は小さく、男の手の平に乗るくらいなのに、声は大人の男のようだった。
「開けてくれろ。開けてくれろ。この箱の中は寂しい。とても寂しいのだ」
 声はあわれっぽく訴える。男は思わず、箱を開けそうになったけれど、すんでのところで、獣の忠告を思い出した。
「騙されないぞ。お前を出したら、きっと、何かよくないことをするに違いない」
 そう男が虚勢を張ると、箱はひとしきり、すすり泣くような音を立てて、沈黙した。
 だがそれからも毎晩、箱は男に、開けてくれろとあわれっぽく訴えるのだった。
「開けてくれろ。開けてくれろ。ここから出してくれたなら、お前の願いをかなえてみせよう」
 何日めかに、箱の声はそういった。男は思わず考えこんだ。それから、おそるおそる箱に訊ねた。
「空が落ちてこないようにできるか」
「それは難しい。しかしやってみよう」
 箱は答えた。男はさらに考えて、慎重にいった。
「開けるなり、俺を喰おうという魂胆じゃないだろうな」
「お前に危害を加えることはしない。約束しよう」
「邑人たちを喰ったりしないか」
「しない。私はただ寂しいのだ。この狭く、昏く、窮屈な箱から出たいだけなのだ」
 男は迷い迷い、箱の蓋に手をかけた。危害は加えないと誓ったことでもあるし、声の主が、だんだんと気の毒になってきてもいた。
 男が箱の蓋をそっと持ちあげると、はじけるように、白いものが箱の隙間からあふれ出した。男はぎょっとして後じさったが、煙はもくもくと箱から立ち上り、ねぐらじゅうを覆って、さらにその外へとものすごい勢いであふれていった。あわてて男が箱に蓋をしなおしたときには、一面が真っ白に煙り、何も見えなくなっていた。
「なんだ、なんだ。どういうわけだ」
 男が問うと、くつくつと笑い声がした。
「お前の願いはかなった。もう空はない。落ちてくる心配もいらない」
 煙の向こう、どこともつかない場所から、箱の中からしたのと同じ声が響いた。
「だが、空以外のなにもかも、すっかり見えなくなってしまった。お前は何者なんだ」
 男が声を張りあげると、姿のない声は、楽しげに答えた。
「私の名は嫉妬。私の名は疑惑。私の名は憎悪。虚飾。欲望。悲哀。後悔。私はありとあらゆる負の感情。私はもう自由だ。人々は互いに信じあうことさえ叶わないだろう」
 声はけたたましく笑い、やがて飽きたように笑い止むと、ふつりと黙り込んだ。あとは男がいくら呼びかけても、何の答えも返ってこない。邑はしんと静まりかえっている。ありとあらゆる音が、白い煙に飲み込まれてしまったかのようだった。
「なんということだ」
 いったい己は何をしでかしてしまったのか。男は顔を覆って嘆いた。空が落ちてこないようにとは思ったが、太陽もすっかり覆いつくされてしまったいま、作物はきっと育たないだろう。邑人たちは飢える。負の感情というものが人の世に何をもたらすのか、まだ男ははっきりと理解してはいなかったが、来年の不作のことだけは、ありありと想像がついた。
 ねぐらに戻り、うずくまって後悔にくれる男に、とつぜん、何者かが声をかけた。
「もし。どうか、私も外に出してくださいませ」
 声は、箱の中からするようだった。
「もう騙されん。お前もまた、さっきのやつの仲間ならば、この世界に仇なすものに違いあるまい」
 男はいって、がっくりとうなだれた。
「ああ、なんということだ。俺はくるかもわからない先のことに怯えるあまり、もっと救いのない災いを、この世に解き放ってしまったのだ」
 男は顔を覆ってすすり泣いた。柱をつくるあいだ、ずっと手助けしてくれていた村人たちの顔を思い出し、穴を掘っているあいだ、握り飯をそっと置いてくれた誰かもわからない人々のことを思った。
 嘆く男に、声はいった。
「もし。私を出してくれれば、この煙を払うことくらいはできます」
 男は箱をじっと見つめ、いっとき沈黙していたが、やがて自棄のように、箱の蓋に手をかけた。これ以上わるくなることなど、なにもないような気がしたのだった。
「ありがとう」
 男が箱を開けたとき、その中から一陣の風が飛び出した。その風は、どこまでもどこまでも吹き渡り、世界中を覆いつくした白い煙を、きれいに吹き払ってしまった。
 男がねぐらを飛び出すと、夜空が戻っていた。そこには星明りが煌々と瞬き、月が中天から静かな光を注いでいた。
「もう大丈夫。闇夜にも星が光るように、空を覆う雲がいつかは途切れるように、人々の心を覆う昏い感情も、いつかは晴れることでしょう」
 声は静かな調子で続ける。「人々はときに嫉妬にかられても、やがて忍耐することを覚える。疑い合う日がきても、やがては信じる心を取り戻す。虚飾を見抜く目を、人々は養うことができる。欲望に突き動かされても、優しさを思い出して自制することができる。哀しみに沈む夜にも、残ったぬくもりを取り出して耐えることができる。闇の深い夜には後悔に暮れても、やがて陽が昇れば、明日を生き抜くために立ち上がるでしょう」
「お前はいったい、何者なのだ」
 男は呆然として、声に問いかけた。風は小さく笑うような気配をさせて、
「私の名は希望」
 とだけ答えた。そうして次の瞬間には、世界中へと散っていった。
 男は長いあいだ、呆然と地面の上にへたり込んでいた。やがて鶏の声が響く。男が顔を上げると、空の端がわずかに白み始めていた。
 夜が、明けようとしている。

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 自分のペースで描写を突っ込んでいったら、無駄に長くなりました。冗長感あふれてるう!(涙)
 ……ごめんなさい……orz