リライト作品 チャボ (原作:とりさとさん『月を踏む』) ( No.14 )
日時: 2011/02/14 01:01
名前: 山田さん ID:44EMoiRA

 どうリライトしようか迷った作品です。
 結局は時勢をいじって、ちょっと気になった箇所を直したくらいしかできませんでした。

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チャボ (原作:とりさとさん『月を踏む』)



 チャボは、月が好きだ。

 この世界で月という存在は、夜空という天蓋に穿たれた唯一の穴だった。この世界の大地は一枚岩でできており、そこに半球の蓋をかぶせるように空があった。世界の果てには真っ暗な空と同じ壁があり、決して傷つけることは叶わない。この広い広い世界は、そうやって完結していた。
 ただ、その世界から抜け出すことができる穴がある。それが月だ。天上で終始輝く月は、世界にぽっかり空いた穴である。閉じられた世界から、動かず欠けることなどない丸い月を抜けると楽園が広がっていると信じられ、この世界の住人はそこにたどり着く事を望みとしていた。 
 チャボとて例外ではなく、だからチャボは、月が好きだ。

 小鬼のチャボがこの世界にひとり放り出されたのは、チャボが生まれて三日目のことだった。わずか三日でチャボの母親は先立ってしまったのだ。
 チャボの身体のほとんどは土くれでできており、そこに木の葉が練りこまれることで動いていた。チャボの母親が自分の死期を察して造られたのがチャボであり、チャボは造られた瞬間から母親の記憶と知識を受け継いでいた。元来、小鬼とはそういうものだった。ただ、チャボはチャボであって母親ではなかった。これまで連綿と受け継がれているどの小鬼でもなく、強いて言えば、その総体がチャボであった。

 丸い月を抜けて楽園にたどり着くこと。それはチャボの望みでもあり、いままでのすべての小鬼の望みでもあった。そしてそれは小鬼だけの望みではなく、この世界に生きるものすべての原初に刻まれた本能であった。月を抜ければ楽園がある。それは動かず欠けることなどない丸い月の存在と同じくらいに揺らぎのないことだった。しかし小鬼の寿命は短い。何世代も続いた小鬼の歴史においても、結局は月にたどり着くことは叶わなかった。チャボは月に行くことをとうに諦め、代わりに純粋な憧憬の想いを月の向こうに向けていた。

 チャボは、平原にたった一本生えている木に住んでいた。家族もおらず、仲間のひとりもいなかった。淡い月光に身をまかせながら、何をするでもなくぼんやり過ごしていた。仲間を増やそうと思えば、茂っている葉っぱの分だけ増やせるのだけれど、チャボにそんな気は起らなかった。母親のように、死期を悟っても自分の記憶を受け継がせる器をつくらないだろうということも半ば確信していた。チャボは一人生き、一人死のうと決めていた。チャボが死んだ時は小鬼という種族が滅びる時だったが、それで構わないとチャボは月を見上げて達観していた。

 チャボより十代ほど昔の小鬼が、偶然出会った人間からその種族が月を抜ける手段を手に入れたと聞いていた。たまさかここを通りかかったその人間は、全身で月光を反射させ、ぴかぴかと輝く顔で「もうすぐ私たちは月を抜けられる」と嬉しそうに語っていた。後日、遠く離れた場所から先のとがった筒型のものが何本も月に向かって打ち上げられ、空の抜け道を通り過ぎて行ったのを目撃していた。
 受け継いだその記憶から、チャボは人間という種族は月を越えたのだろうと判断していた。もう人間はこの世界に存在しないと、そう思っていた。

 ある日、チャボは人間と出会った。人間なんてもう存在しないだろうと思っていたのでとても驚いた。その人間はチャボが持つ古い同族の記憶にある人間と違って、暗い印象を与えた。鈍く月光を反射させるその身体は、どことなくくすんで見えた。ぴかぴかと輝いていた顔にいたっては、どこか錆付いているようにすら見えた。
 チャボがどうしてここにいるのかと疑問をぶつけた。もうとっくに月を抜けたものだと思っていたと。すると人間は深い深いため息をついて、ぽつぽつと少しずつ語り始めた。

「月を抜けたころ、か。随分と昔の話だな。当時の私たちは喜んだ。月を抜けることがこの世界に生きるものの望みなんだからね。何人もの人間が月を抜けていくのを見て無邪気に心を躍らせた。自分の番はまだかと、待ちきれなくてうずうずしていた」
 そこまで話すと人間は一息いれた。チャボは先を急かすことはせず、ゆっくりと次の言葉を待った。
「ただその中でふと誰かが呟いたんだよ……誰一人として帰ってこないな、って」

 人間というのは、何か新しいもの、信じられないもの、とても愉快なもの、とても素晴らしいものに遭遇したら、誰かれ構わずに教えたくなる性を持つ生き物である。チャボの知識の中にもその情報は刷り込まれている。だから楽園にたどり着いたのであれば、誰かひとりくらいはその素晴らしさを伝えに帰ってくるはずである。たとえ多くの人間が楽園の生活に安住して、その性を蔑ろにしてしまったとしても、ひとりくらいは「教えたい」という欲求を抑えることができないはずだ。それなのに誰一人として帰ってこない……これは一体何を意味するのだろう……。

「多分それは、本当に純粋なただの疑念に過ぎなかったんだ。でもね。その一言は私たちの胸に波紋を投げかけた。私たちは盲信的に月の向こうには楽園があるって信じてきたけれど、それが本当だって証拠はどこにあるんだい。分からないじゃないか」
 人間は悲しそうに首を振ると、続きを話し出した。
「向こうに何が待っているか、ちゃんと知ってから行きたいっていう人が増えてきた。涙ながらに、絶対に戻ってくると家族を残して調査にいった人もいた。どんな障害にでも立ち向かえるような装備を組んで、自信満々に飛んで行った人もいた。でも、誰一人として帰ってこなかったんだ。誰の一人も」

「そうすると、怖くなるじゃあないか。だんだんと変な噂が広まっていった。月を抜けたらそこは楽園だなんて、嘘っぱちなんじゃないか。あの向こうには、もしかしたら想像を絶するような地獄が待っているのかもしれない。月を抜けた人たちは、いまなおあそこで苦しんでいるんだ。そんな、噂だ」
「噂はどんどん広がって定着し、最終的にはそれが人間の常識になってしまったのさ。月を抜けたら最後、二度と帰ってくることのできない地獄が待っているってね。噂に過ぎなかったそれがいつしか真実となって、いまでは私たちは月に行くことはないんだ。本能がどんなにあそこに行きたいって叫んでもね」

 人間は語り終えると、金属の身体を動かして歩き去っていった。やはりどこか錆ているのか、足を動かすたびにぎしぎしと鳴る不協和音がもの悲しかった。人間と呼ばれる彼らは、かつては自分の整備に余念がなかったというのに。
 人間の語りを聞いても、チャボの月への憧憬は薄れることなく続いた。空の穴たる月から漏れる、青白い光に照らされた平原。そこに奇跡のように生えているひょろりとした木からチャボは世界を見て、月を見ていた。小鬼の一生ではどうあがいたところでたどり着けない場所だからこそ、人間とは違い一途に憧れることができた。
 月。
 チャボにとってみればやはりそれは生涯美しく、この世界で唯一の救いであり、無二の存在であり、果てなき想像を広げてくれる楽園への入り口だった。いつか月を抜け、その先にある世界を踏む。チャボは、そんな素晴らしい夢に身をゆだねた。
 だから、今でもチャボは、月が好きだ。