リライト作品 笹原さま『ひるがえる袖』 ( No.10 )
日時: 2011/02/14 00:02
名前: HAL ID:ZLsdrgFo
参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/

 笹原さま『ひるがえる袖』のリライトに挑戦しました。
 勝手な舞台の改変、設定の追加等々、どうか寛大なお心でお許しいただきますよう、前もってお願いしておきます……!

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 あれは祭の夜だった。小さな神輿が一台きりに、神社の境内にいくらか屋台が並ぶだけの、至極ささやかな縁日で、その頃世間には戦争の足音がひしひしと押し迫ってはいたけれど、まだ実感は湧かずにいた、そんな時分のことだった。
 本来であれば学業に勤しむべき時節ではあったものの、末の妹にせがまれて、渋々下駄をつっかけた。がま口の小銭を確かめて、飴の一つも買ってやらねばなるまいかと、ため息をつきつつ家を出た。
 境内には、思ったよりも人出があった。橙色の提灯が、人々の顔を照らし出している。下駄を鳴らして人波の合間を縫ううちに、金魚すくいの屋台に行き会い、妹がぱっと顔を輝かせて、あれがやりたいと駄々を捏ねた。すくうのはいいが、とても家では飼えないよ、それともお前、すくうだけすくって残らず死なせるかいと、そういって脅かすと、ぎゃあぎゃあ泣いて、ひどく閉口した。
 その口に飴を突っ込んで泣き止ませ、どうにかお社の前まで歩かせると、二人して五銭玉を一枚ずつ、賽銭箱に放り込んだのだった。小さな手で律儀に拍手を打つ妹の、必死の顔つきがおかしくて、いったい何をそう真剣にお願いしているのだいと訊くと、兄ちゃん知らないの、願掛けは人にいったら叶わないんだよと、一丁前の口を返された。
 呉服屋のご隠居が杖を突き突き、おぼつかない足取りでお社に向かってゆく。角の豆腐屋の洟たれが、坊主頭の友達と連れ立って走り回り、しまいには飴を落として泣き出した。見知った面々が殆どではあったが、わざわざ隣町からやってきたものか、知らない顔もちらほらとあった。どこの女学生だろう、華やかな装いの娘さん方が、鈴の鳴るような声を立てて笑っている。
 途中、妹が尋常小学校の友達と行き会って、灯篭の脇で話し込みだした。まだ小さくとも女は女ということか、話には際限がない。手を繋いだまま、呆れて見守っていると、不意にどこかで、涼やかな声がした。
 祭囃子に負けまいと、大声で言葉を交し合う人々の、耳の痛くなるような喧騒の中で、その声だけがひときわ澄んで、風が淀んだ空気を吹き払うように、まっすぐに耳へと飛び込んできた。
 思わず声の主を目で追えば、どうやら十七、八ほどの可憐な娘御で、矢絣の着物がよく似合っていた。髪を結い上げて、年頃からすれば少し背伸びしたような、上品な簪を挿している。かの女は友人らしき女性と、何か談笑しているようだった。ときおり袖で口元を覆って、くすくすと笑う。
 ぼうっと見とれていた私の視線を感じたのだろうか、かの女は友人と別れたあとで、振り返って私を見た。目が合うと、戸惑うようにその視線が揺れた。不躾を詫びるつもりで、小さく会釈をすると、かの女もまた遠慮がちに頭を下げかえしてきた。
「あの、貴女は」
 気が付けば、声を掛けていた。その声があまりに大きかったのだろう、かの女は吃驚したように目をぱちぱちさせてから、恥らうように慌てて俯いた。
 年頃の男女が並んで立ち話をするだけで、口さがない人々の好奇心をさそうような時代だった。突然呼び止めたことの迂闊さに、自分自身が何よりも仰天して、私は慌てふためいた。
「いや。その、失礼」
 しどろもどろになりながら、かろうじて謝ると、かの女はうつむきがちにはにかんで、いえ、と首を振った。
 振り返ると、妹はまだ友達と話しこんでいた。その視線につられたのか、かの女は私の手の先の幼い妹を見て、まなじりを緩めたようだった。子ども連れということで、警戒心も和らいだのか、かの女は小声で名前をいい、私も大慌てて名乗り返した。
「その。お一人でいらしたんですか」
「ええ。明日の朝にはこちらを発つものですから、最後にもう一度と思って」
 かの女はそういって、東の空を仰いだ。その横顔の、透き通るように白かったこと! 空はよく晴れていて、満月からほんの僅かに欠けた月が、ひどく明るかったのをよく覚えている。
「東京へ?」
「ええ、東京へ」
 かの女は頷いて、どこか寂しげに微笑んだ。当時、東京市が東京都へと名を変えてまもなくの頃で、復興はずいぶん進んでいたとはいえ、まだかつての大震災の記憶は、人々の中に新しかった。しかし、初対面の相手に事情を訊くのも不躾に思われて、私は口を噤んだのであった。
 もう一度、会えませんか。たったその一言が、当時の私にはどうしてもいえなかった。この先の我が身の振り方も、まだ確とは定まっていなかったし、知った顔ばかりの周囲の視線も、頬に突き刺さるようだった。
「兄ちゃん、行こう」
 妹に手を引かれて、私ははっとした。しかし、少し待てというわけにもいかない。繰り返しになるが、年頃の男女が往来で口を利いているというだけで、見咎められるような時代のことだ。下手なことを口に出すだけで、かの女の評判に傷がつくかもしれなかった。
「失礼」
 ただそういって、頭を下げるほかなかった。ただ視線だけに、名残惜しい思いを託して、一度だけ私は、正面からかの女の瞳を見つめた。かの女はかすかに、睫毛をふるわせたようだった。
 すれ違いざま、妹と繋いでいるのとは逆の手に、何か硬く細いものが触れた。とっさにそれを掴んで振り返ると、かの女は凝っと、私を見つめていた。その瞳が、かすかに潤んでいるような気がしたのは、私の自惚れだっただろうか。
 疲れて歩けないといい出した妹を負ぶい、人目を忍びつつ掌を開くと、そこには簪があった。
 驚いてもう一度振り向いたけれど、もう、かの女の姿は人混みに紛れて、確かに見定めることさえできなかった。ただ、矢絣の袖が揺れるのが、道ゆく人と人との間に、垣間見えたような気がした。


 戦後、かろうじてフィリピンの地から生きて戻った後になって、ようやく近隣の人々にかの女の行方を訊ねたけれど、誰も東京に越していったという、その先を知らなかった。どうにかしてあの空襲の難を逃れていればよいがと、ただそう願うほかにできることもなく、あのときいま少し勇気を振り絞ってかの女の行く先を訊ねてさえいれば、何かが違っていただろうかと、そんな漠然とした後悔ばかりが、いつまでも胸に残った。
 私の手元には、今も件の簪がある。

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 原作のうつくしさを壊してしまった気がする……! ごめんなさい!(土下座)