リライト希望作品 『月を踏む』 ( No.5 ) |
- 日時: 2011/02/07 06:00
- 名前: とりさと ID:fZXA5jA6
月を踏む
小鬼のチャボは生まれて三日で母に先立たれ、この世界にひとり放り出された。 チャボの身体は大体が土くれでできていて、そこに木の葉っぱが練りこまれることで動いていた。小鬼とは、元来からそういうものだった。チャボの母親が己の死期を察して作ったのがチャボであり、チャボは作られたその瞬間から彼女の記憶と知識を受け継いでいた。ただ、チャボはチャボであって母親ではなかった。これまで連綿と受け継いでいるどの小鬼でもなく、強いていえばその総体がチャボであった。 チャボは、平原にたった一本生えている木に住んでいた。家族もおらず、仲間のひとりもいなかった。淡い月光に身をまかせながら、何をするでもなくぼんやり過ごしていた。仲間を増やそうと思えば、茂っている葉っぱの分だけ増やせるのだけれど、チャボにそんな気は起らなかった。母親のように、死期を悟っても自分の記憶を受け継がせる器をつくらないだろうということも半ば確信していた。チャボは一人生き、一人で死のうと決めていた。チャボが死んだ時は小鬼という種族が滅びる時だったが、それで構わないとチャボは月を見上げて達観していた。 チャボは、月が好きだった。 この世界で月という存在は、空という天蓋に唯一あいた穴だった。この世界の大地は一枚岩でできており、そこに半球の蓋をかぶせるように空があった。世界の果てには真っ暗な空と同じ壁があり、決して傷つけることは叶わない。この広い広い世界は、そうやって完結していた。 ただ、その世界から抜ける穴がある。それが月だ。天上で終始輝く月は、世界にぽっかり空いた穴である。閉じられた世界から、動かず欠けることなどない丸い月を抜けると楽園が広がっていると信じられ、この世界の住人はそこにたどり着く事を望みとしていた。 チャボとて例外ではなかった。 チャボだけではなく、いままでのどの小鬼もそれを望んでいた。その想いは、小鬼だけものではない。この世界に生きるものの原初に刻まれた本能といってよかった。しかし小鬼の寿命はそう長くはない。幾世層と続いた小鬼の歴史でも、結局月に辿り着くことは叶わなかった。チャボは月に行くことをとうに諦め、代わりに純粋な憧憬の想いを月の向こうに向けていた。 チャボより十代ほど昔の小鬼が、偶然出会った人間からその種族が月を抜ける手段を手に入れたと聞いていた。たまさかここを通りかかったその人間は、全身で月光を反射させ、ぴかぴかと輝く顔で「もうすぐ私たちは月を抜けられる」と嬉しそうに語っていた。後日、遠く離れた場所から先のとがった筒型のものが何本も月に向かって打ち上げられ、空の抜け道を通り過ぎて行ったのを目撃していた。 受け継いだその記憶から、チャボは人間という種族は月を越えたのだろうと判断していた。もう人間はこの世界に存在しないと、そう思っていたからこそ人間に出会ったときチャボはとてもとても驚いた。 その人間はチャボ古い同族の記憶にある人間と違って、暗い印象を与えた。鈍く月光を反射させるその身体は、どことなくくすんで見えた。ぴかぴかと輝いていた顔にいたっては、どこか錆付いているようにすら見えた。 チャボがどうしてここに、月を抜けたのではなかったのかと疑問をぶつけると、人間は溜息をついて語りだした。 「月を抜けたころ、か。随分と昔の話になるねえ。当時の私たちは喜んだ。半狂乱になったと言ってもいい。当然さ。月を抜けることが私たちこの世界に生きるものの望みなんだからね。何台も何台もロケットを発射させ、月を抜けていくのを見て無邪気に心を躍らせた。自分の番はまだかと、待ちきれなくてうずうずしていた。ただその中でふと誰かが呟いたんだよ。 誰一人として帰ってこないな、って。 多分それは、本当に純粋なただの疑念に過ぎなかったんだ。でもね。その一言は私たちの胸に波紋を投げかけた。私たちは盲信的に月の向こうには楽園があるって信じてきたけれど、それが本当だって証拠はどこにあるんだい。分からないじゃないか。 向こうに何が待っているか、知ってから行きたいっていう人が増えてきた。それから往復用のロケットがつくられたけど、結局誰も戻ってこなかった。涙ながらに、絶対も戻ってくるって家族を残して調査にいった人もいた。どんな障害にでも立ち向かえるような装備を組んで、自信満々に飛んで行った人もいた。でも、戻って来なかったんだ。誰も、誰の一人も。 そうすると、怖くなるじゃあないか。だんだんと変な噂が広まっていった。月を抜けたらそこは楽園だなんて、嘘っぱちなんじゃないか。あの向こうには、もしかしたら想像を絶するような地獄が待っているのかもしれない。月を抜けた人たちは、いまなおあそこで苦しんでいるんだ。そんな、噂だ。 噂はどんどん広がって定着した。最終的にはそれが人間の常識になってしまったのさ。飲み込まれたら最後、二度と抜け出ることのない煉獄に縛りつけられるかもしれない。噂に過ぎなかったそれが強迫観念になって、いまでは私たちは月に行くことはないんだ。本能がどんなにあそこに行きたいって叫んでもね」 人間は語り終えると、金属の身体を動かして歩き去っていった。やはりどこか錆ているのか、足を動かすたびにぎしぎしと鳴る不協和音がもの悲しかった。人間と呼ばれる彼らは、かつては自分の整備に余念がなかったというのに。 人間の語りを聞いても、チャボの月への憧憬は薄れることなく続いた。空の穴たる月から漏れる、青白い光に照らされた平原。そこに奇跡のように生えているひょろりとした木からチャボは世界を見て、月を見ていた。小鬼の一生ではどうあがいたところでたどり着けない場所だからこそ、人間とは違い一途に憧れることができた。 月。 チャボにとってみればやはりそれは生涯美しく、この世界で唯一の救いであり、無二の鑑賞物であり、果てなき想像を広げてくれる楽園への入り口だった。いつか月を抜け、その先にある世界を踏む。チャボは、そんな素晴らしい夢に身をゆだねた。
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昔に書いた習作です。置かせてくださいませ。
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