リライト作品『夜に溶ける』 ( No.8 ) |
- 日時: 2011/01/16 17:55
- 名前: HAL ID:UXr5s45.
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
紅月セイル様の作品『孤高のバイオリニスト』をリライトしたものです。図々しく、キャラや設定等もかなり改変しております。
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歌が、聞こえていた。 か細く、不安げに揺れる声は、まだ年若い少女のものと思われた。彼も知っている曲。優しく、あたたかいはずのメロディーが、どこか切なく、震えながら夜に溶けていく。 肩に掛けていたケースを撫でて、彼はゆっくりと歩き出す。歌声を辿るように。
暮れ方の公園には、ほかにひとけがなかった。切れかけた街灯が、ときおりじりじりと音を立てる。冬の、凛と張り詰める空気が、鋭く肌を刺す。 ひとり歌う、制服姿の少女。そのすぐそばまで近づいたところで、彼はようやく、彼女の頬を伝う涙に気がついた。 歌い終わるのをまって、彼は少女のすぐそばにあったベンチに、かついでいたケースを下ろした。その横に自らも腰掛ける。少女は困惑したように、歌を止めて立ち尽くしている。 やがて少女が涙を拭うのを待って、彼はいった。 「どうして、泣いてるの?」 少女は面食らったように、彼の顔をまじまじと覗き込んだ。 「なにか、変なことを訊いたかな」 「ううん。でも、こんなところで歌ってるなんて、変な子だって思わないの」 「別に。ぼくもよくやる」 肩をすくめて、彼はいう。少女はますます怪訝そうな顔になった。 「歌手の人?」 「いいや。奏者の人」 いって、彼はケースを開いた。そこに収められたバイオリンは、深みのあるつややかな飴色をしている。 「プロのバイオリニスト?」 「演奏でお金をもらったことがあるかっていう意味なら、そうだね。あるよ」 へえ、と相槌を打って、少女は彼のバイオリンを見つめた。 「さて」 彼はバイオリンをケースから取り出して手に持つと、立ち上がった。 「ここで弾くの?」 「君がいやでなければ」 あっさりといって、彼は肩にバイオリンをのせた。弓を当てて、軽く音を確かめる。あざやかな手つきで調弦する、その手際に、少女はいっとき、息をつめて見とれていた。 やがて満足したようにうなずくと、彼は観衆のいない舞台に向かって、迷いなく弾きはじめた。暗くなった公園に、軽やかなメロディが流れ出す。それは、先ほどまで少女が歌っていた曲だった。 音は柔らかく抱きしめるように、夜の公園を包んでいく。この寒さだというのに、どこか近所の家で、窓を開ける音がした。 息をつめて、音に聞きほれていた少女に、彼は手を止めないまま、問いかけるような目をした。歌わないの、と。 少女ははじめ、ためらっていたけれど、やがて促されるように、おずおずと歌いだした。
「急にいなくなったの」 少女はベンチに腰掛けて、きれぎれに語った。 同い年の従兄。すぐ近所に住んでいたため、家族ぐるみの付き合いで、昔からよく一緒に遊んだ。口に出していったことはないけれど、ずっと好きだった。でもそのせいで、ここ何年かは、なんとなくぎくしゃくしてしまって、顔を合わせても、あまり話さなくなっていた…… 少女は足を揺らしながら、自分のつま先を見おろしている。彼はその隣に掛けて、口を挟まずに、バイオリンをしまったケースを撫でている。あるいはときどき指に息を吹きかけて、温めながら、少女の話をじっと聴いている。 「ほんとに突然。どこを捜しても、手がかりがひとつもなくて。おばさんも、すぐ捜索願を出して、ビラとか、張り紙とかもたくさん」 家出にしては、書置きの類もなかったし、その直前に家族の誰かと深刻な諍いになったというようなことも、特になかった。なにかの事件に巻き込まれたのではないかと、打ち消しても打ち消しても、不安ばかりが募って。 「あの曲は?」 「アイツが好きだったから」 少女はいって、自嘲するように、ふっと笑った。 「こんなところで歌ってたって、聴こえるところになんかいないって。頭ではちゃんと、わかってるんだけど。馬鹿みたいだって、あなたも思うでしょ」 彼はその言葉には何も答えず、顎を上げて、星の瞬き始めた空を見上げた。 「明日もここにいる?」 「え。……多分」 驚いたように顔を上げる少女に、彼はにっこりと微笑みかける。そうして何もいわずに、踵を返した。 少女は困惑したように立ち尽くして、彼の背中が遠ざかるのを、ただ見送っている。街灯がじじっと音を立てて、大きくひとつ明滅した。
少女がひとり、歌っている。明るいはずの曲を、どこか悲しげに。空はゆっくりと暮れゆこうとしている。通りかかる人々は、公園で歌う少女には目をとめもせず、暗くなりきる前に家に帰ろうと、家路を急ぐ。 誰もが素通りする中で、たったひとり、少女に近づく人間がいた。少女は歌を中断して、顔を上げる。その眉が、意外そうに上がった。 「また来たの」 彼は黙って微笑むと、ベンチにケースを置いた。やわらかな手つきで、バイオリンを取り出す。昨夜と同じように。 「少し、雲が出てきたね。この寒さだったら、雪が降るかも」 彼はそういいながら、弦を撫でるように、やさしく弓を当てる。 少女は訳を問うのを諦めて、彼の準備が整うのを待った。 仲のよさそうな二人の少年が、明るい笑い声を上げながら、公園を駆け抜けていく。家に帰るのだろう。一度はそのまま通り過ぎようとした少年たちは、彼がバイオリンを持っているのを見とがめて、足を止めた。背の高いほうの少年が、彼の手元をものめずらしげにのぞきこむ。 「それ、ほんもの?」 小柄なほうの子が、目を輝かせて訊いた。そうだよとうなずいて、彼は微笑む。 「すげえ。バイオリンって高いんだろ」 「いまから弾くの?」 彼はうなずいて、軽く音を出してみせた。すげえ、と目を輝かせた少年たちに、彼はいう。 「光栄だけど、急いで帰らないと、すぐ真っ暗になるよ」 いわれた少年たちは、顔を見合わせると、あわてたように駆け出していった。その背中が見えなくなるのを待って、彼は姿勢を正し、昨日の曲を奏ではじめる。 その穏やかな音色に寄り添うように、少女も歌う。ひとりきりで歌っているときよりも、その声はやわらかく、曲のもつ本来のぬくもりを取り戻している。 やがて暮れきった空から、雪がひとひら舞って、彼の肩の上で溶けた。
毎晩、日が暮れるとバイオリンの音が聞こえる。そういう話が広まって、ものめずらしげに様子を見に来る人々がではじめた。一週間が経つ頃には、決まってその時間になると、数人から十数人ほどの人々が、公園に集まるようになっていた。 「いや、バイオリンのことはよくわからんが、たいした腕だ」 感心したように、老人が手を叩く。つられて熱心な拍手が上がった。彼は微笑んで一礼すると、またくりかえし、同じ曲を奏でる。そうして一時間ほどで、きまってバイオリンを片付けて、引き上げる。 「ほかの曲は、弾かないの?」 何日めかに、そう訊いてきた主婦に、彼は微笑んで頷むだけで、わけを説明しようとはしなかった。 冷たい雨のしのつく日になると、さすがに聴衆は絶えた。そういう日にも、公園の一角、雨よけのある東屋で、彼らはふたりだけの演奏会を開く。毎晩、毎晩。
少女と彼が出会って、二か月ほどが経った。 春はもう遠くないというのに、よく冷え込んだ日だった。公園の樹々の上にも、地面にも、細かく敷き詰めたような雪が被っている。 まるではかったかのように、聴衆のいない夜だった。足元の雪が、街灯の白い光を反射して、まるでステージの上のスポットライトのように、二人を照らしている。 いつものように、彼のバイオリンを伴奏に歌っていた少女は、途中ではっとして、顔を上げた。その目が、信じられないものを見るように、丸く見開かれる。 歌声が止まったことに気がついた彼は、ちらりと視線を上げて、彼らの前に立ちすくむ人影を見た。それでも弓を持つ手は止めない。夜を包みこむように、バイオリンの音色は流れ続ける。 「さやか」 名前を呼ばれた少女は、弾かれたように駆け出した。背の高い青年の胸に、迷わず飛び込んでいく。 飛びつかれた青年は、その勢いに戸惑いながら、彼女の細い体を受け止めた。 「どこにいってたの」 涙交じりの声に、青年はあたふたとしている。ハンカチを出そうとポケットをはたいて、入っていなかったのか、いっときやり場のない手をさまよわせた。それから、おずおずと少女の肩に手を回す。 「いや、その……。なんだ、泣くなよ」 「三か月も。みんなに心配かけて」 その言葉を聞いて、青年は驚いたようだった。三か月、と口の中で呟いて、青年は周りを見渡す。そうしてはじめて、雪景色に気づいたようだった。 「自分でも、よくわからないんだ。ずっと、夢かなんか、見てたみたいで」 「馬鹿! だいたいあんたは、昔っからみんなに心配ばっかりかけて……」 あとは、まともな言葉にならなかった。少女がひとしきり嗚咽するあいだ、青年はただおろおろと、その肩を抱いていた。 青年は泣きじゃくる少女をもてあましたまま、顔を上げて、弾き手の姿を見た。彼はその視線には気づかないふりで、ただ演奏を続けている。 「いつのまにか、この近くに来てて。歩いてたら、バイオリンの音がしてさ。誰かこの曲を好きなやつがいるんだなって思ったら、なんか嬉しくなって。そんで、音のするほうに近づいてきたら、あ、お前の声がするって」 「……馬鹿! 遅すぎるよ」 「ごめん」 やがて余韻を残して、曲が終わる。弓がすっと弦を離れると、雪に最後の音が吸い込まれていった。 彼は満足げに頷いて、バイオリンをケースにしまった。青年の胸元に寄り添ったまま、少女が振り返る。 「ありがとう」 とびきりの笑顔で、少女がいう。彼は小さく微笑んで、ただひとこと、よかったねとだけ返した。 少女は頬を上気させて、うなずいた。青年にしがみ付いたままの、その小さな手が、すっと色を失って、透けていく。それを見おろして、青年は驚いたように目を瞠った。 涙の気配の残る眼が、紅潮した頬が、制服の襟が、徐々に、朧になっていく。雪に紛れて、見えなくなっていく。 ――ああ、そうか。納得したように呟くと、青年はついさっきまで従姉を抱きしめていたはずの自分の手を、じっと見つめた。その輪郭もまた、曖昧になって、夜に溶けていく。 ふたりの姿が完全に見えなくなるまで見守ると、残された彼は、満足げな微笑を浮かべた。バイオリンをしまって、空を見上げる。細かな雪はいまもまだ降り続いているけれど、寒いのもあといっときのことだろう。暦ではもう春だ。 彼はベンチに腰掛けて、ひとしきり、バイオリンをいれたケースを撫でる。このところ毎晩、きまってそうしていたように。やがて腰を上げると、もう振り返らずに、夜の公園をあとにした。
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原稿用紙12枚、約7.8kb。お眼汚し失礼いたしました。
原作のご提供は、本日24時までとなっております。リライトに挑戦される方は無期限ですので、ぜひふるってご参加くださいませ。
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