こげ茶色のニュース ( No.6 ) |
- 日時: 2012/05/21 00:01
- 名前: ラトリー ID:4Lh54E.A
「ただいま。あー今日も暑いな、おい麦茶くれ麦茶」 地方公務員の夫は、いつも午後六時を過ぎたころに帰ってきて、飲み物を要求する。そして居間のテレビ前に陣取り、夕食ができあがるまで立ち上がろうともしない。 出世コースから完全に外れているからか、残業をすることもめったにない。毎月の給料明細を確認しているから間違いない。だから手取り額も少なく、生活費のやりくりにはいつも四苦八苦している。お互い四十を過ぎて家のローンが三十年以上も残っているのに、夫は気にとめるそぶりさえ見せない。会話のはしばしに乗せてみても、聞いているのかいないのか、それさえわからない状態が続いている。 「おい、いつまで待たせるんだ」 台所へ振り返りもせず、夫はテレビに映し出された野球の試合を食い入るように見つめている。衛星放送を契約したのは、ほとんどこれだけが目的だと言わんばかりだ。 いらだたしげな声を聞くのにも慣れたが、ずっと聞いていたいものでもない。テーブルの上に、大きな音を立てて麦茶入りガラスコップを置き、さっさと台所へ戻る。 「古井しっかり打てよ、こら。何やってんだよゲッツーかよ、つまんねえなあ……おい、この麦茶冷えてないぞ。キンキンに冷やしとけっていつも言ってるだろが」 夫はお決まりの台詞を繰り返す。だから冷蔵庫の裏に入れるな、奥に入れとけっていつも言ってるのに。お前はいつになったら覚えるんだ、等々。 とんでもない。夫しか飲まない麦茶をどうして奥に入れる必要がある? この十数年、夫が好きなものはもれなく嫌いになるような身体になってきている。野球だってそうだ。せっかく関東の人と結婚したのに、どうやらこの地域ではもれなく一つの球団にのめりこんでそればかりに夢中になる呪いでもかかっているらしい。私は免れたらしいが。 「石田おい何だよ、球走ってないぞ。今日も炎上か、ふざけんなよ」 「今日はカレーライスだから」 「はあ? またカレーかよ、安い肉使ってんじゃないだろうな」 コンロの上で煮ているこげ茶色の物体を、じっと見つめる。子供の頃は大好きだったのに、最近はこれさえ不愉快に思えて仕方がない。お前のカレーはトイレの匂いがするんだ、なんてことを夫に言われれば、たとえ酔った勢いの台詞でも嫌になる。 見ていられなくなり、居間へ向かった。テレビに向かったままの夫に告げる。 「ねえ、あなた」 「何だよ、今いいところなんだぞ」 「たまにはニュースでも見たらどうなの。この時間は、どこの局もニュースをやってるのよ。野球やバラエティもいいけど、もっと世の中に関心をもつとか、その――」 「わかってないな、お前は。俺はニュースは見たくないんだ。いいニュースなんてのはまずやってない。悪いニュースばっかりだ。そんなものを見てるから、世の中の連中は暗くてつまらない奴らばかりになっちまうんだ。お前だって、その予備軍なんだからな」 「それはあなたが勝手に決めつけてるだけでしょう」 「ほう、そうか。なら賭けるか?」 「賭けるって、どういう意味よ」 夫の得意げな言い方に、つい普段よりもヒートアップしてしまう。腹を立てたって仕方ないのに、語気を荒げてしまう。こんな男と同じレベルに落ちたくないのに――だが、こんな男でも私の夫なのだ。こんな男と私は結婚したのだ。 「お前がありがたがってるニュース様とやらで賭けをすんだよ。これから六時半までニュースを見る。いいニュースが一つでもあればお前の勝ちだ。あの子と別れてやるよ」 「あの子って……この前携帯の裏側に貼ってあった、あれ?」 「そうだよ。勝手に見やがって、むかついたけどよ。あいつと手を切ることにする」 のどの奥に、何かつまったような錯覚をおぼえる。三ヶ月前、夫が不倫していたと知った時は、こんな男についていく女がいるのか、と唇をかんだ。仲良くプリクラに写っていた夫は、とても若い女の子が好きになるような男に見えなかった。だが、私だって同じだ。それ以上考えたら、私のほうがみじめになる。そう思って考えるのをやめた。 その相手と、別れる? 正気だろうか。近づくと、夫の口元からアルコールの匂いがした。まさか職場で酒でも飲んでいるのか。それとも、仕事は午前で切り上げて、「あの子」とよろしくやってきたのか。 「その代わり、悪いニュースしかなかったらお前の負け。毎月つまらない小説を買うのはやめてもらう。金の無駄だろ、図書館で借りろよ」 「そんな……」 「陰気くさい推理小説と暗い話題大好きなニュースを見てるおかげで、お前もすっかり引きこもりのニート主婦じゃねえか。そんなやつが家にいたら、俺だって愛人の一人や二人、作りたくなるに決まってるだろ。それくらいわかれよ」 カチン、と来た。酔っ払いの戯言だとわかっていても、もう我慢できない。だいたい賭けとやらは私に一方的に有利じゃないか。いいニュースだってたくさんあるに決まってる。これから六時半までの間、一つでもあれば私の勝ちなんだから。 「わかった、やりましょう。さっさとチャンネルを変えて」 「お前も単純だな。えっと、地上波ならどこでもやってるのか?」 夫がリモコンを操ると、画面にニュース番組が映った。暗い顔をしたキャスターがうつむいている。嫌な予感がした。 『ガフアニスタンの自爆テロで十五人が死亡した事件で、警察当局は犯人とみられる四十代の現地人男性を指名手配しました――』 「ほら、言ったとおりだ」 『ジリア政府と反政府勢力との停戦協定は暗礁に乗り上げ、今日も政府軍の砲撃により民間人含む三十人以上の犠牲者が出ています――』 「ははは、死にまくってるぞこれ」 『大西洋上を航海中だったトワイライト号で火災が発生した模様です。乗員乗客の安否は確認できていません。アリタイ政府の対応が後手に回っているとの情報もあり――』 「ニュースだなあ、おい。これがニュースだよ。胸糞悪い話ばかり流しやがって」 『ペトナンで行なわれている工場労働者の大規模ストは二週間目に突入し、わが国の自動車産業にも深刻な影響を及ぼすとの見方が広がっています――』 「他人事みたいに語りやがって。ま、俺やお前にとっても他人事だからな。知ったところで何にもできないのさ」 『政治家の汚職事件は今月だけで三件目にのぼり、法改正の必要が叫ばれています――』 「どうした、おい。何とか言えよ。もう六時半まで五分もないぞ」 『一か月前から失踪していた中村星羅ちゃん(八歳)について、地元警察は今朝、白骨した星羅ちゃんの遺体を発見したと発表しました』 増税をめぐって解説委員が毒にも薬にもならないことを述べていた。マンションの一室で絞殺体が発見されたと速報があった。失業率が六ヶ月連続で増え、竜巻が起こり、火災で老夫婦が逃げ遅れ、居眠り運転の自動車が小学生の登校列に突っ込み、週末から来週月曜にかけて大雨になる見込みで、せっかくの三連休も家で過ごすことになりそうで―― 「これでお前のつまらない趣味も終わりだな。いや、終わりじゃないか。おとなしく図書館に行って、借りて読んでくればいいんだ。家の中本棚だらけにしやがって、うっとうしいんだよ。地震が来たらどうするんだ。その時もおとなしくニュースを見てるつもりか。あー地震が起こっちゃった、どうしよう教えてください、ってか? こいつは面白い」 夫の声が頭の中で反響していた。貧血にでもなったのか、目の前が妙に暗い。耳が遠くなり、キャスターの平板な喋りがお経のように聞こえてくる。私の葬式が行なわれているような気がしてきて、立っていられない。蚊の鳴くような声でしか反論できない。 「まだ、終わりじゃないでしょ。あと、一つだけ……」 『ここで速報が入ってきました。大正製菓が緊急記者会見を開いた模様です。製造した一部のチョコレートに危険な化学物質が含まれているおそれがあり、決して口にしてはならない、最悪の場合死に至る、とのことです。チョコレートの種類は『R**』、製造番号は以下の通りです――』 画面が記者会見の様子に変わった。夫はテレビを食い入るように見つめている。野球を見ていた時とは比べものにならないくらい楽しそうな顔で、死人が出るかもしれない食品会社の会見を見守っている。 逃げるように台所へ戻った。コンロではカレーがぐつぐつと音を立てて煮えている。そんな当たり前のことさえ、強く意識しないと理解できない。どうして、どうして、どうして。悪いニュースばかりだったことより、こんなことで賭けをしようとした自分が許せない。夫だけじゃない、自分も最悪だ。こんな男と一つ屋根の下で暮らしている自分―― ふと、食品棚のほうへ目が向いた。 ふらつきながら、棚をのぞきこむ。お菓子の買い置きに、こげちゃ色のチョコレートが見えた。 頭の中に、テレビで発表された製造番号が写真のように記憶されている。ぴたり一致しているのはすぐにわかった。カレーに隠し味として、チョコレートを入れたことが何度かあったのを思い出した。とってもまろやかにおいしくなる、魔法の素材…… 夫がテレビを見ながら、何かつまらないことを言っている。 「おい、こいつはえらいことになったな。どれくらいの人間が死ぬんだろうな」
本当に、どんな人が巻き込まれるかわかったものではない。 悪いニュースは、意外とすぐ近くにあるかもしれない。
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