Re: 真夏のスマイリーホラーイベント! ( No.6 ) |
- 日時: 2011/08/16 02:42
- 名前: 弥田 ID:IXt.J8AU
「どうぞ笑ってよ」 と言われ、ぎこちなく動く顔筋はいかんともしがたい、引きつった笑みはあまりに不格好で、鏡で見てみるとどこか背筋の凍る思いがする。見慣れた自分ですらこうなのだから、初対面の人はそれはもう大変なことになって、あからさまに目をそらす、なんていうのはいい方で、胆の小さい人になると、その場から逃げ出したり、腰を抜かしたり、あげくの果てには胃の中身を全部ぶちまけたりする。なにがそんなに悪いのか、自分ではまったく分からないのだけど、とにかく笑うのは駄目だ。まるで人間のそれではなく、キチガイの書いた長い々い数式にも似た、ある種慄然とした狂気の隆起、そんなものを思わせるから駄目だ。あまりうまく例えられないのだけれど、生理的になにか来るものがある、カニバリズムとかゴキブリだとかに近い、そういう笑顔だから、駄目だ。 元の見た目は悪くない。すくなくとも周囲の人間はそう思っている。だからこうやってモデルの仕事なんかも廻ってくるわけだし、笑顔、以外の注文はたいていこなせるくらいには、慣れた。八歳からはじめた仕事も、もう足かけ六年になるわけで、ベテラン、というほどではないけれど、後輩なんかは大勢できた。古橋みぃ子もその一人で、黒い長い髪を腰まであるポニーテールにまとめた彼女は、私の事務所でもトップクラスに可愛い。媚びるみたいな笑顔がよくて、女の私でもぞくぞくする。生まれるならこういう子がよかった、と思う。彼女と一緒にいるのは楽しい。だからよく近所の喫茶店に連れてってあげて、一緒に甘いコーヒーを飲んだりする。角砂糖を二個も三個も放り込んで、大人は顔をしかめるけれど、私たちにはそれがちょうどいい。今日はふたり、アイスカフェラテを頼んだ。みぃ子は牛乳が苦手なのだけれど、ラテは好きだ。ご機嫌そうな顔で、あの可愛い笑みを振りまいている。そうして、最近流行の、たわいもない都市伝説を嬉しそうに話すのだ。 「ねえねえなっちゃん、イガラシマスダオ、って知ってる?」 「いがらしますだお。知らない、なにそれ」 「うーん、あたしも詳しくは知らないんだけど、頭の大きい変質者でね、一〇〇メートルを六秒で走るの。それでね、女の子をみつけたらものすごい勢いで駆け寄ってくるんだって」 「ああ、それは私のお父さんだよ」 「え、ほんとっ?」 と、後ずさりするわざとらしい仕草に、思わず苦笑しかけて、止めた。 「嘘だよ」 「……もうっ、なっちゃんは真顔で嘘つくから怖いよ」 「だって、泣きながら嘘つかれても嫌でしょう?」 「なら笑ってついてよ」 「嫌よ」 「えー」 その日の支払いは私がしてあげた。ふたりで六八〇円。髙いな、と思う。思いながらも払う。全部小銭で払う。そうしてお店を出る。撮影帰りだったから、外はもう夕暮れで、けぶる黄昏が、みぃ子の手のひらに渦を巻いていた。触ったら弾力がありそうなほど、濃密な夕。その手のひらをとって、繋いで、ふたり、歩いて帰っていた。みぃ子は電車に乗って帰る。だから駅まで送ってあげる。その途中、ふいに前から人影だ。なにか異様な人影だ。街全体が朱に暗くて、よく見えないのだけれど、人のようで、人でなくて、空恐ろしいくらいのスピードで走っている。自転車に乗っている、のかと思った。違う。みぃ子がぽつりと呟く。 「イガラシマスダオ、だよ」 なるほど、そうか、あれが、あいつが。 みぃ子は小さな身体をぶるぶる震わせて、わざとらしいくらいに怖がっている。涙目も可愛い子だ。私は、あまりなんともない。イガラシマスダオから受ける感触は、私の笑顔とよく似ていた、から。ひい、ひい、と小さな呼吸が横から聞こえる。可愛いな、と思う。頭を撫でてやった。 ――イガラシマスダオは笑っていた。あはは、あは、と笑っていた。ずいぶんと楽しそうで、私も笑った。あはは、あは、と笑った。ひい、と呼吸は荒くなった。 イガラシマスダオが通り抜けるまで、ずっとそうしていた。通り抜けた後はなにもなくて、とっても静かな夕暮れだった。私はまだまだ笑っていて、みぃ子は、みぃ子はもう、うずくまったまま、笑っていた。あはは、あは、と笑っていた。私そっくりの、可愛い、おぞましい、形容しがたい笑顔だった。彼女の笑みが失われたのは、悲しくもあったけれど、また一方で嬉しくもあって、よりいっそう高らかに、私は笑った。
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