「まだ若い君へ」 原作:HAL様「あなたがキライ」 ( No.57 ) |
- 日時: 2011/03/27 17:10
- 名前: ねじ ID:lZjYXu72
年を取る、ということは、寝た女に対して、父親めいた気持を抱くようになることなのだろうか。 ミネラルウォーターのペットボトルを半分ほど開け、シーツからはみ出した丸い肩を眺める。その肌の滑らかさと血色のよさは、半ば非現実的で、いまだに僅かにうろたえてしまう。君がこの部屋にいる、ということ。自分の前に、その若くて柔らかな美しい体を、あまりにも無防備に投げ出している、ということ。 煙草を吸いたくなるが、水をもう一口飲むことでどうにか誤魔化す。君には、自分は禁煙をしているということになっている。といっても、吸う量は僅かにも減ってはいないので、おそらく気付かれているのだろう。煙草というのは、皮膚にも、血にもしみこむものだから、深く口付けるような関係なら、気付かれないわけがない。けれど、君はニコチンがしみこんだキスにも、私の下手な嘘にも、何も言わない。いっそ、言ってくれればいいと思うのだ。言ってくれれば、私は今、チェストの中のセブンスターに手を伸ばすことも出来るし、何より、君のために煙草をやめることができない、という事実に、後ろめたさを覚えることも、きっとなくなる。 君はひどく無邪気な様子で、枕に顔を埋めている。幸福そのもの、というその姿は、あまりにも混じりけがなく純粋で、神々しいほどだ。何かたまらないような心地で、その小さな肩へと、そっと手を置く。 「そろそろ起きなよ」 君は口の中で言葉にならない声を噛み締め、シーツにしっかりとしがみつく。子供じみたその仕草に、どうしてこんなに困惑してしまうのか、私にもわからない。君はこんなところにいるべきじゃないのだ、と、その両肩をしっかり掴んで、諄々と言い聞かせたい衝動に駆られるが、しっかり肉体関係を持っている私がそんなことを言うのは滑稽を通り越して卑怯でしかないので、無難な、いつもの言葉を口にする。 「明日、仕事なんだろ」 君は億劫そうな生返事をして、でも、不承不承ながらも、瞼を開く。 「送るし。車の中で寝てなよ」 優しい言葉をかけるのは、容易だ。君は私を見ずに、うん、と曖昧に頷いて、シーツからのろのろと抜け出した。その瞬間に、私は決して慣れることができない。どうしてだか、理不尽な気がするのだ。君がここから出て行く、ということに。理屈に合わないことだが、それも、きっと仕方のないことなのだろう。君がここにいることに対する違和感も、君がここを出て行くことに対する違和感も、どちらが正しいということはない。ただ、そこにあるだけだ。 正しいこと、というのがあるのだ、とかつてなら思っていた。誰かを傷つけるにしろ面倒ごとを背負い込むことになるにしろ、全てが自然で無理がない状態にかちりと嵌り、それから全てが正しくスムーズに進む、あるべき姿、というのがというのが。 いかにも不服そうに、服に体を押し込む君は、それをまだ、信じているのかもしれない。 小さなオレンジの明かりを反射して、君の肌が、ぼう、と暖かく、浮かんでいる。
帰りの車の中で、君はほとんど口を聞かない。本当は、言いたいことがあるのだと、拗ねた子供のように口を結んで。その閉ざした唇で、こちらをじっと見つめるその瞳で、百の言葉よりももっとこちらに多くを訴えかけても、けれど、言わない。だから私も、何も言わない。 本当は私にも、言いたいことはいくつもある。そんな風に傷つく必要など何もないのだ、とか、君のことは、私なりに大切に思っている、とか、こんな男に、そんなふうに自分を投げ与えるのはやめなさい、とか。 けれど、そのどれも君がほしい言葉ではないことは、わかっている。だから、言わない。 君がほしいものは、もっと違うものなのだろう。たとえば来週の約束とか、そういう些細なものなのだろう。そして私には、それを言うことはできない。言うこと自体は容易で、言ってしまえ、と揺れることもあるが、でも、できない。 それは、青春時代まるごとともに過ごし、自分の皮膚のように近く感じていたにも関わらず、結婚直前で私の弟と駆け落ちしたかつての恋人のこととも、この年になっていまだ不安定と背中合わせの多忙から脱せられない仕事のこととも、じりじりと年老いていく両親のこととも、ある意味ではまったく関係のないことだが、また、まったく同じ重さで、全てに関係のあることでも、あった。 問題はただ、私がそれら全てを潜り抜けた三十八歳の男であることと、そんな男から見たらまだ幼いほど若い君の、息苦しいほどに思いつめたまなざしだった。 顔の半分に、じりじりと皮膚を焦がすような視線を感じながら、私は車を走らせる。ハンドルを繰る指に、眼鏡の奥で細めた目尻に、君のまなざしが触れ、熱を持つ。夜の道を滑る小さな車の中の酸素が、徐々に薄くなっていくような、居心地の悪さ。 この居心地の悪さを、もうしばらくは味わいたいと考えるのは、おかしいだろうか。 だが、車はいつもと同じだけの時間をかけて、見慣れた、だがそれ以上のものにする気はない町並みへと辿り着く。 ゆっくりと、滑らかに、車を止める。君は私の横顔から視線を滑らせて、ほんの一秒、瞼を伏せる。そして、その幼いふくらみを持つ唇に、微笑みに似た表情を浮かべる。 夜に不似合いに無骨な音で、君はドアを開け、飛び跳ねるように車から降りる。少年のようなつたない乱暴さでドアを閉め、私に、微笑みかける。 「送ってくれて、ありがと」 私は君よりは少しばかり自然な笑みを浮かべ、頷く。君は小さく息を吸い込んで、私にそっと、大切なものを差し出すように、尋ねてくる。 「来週は、会える?」 私はそれに、気付かない振りをする。 「わからない。電話する」 君の瞼が、ぴくり、と痙攣する。瞬きには少し長く目を閉じ、そして目を開く。 「待ってる」 私は小さく頷いて、窓を上げる。君は静かに、自分の家へと入り、ドアを閉ざす。私はエンジンをかけ、自分の家へと帰っていく。煙草の匂いのしみついた、居心地のいい、私の家へと。
※ せっかく直接お願いして書くのだから!と張り切っていたのですが、どうにも上手く行きませんでした…申し訳ないです。
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