HAL様「荒野を歩く」のリライト ( No.55 ) |
- 日時: 2011/02/28 22:50
- 名前: ねじ ID:G2QRS7lg
夢の中で、彼女はいつも、こちらを見ている。あの大きな瞳を見開いて、小さな唇を引き結び、ただ、こちらを見ている。 何かを、言わなくてはならない、と思う。何かを。あの時には伝えられなかった言葉を。彼女に捧げるべき言葉を。何か。 だが、言葉は喉に重たく蟠り、俺の唇は動かない。彼女は、じっとこちらを見つめている。俺を。あの、黒い、強い瞳で。俺の目を。じっと。あのときのように。何か。言わなくてはいけないのに。何か、とても大切なことを。 そして、気付く。 彼女は、もう、いないのだ、と。俺だけが、生きているのだ、と。 そして、俺は自分の叫びで、目を覚ます。
ここは、どこだ。 低く唸る風に、微かに異音が混じっている。どうやら、鳥の鳴き声のようだ。何かを引き裂くような、あるいはもっと直接的に、断末魔のような、甲高く耳障りな、鳴き声。 昼には赤黒く見える大地には、断末魔めいた鳴き声のほか、生命を感じさせるものはない。砂というより小石まじりの風が、ただ吹き荒れるだけだ。背中で、がちり、と重たくガラスが鳴った。風に足を取られながら、どうにか進む。街道を外れてから、五時間。命あるものには、一度も出会うことはなかった。行くべき方角に向かっているという確信もないまま、足を運ぶ。月が、不吉なほどの白い明るさで、夜空を飾っている。 ここは、どこだ。 口の中に溜まった砂が不快で、吐き出そうとした唾を、しかし飲み込む。ざりざりとした唾液が、喉の半端な部分に引っかかる。 ここは、どこだ。 頭の中にはただ、その埒もない疑問しかない。ここは、どこだ。ここは、どこだ。問いは、脳裏に響く足音のように、一歩進むごとに頭に浮かび、消えていく。ここは、どこだ。言葉から、意味が剥がれ落ちるまで、問い続ける。ここは、どこだ。 砂を踏む音。耳元で布がはためく音。遠い鳥の悲鳴。 ここは、どこだ。 月と星から、方角を推察する。進路からはおそらくそう外れてはいないことを、消極的に確認し、のろのろと足を運ぶ。 ここは、どこだ。 不意に、その言葉が、頭蓋の内側に突き刺さる。ここは。ここは。 月は、雲ひとつない空に冴え冴えと光り、地面を照らす。黒く沈む大地に浮かぶように、白く丸いものが、そこかしこに散乱している。月明かりを吸い込むように、白く、丸く、輝いている。人の、骨が、輝いて、いる。 ここは。 問いを打ち消すように、足を運ぶ。砂が入り、目が痛む。
五年も経てば、全てはただの歴史になる。あの破壊も、あの恐慌も、あの混乱も、戦場に行かなかった人間には、紙の上の出来事、そうでなければせいぜい苦渋に満ちてはいるが過ぎ去ってしまった思い出でしかないのだ、ということを、この頃思い知らされる。今でも悪夢を見る、ということ、自分の中で、決して戦は終わってはいないのだ、ということを、その人々にどう説明すればいいのか、わからない。というよりも、それはそもそも不可能なことなのだろう。あの場所にいなかった人間が、あんなことを信じられるとは、思えない。自分があの場所に、それまでの二十一年で育んでいた人間としての全てを踏みつけにされ、置き去りにしてきた、ということ。そしてそれが、もう決して取り返しがつかない、ということ。それを、一体誰にわかってもらえるというのだろう。 そしてたとえば、そう、たとえば、今でも彼女の夢を見る、ということを、一体誰に言えるだろう。こちらをにらむように見据えるあの昏い焔のような黒い瞳を、日と風に強く洗われたような形のいい額を、高いが細い清潔な鼻を、すっきりと滑らかな頬を、そして、少年のようなその顔の中で、花のように鮮やかにつややかだった、あの唇を。そこから覗く、青いように白い歯を。軍服に包まれ、いつでもまっすぐ伸びていた背を、そして、細い、頼りない腰を。子供のように小さな肩を。なんの飾り気もなく、ただそこにいただけで、しかしどうしようもなく幼く美しかった、彼女のことを。 初めて見たとき、とてもこの世のものとは思えなかった。白い、裾の長い衣は、曇り空の下でもそれ自体が輝いているかのように豪奢に煌き、頭につけた薄いベールはかすかな風にも優雅に翻った。その下で、その美しい少女は、静かに瞼を伏せていた。何か、花の香りが、埃と汗と、それから血の匂いを洗うように、柔らかに漂っていた。戦場に突如降り立ったその少女を、兵士たちは呆然と、半ば恍惚と、迎えた。 その天女のような少女は、実際のところ、自分では及びもつかないような戦歴を持つ軍人で、歴戦の猛者とでも呼ぶべき存在だった。夢のような登場のすぐ後、ドレスではなく軍服に身を包み、胸元にはいくつもの勲章を燦然と輝かせ、朗々と響く低い声で、彼女はこう宣言した。 「私は君たちを守るためにここに来た!」 花の香りが、まだ漂っていた。あれは薔薇の香りだと、誰かが言った。 彼女は戦乙女だった。もうほとんど伝承の中にしかいないような、稀な性質の少女。清らかな身をもち、祈りを捧げ、戦場を守る、乙女。あの少ない人員で、あれほどの期間持ちこたえられたのは、ほとんどが彼女の力のおかげだった。尊厳も感受性も血と痛みと飢えに塗れたようなその戦場で、彼女だけは、ごく自然に、ただ生きていた。生きて、祈っていた。 実際、彼女はこんな前線に来るような人間ではないのだ、と兵士の間では囁かれていた。彼女の父親は政治家で、本来ならもっと平和な場所で、その平和をもっと堅固にするために祈っているような人間なのだ、と。 「ぴらぴらのドレスを着て、柔らかいベッドで眠って、毎日薔薇の匂いの水で顔を洗うような生活っていうのも、私は嫌いじゃないけどね」 彼女は自分のような二等兵が相手でも、対応に分け隔てがなかった。 「では、どうしてそうしなかったんですか」 疑問をぶつけると、彼女は眉を跳ね上げて、おかしそうに笑った。からかうような洒脱さの中で、目だけが無骨なまでにまっすぐに、こちらを見据えていた。彼女はいつもそうだった。その目に見据えられているときだけは、そこが戦場であることを、すぐそばに死が迫っていることを、忘れた。彼女と向き合っている瞬間だけは、俺は、自分が人間であることを思い出した。 「誰も、そりゃ前線にいけとは言わなかったよ。でも、本当のことを考えたら、私は行くべきだ。それが正しいことだろう。だから、来たんだ。それだけだよ」 思考をただ生き延びることと殺すことだけに使うことに慣れた頭では、彼女の言葉が、よく理解できなかった。 「正しいこと?」 彼女は頷いた。 「そうだよ。正しいこと」 そして、俺の中の奥の奥を見極めようとするかのように、つるつるした広い眉間に皺を寄せ、じっと此方を見つめるのだ。 「人はいつだって、正しいことを求めるものだよ。違うかい?」 俺は答えなかった。彼女の黒檀ほどに黒い大きな瞳が、自分の中の熱で、俺の中にいる、脅えも倦怠も知らない、誰にも傷つけられない柔らかな部分に、直接訴えかけていた。正しいこと。正しく生きる、ということ。 ただ突っ立っている俺に、彼女は目元をふっと緩めた。日に焼けて骨ばった、しかしとても小さな手で、ぽん、と軽く、俺の肩を一つ叩き、自分の持ち場に戻っていった。 肩に、柔らかな、けれど確かな感触を持ったまま、彼女の背中を見た。自信に満ちたような、すがすがしくも勇ましい、大きな歩幅と伸びた背筋。まぶしいような心地で、目を細めても、彼女の輪郭だけが、どこかくっきりと浮き立っていた。
歩みを進めるにつれ、骨は数を増していく。軍服までも身に纏い、そのまま柩に横たえたいような一揃いもあれば、獣に食い荒らされたかのように、折れ、砕けているものもあれば、飴細工のように溶け、捻じ曲がっているものもある。自然の手によるものとは思えないその造形。魔術でしかなしえない形での、殺戮。 魔術。それらの前で、我々がなんと無力だったことだろう。加護を与えるはずの戦乙女を擁していながら、敵側に強力な魔術師が参戦したという情報がもたらされた後、戦況は徐々に、だが確実に不利になり、負傷者は陣営に溢れ、増えすぎた死者にはやがて弔いの言葉さえかけられなくなった。殺すため、生き残るため以外の何一つ考えず、話さなくなった兵士たちの間でも、状況は火が灯された蝋も同然だということは、公然とした事実だった。 敗戦の、そして死の気配。それは陰鬱な雰囲気という漠然としたものなどではなく、現実的な痛みとして、我々を苛んだ。空気は紙やすりのように皮膚を、神経を削り、生きていくその一秒一秒が、すでに戦いだった。 人は、脆くもあるが、強靭でもある。生きたい、とは誰もすでに考えてはいなかっただろう。だが、生きなくては、という、その前提は、ほとんど揺らぐことはなかった。我々は、生にしがみついた。生は既にそれ自体で拷問だったが、手放すという選択肢はなかった。良識や理性や、そういったまっとうな生活で身にまとっているものを何もかも剥ぎ取られ、残っていたのはぎらぎらと燃え滾る生命の源泉、生きなくてはという、自己ではなく生命そのものの要求だけだった。 今となってみると、空恐ろしくなる。自分の中に息づく、生命、という得たいの知れないものの持つ、力。自分自身の存在には、社会的にも、あるいは自分自身に対してさえも、いかほどの価値もなくとも、ただその存続を、何に変えても求める力。 足を運ぶ。夜気に、体が冷えてきた。目的地までは、おそらくそう遠くはない。足は疲労に痺れ、荷を負うための紐が肩に食い込んで痛む。 もしも、今、死ねと言われたら、抗わないだろう。 そう考える。それはとても簡単で、安らかなことのように思えた。生きている、ということ。あの戦を、生き延びた、ということ。それにどれだけの意味があるのだろう? 帰還したとき、母と妹は生きていて、顔を会わせる前から、泣いていた。まだ幼い妹の柔らかな頬を首筋に感じ、暖かな涙が胸に注がれたとき、気付いた。自分の中にはもう、それを喜ぶようなものは残っていないのだ、と。お前の涙を捧げられるべき兄は、もうどこにもいないのだ、と。 何かに足を取られ、躓く。舌打ちをして足元を見ると、頭蓋骨が、虚ろな眼窩をこちらへと向けていた。つま先で脇へよけようとして、躊躇する。 これが、彼女ではないと誰に言い切れるだろう。 腹の中に、重たい空虚が溢れ、すっぱいものが舌の奥までせりあがる。視線を無理に引き剥がし、進む。もうすぐだ。もうすぐ、そこへ着く。 あのときのことを、思い出す。記憶が薄れそうになるのを恐れるように、瘡蓋につめを立てていつも新鮮な痛みと血をそこにもたらすために、何度でも。 限界だった。死はそこまで来ていて、誰にもそれは避けられないのだと分っていた。恐怖と苛立ちは限界まで膨れ上がり、ほんの少しの棘があれば、爆発してしまうことを、誰もが感じていた。 きっかけは、なんだったのだろう。兵士たちの、食料だか何かを巡る、ほんのちょっとした諍いだった。五、六人の、暴力と罵倒が入り混じる、ほんのちょっとした、しばらくすれば疲労の中に埋まってしまうような。 あの時、彼女がたまたま、そこを通りかからなかったら。彼女が、彼女一流のあの正義感から口を出さなかったら。そう言うことも、できるだろう。だが、きっかけなど、なんでもよかったのだ。あのとき彼女がそうしなかったとしても、いずれきっと、他の何かが棘となり、同じことが起こったのだろう。 「そんなことをしている場合じゃないだろう! 君たち!」 思い出す。あの荒んだ場にはまるで似つかわしくない朗々と響く声は、そのとき、俺の耳にさえ耳障りだった。殴られ倒れていた兵士は立ち上がり、鼻血に塗れた顔で、怒鳴った。 「うるせえこのクソアマ!」 それが呼び水となったかのように、その場にいた、諍いとは何の関係もない兵士たちも、口々に彼女を罵倒した。彼女は、その場に呆然としたように立ち尽くした。小さく口を開き、何の屈託も困難も知らない、ただの少女のように。 もはや一つ一つの言葉など聞き取れない、耳を聾する怒号の中、俺は自分の胸のうちに、何か途方もなく暗く、醜いものがあることを自覚していた。そして、それは頬を張るようなこの罵声に共鳴し、俺の喉から今まさに、飛び出したがっていた。彼女はただ、立っていた。困惑したように眉を寄せ、心細い様子で。 そんな、普通の少女のような姿で。 その瞬間、俺の中にあった何かが、焼ききれた。俺は、喉が切れるほどの勢いで、叫んだ。 「俺たちは、どうせ死ぬんだ! このまま、見殺しにされるためだけにここにいるんだ! あんたが何を祈ったって、どのみち死んじまうんだ! こんな場所のどこに正しいことなんかあるんだ! どうせ、どうせ死ぬのに!」 叫びは血の味がした。彼女ははっとしたように、俺を見た。怒号は納まる気配など見せず、鼓膜を殴りつけていた。俺の掠れた叫びは、おそらく波に飲まれたひとすじの水のように、彼女の耳に意味のある言葉としては届かなかっただろう。けれど、彼女は確かに俺を見た。その黒い、よく光る目で。かちり、と視線が噛み合った、その一瞬。俺は祈った。 何を祈ったかは覚えていない。ただ、祈った。俺の中の善きものも悪きものも強いものも弱いものも全てで、その一瞬、彼女の瞳に、祈った。 どうか。どうか。お願いだ。どうか、あなたが。 彼女は、瞼を伏せて、俺から目を逸らした。 わけのわからない怒りに襲われて、俺は彼女に飛び掛り、その顔を、殴りつけた。あっけなく彼女は床に倒れた。手のあまりの手ごたえのなさに、泣きたいような心地になり、それを振り払うように、軍靴で彼女の肩を、蹴りつけた。誰かが、俺を羽交い絞めにした。そして、痛みに低く呻く彼女の、上着を引き剥がした。彼女の肩は白く白く、悲しいほどに小さかった。怒号はなり続けていた。 そして誰かが、彼女の肌へと、手を伸ばした。 彼女は僅かに目を開き、此方を見た。そして、目を、閉じた。 その後のことにも、彼女は抵抗を、しなかった。
月を背負うその岩を、仰ぎ見る。これほど小さかっただろうか。かつて戦場を睥睨する竜の頭骨、あたかも死と力の象徴だったそれは、今は、ただの少しばかり大きな岩でしかない。地面を埋め尽くすかのような人骨が、僅かに戦火の激しさを、偲ばせるだけだ。 とても、本当のこととは思えない。何もかもが、間違っている。 戦乙女の守りを自らの手で剥ぎ取った後は、あっという間だった。禍々しく輝く焔が目を焼き、気がつくと、病室の床に横たわっていた。あの攻撃の後、俺たちの知らぬ場で全ての決着はつき、戦は終わった。あそこで生き残ったのは俺と、ほんの僅かばかりの人間だけだった。その中に、彼女の名はなかった。 背嚢を下ろし、壜を取り出す。硬く閉ざされたガラスの中、月明かりを反射し、薄桃色の液体が、緩やかに煌いた。 寒さに痺れた指先で、扱ったこともない繊細な栓を、どうにか開く。きゅぽ、と軽い音を立てて、壜は開いた。 風が、薔薇の香りを、振りまいた。 唇を噛み締め、赤黒い大地へと、その香水を、注いだ。馥郁たる、というには鼻腔を刺激しすぎるその香りは、かつて、彼女がつけていたものだ。あの日。白いドレスに身を包んだ彼女が。「君たちを守るためにここに来た!」といった彼女が。黒い瞳に、何か強い、尊いものを光のように抱いて輝かせていた、彼女が。 もう、どこにもいない、彼女が。 脚が萎え、腰を下ろす。汗に濡れた皮膚が風に冷えて粟立つ。肺が、軋み、痛む。自分は、生きていた。彼女はもう、どこにもいないのに。正しいこと。彼女はそれだけを信じて、ここへやってきた。そして、俺と、ほんのわずかばかりの人間は生き残り、彼女は死んだ。何もかもを奪い取られ、決定的に汚され、傷つけられた末に。正しいこと。 彼女の白い身体とその感触を思い出し、俺の中の本能が、僅かに反応しかける。嫌悪で臓腑をかき回され、嘔吐しそうになる。いっそ、何もかも吐き出してしまえればいいのに。この皮膚の下に詰まっているもの全て、吐瀉物のほうがいくらかましな程度のものだ。 顔を覆い、目を閉じる。やや薄まった薔薇の香りが、鼻腔をくすぐる。こんなことをして、何になると言うのだろう。彼女はもういない。どんな香りも、どんな祈りも、どんな謝罪も、届かない。届けることは、許されない。 決して。
※ ご、ごめんなさい…
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