その機関のこと ( No.5 ) |
- 日時: 2011/01/09 00:13
- 名前: 片桐 ID:PmGqbBL6
この冬初めて氷点下を記録したその夜、摩天楼煌く大都会の遥か上空に、一等星よりもさらに明るく輝く光源を見た。 東の空に動いていく光。海を越えて、山を越えて、国境を越えて、僕の手には届くはずもない光が流れていく。光がやがて千切れ雲に隠れたが、それでも僕はそこにあるはずの何かを眺めていた。いや、その実僕は、それほど詩的な感覚など持ち合わせていない。 飛行機が放つ光と分かっているのに、それでも何かを期待してしまう。僕は幼稚なためか、それとも――。 そんなことを考えていた。 そんなことをしている状況ではないというのは理解しているのだが、仕事にかかる前にはたまに夜空を見上げて頭をクリアにする。クリアにする必要があるのだ。僕は小さく咳き込みの真似などして、目的の女へ歩みを進ていく。
「止めたって無駄なんだからね!」 そう言う女を止めるのが僕の役目だ。都心にほど近いSビルの屋上に僕はいる。連絡が入ったのは午後八時半。今からちょうど二時間前だ。厚化粧というわけでもないだろうに、女の化粧は流しに流した涙のため、相当に乱れていた。垂れた洟をぬぐったためか、口紅さえ唇の形を作ってはいない。普段ストレートだったはずの髪はくしゃくしゃで、ワインレッドのコートにしわが寄っている。そしてみさげた足元は裸足。 「やめましょうよ、そんなこと」 飛び降りようとする人が――これから命を絶とうとする人が、どうしてその行為の前に靴を脱ごうと考えるのか僕はしらない。おそらくそれは行為でありながら、儀式の意味合いを強く持つとのだろうとは想像できるが、あるいは別の理由もあるのだろうか。 「そもそもあんた誰よ! わたしが自分の命をどうしようと勝手でしょ!」 至極最もな発言だと内心頷きつつも、道理にそうからといって、実際に顎を下げることはできない。 「通報がありましてね。このビルの屋上でおかしな態度を見せている人物がいるので、対処を頼まれました」 僕はなるべく端的に、かといって相手を追い詰めることなく言葉を選んで女に語った。 「あんた警察官?」 女の視線が冬の冷たい空気を切って頬を刺す。義務的に接せられていると感じたのだろう。 「いえ、警察ではありません。少し変わった業種で、あなたのような方を止めるのが仕事です」 くう、くう、と唸るような声を女は発した。よくない兆候だ。あきらかに心を乱している。 「どいつもこいつもわたしの気持ちなんか知らないで。わたしはそれはそれは不幸な女なんだから。これから話してあげるから笑いながら聞けばいいわ。ええとそうね、まず――」 「結構です」 「へ?」 逡巡して何から話し始めようかと考えていた女に投げかけられた僕の言葉がよほど意外だったのだろう。唖然としたようすで女は口をポカンとさせた。 「残念ながら、僕には時間がありません。いろんな意味で時間がない。まあ、それはともかく、用件だけ伝えます。今すぐそこから離れてください。飛び降りなんてやめてください」 「あんた何いってんのよ! 普通こういう時って話を聞くもんでしょうが。ああ、もういい、もういいわ。どいつもこいつもわたしを馬鹿にして、利用して、そして甘い汁だけ吸って捨てていくんだわ。そうよそうよ。たとえば、たかし、たかしはわたしの恋人だったんだけど、つい最近……」 僕は女が堰を切ったように話しだすのを静止すべく、実力行使に乗り出した。 「言いたいことはそれだけか!」 そういって、懐のホルスターから拳銃を抜き出し、女に向けて構えた。 「へえ?」 意味が分からないと思ったのか、僕がふざけていると思ったのかはしらない。唖然の極みといっただらけた口のあけ方をしている。 「動くと打つ! 両手を挙げて、ゆっくり前に出ろ!」 「ちょっと、何を……?」 女の発言を打ち破るように、僕は引き金を引いた。乾いた破裂音とともに、女の足元に銃痕が穿たれ、硝煙の匂いが立ち上った。 「分かったなら返事をしろ」 拳銃がホンモノと理解したのだろう、女は急に震えだし、さんざ流したはずの涙をまた流し始めた。 「もう、わかんない、何もかもわかんない。誰もわたしの気持ちをわかってくれない」 「あなたには僕の気持ちがわかるんですか? わからないでしょう。お互い様です」 「わたしがいってるのはそういうことじゃない!」 そう言って混乱にうろたえる女に僕はなお言い放つ。 「自殺しようとすれば打つ。死にたくなければ、動くな!」 「あんた、頭おかしいんじゃ……」 さらに威嚇射撃。 「もう、わかったわよ。あんたのいうとおりにしなさいよ。ヒーン」 ようやく言うことを聞き始めた女を警戒しつつ、僕は女に両手をあげさせ、さらに前にでるように促す。 「あれ?」 よろよろと歩みを進める女の腰が急に砕けた。 「緊張で腰が抜けちゃったみたい。ちょっと、手を貸してくれない?」 女がすがるように手を伸ばす。さすがにそういわれては手を貸さぬわけにはいくまい。僕は女がいるビルの淵のほうへ歩み寄った。女と僕の手が接したその時。 「道づれじゃー!」 女が僕の背後に素早く回りこむと、腰に手を回し、その勢いに乗って、ジャーマンスープレックスの体勢にはいった。 フェンスを突き破り僕と女は夜の闇を掻く。 マジで? なんて思った時には、身体は重力の法則に従っていた。 風切り音と、風圧を感じた時、僕と女は地面を真近にみていた。
「何よ、透明人間でもみたような顔して」 気づいた時には、僕はトランポリンの上にいた。 そういったのは、僕の上司にあたる、入水さん。入水というのはあだ名で、彼女の過去に関わって付けられた。 「ちょっと? 聞いてんの? 投身?」 投身、それは僕のあだ名。コードネームといっていい。これもまた僕の過去にまつわって付けられたものだ。 「今回で何度目だったっけ? 道連れに飛び降りられるの。あんた、つめがあまいんだから。もっとプロ意識持ちなさいよね」 「はあ」 救護班に運ばれていく先ほどの女を見送りながら、僕は思う。 僕もあなたとかつて同じ行為に出た。結果生き延び、その経歴を買われて、今の職に就いたんです。死にたいやつの気持ちは死んだやつが一番わかるなんて言われて、乗せられて。 僕の言葉が女に届くことはない。それでも、仕事の後には事情を説明したい気分にかられる。なるほど、僕はプロ意識に欠けるのだろう。 「さあ、いくぞ、投身。また飛び降りしそうなやつがいる。飛び降りはおまえの専門だからな。対処を頼む」 女を見送ってたたずんでいた僕の肩を叩き、割腹さんが声を掛けてきた。名前の理由はもう言わなくてもわかるだろう。 「次はうまくやってみせますよ」 そういって、僕は車に乗り込んだ。
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