やさしさがとけて ( No.5 ) |
- 日時: 2011/11/21 01:28
- 名前: ラトリー ID:eX2xt/56
「深雪さんって優しいね」 クラスメイトから、たまにそんな言葉をかけられる。 とんでもない。それは氷の優しさとでも呼ぶべきものだ。 暑い日、触れてみれば確かに心地よい。ほてった肌を優しく冷やしてくれる。でもそれは最初の数秒のことで、じきに不快な冷たさが皮膚の奥に忍びこんでくる。そうなったらもう触れてはいられない。手放さないと神経がしびれ、感覚がなくなり、やがては凍傷を負う。そうなってからでは遅いのだ。 だから私は優しさの雰囲気だけを身にまとう。もって生まれた容姿と、鏡の前で練習した表情、仕草、立ち居ふるまい。そこに適度な声の調子をかけ合わせれば、ほとんどの人は私のことを好意的に見てくれる。中にはひねくれてて、人を食った顔で口をとがらせながら悪態をつくようなヤツもいたけど、おおむねいい印象をもたれてきたのは確かだ。 誰もに優しく、しかし近づかず。床に落ちた鉛筆を拾って渡すことはあっても、その鉛筆を私から借りることはない。特別な好意はもらえないが、その代わり行きすぎた敵意もない。そんな毎日を繰り返しながら、きっと私は大人になっていく。母の教えに従い、父の犠牲を悲しみながら、一人前と呼ぶにふさわしい力を手に入れる。 そうなるものだと信じていた。信じたかった。 ――だけど。 「あああぁぁぁぁ……やっぱり泳ぎたいよう……」 深夜の学校。校舎わきのプール。 月と星がきらめく空の下、石畳の上で私は震えている。 寒いからではない。泳ぎたくて泳ぎたくて、うずうずしているのだ。 思いきって飛びこんでしまおうか。いや、駄目だ。そんなことをして無事でいられるわけがない。私はもちろん、翌朝になって訪れた学校関係者が卒倒してしまう。学校は大騒ぎとなり、私も今の生活を続けていられなくなる。 だめだ。泳いだらだめだ。泳ぐの禁止。飛びこむの禁止。本能のままに突っこむの禁止。本能を禁じるの禁止。泳がないの禁止。飛びこまないの禁止……ってあれ? いけない、思考がループしている。こんなんじゃせっかく校内に侵入した意味がない。何のために警報装置を凍らせた? 何がしたくて警備員室のドアを氷で閉ざした? すべてはこの時、この一瞬のため。もう後戻りなんてできない。ほら、飛びこめ! 水泳の授業も制服のままで、楽しそうに泳ぐクラスメイトに見せかけの笑みを浮かべてばかりいた。我慢ごっこみたいな時間はもうたくさんだ。だからこうやって、一度も着たことのないスクール水着を持ちだしてきたんじゃないか。気合は充分じゃないか。どうした、何を迷っている? さあ、さあ! 私は足を踏み出した。一歩、もう一歩とプールへ近づいていく。満々と水をたたえたプール、その水面が月と星のきらめきを浴びてゆらゆらと輝いている。耳にはかすかに、遠くを走る電車の音。塩素の匂い。足の裏を刺激するざらついた石畳。 「えいやあああああぁぁぁああぁ……あああぁぁあっぁあっ!?」 覚悟を決めて飛びこんだ。と思ったら誰かに背中を押された。姿勢がぐらつき、頭から着水。視界がゆがむ。派手に上がる水しぶきの音。ぬるい水の質感が、とたんに私の周囲で変わり始める。 「お前は水に触れてはならない。お前も水も、そのままではいられない」 ああ、やっぱりだめなのか。私の運命は変えられないのか。お母様、ごめんなさい。深雪は悪い子です。禁を犯しました。よくないことをしました。許してなんて言いません。でも泳ぎたかったんです。みんなみたいに、ゆらめく水の中で自由に動き回りたかったんです。満足に手も洗えないこの身で、せめて、せめて―― 「つまんないやつ。もっとさ、ほんとのこと言えばいいのに」 どうしてだろう。動かなくなる身体の奥、あいつの声が聞こえる。耳からじゃない。心の中、前に聞いた声だ。口をとがらせながら、たった一人、私に突っかかってきた男子。なんでこんな時にあいつの声が聞こえるの……? ばしゃん、と水の跳ねる音。気がつけば、私は水面から顔を出していた。両腕を力強い手に抱えられ、水中で直立したみたいな姿勢になっていた。 「お前、意外と大胆なことするじゃん」 目の前にはあいつの顔があった。いつもみたいに口をとがらせて、人を食ったような顔で私を見つめている。そんな表情が、普段よりも優しげに見える。 「……ていうか、なんであんたがいるのよ」 「お前とおんなじこと考えてた」 「マジで?」 「てのは嘘。夜の散歩してたんだ。昼間は暑くてかなわないからな。そしたらプールに忍び込みたそうなお前が見えたから、つけてきた」 「……ストーカー」 「なんとでも言えよ。命の恩人に言う台詞じゃねえけどな」 「はあ?」 びしょぬれになった服を着たまま、あいつ……というかこいつは私の腕を引いて泳ぎ始める。まるで不器用ながらに私を楽しませようとするかのように。 「ま、俺も一人じゃ水がフットーしてろくに泳げなかったし、いいバランスかもな」 「なに言ってるのよ。わけがわかんない。あんたいったい何なの?」 あえて強く訊いた私の声に、こいつは何でもない調子で答える。 「お前が雪女だろ? で、俺が火男なわけ。ほら、いいバランスじゃん」
その後、私たちのランデヴーは五分と経たずに終わった。水に落ちた時、私がやたらと大きな悲鳴を上げたため、仮眠をとっていた警備員が起き出したらしい。ドアを凍りつかせたのも逆効果だったみたいで、かえって異常事態だと思われたみたいだ。 「またさ、今度はどっかの湖で一緒に泳ごうや」 翌日、教室でこいつ……というか火村が話しかけてきた時、ふいに思い出した。そういえば、こいつも水泳の授業では見学組だったんだっけ。 「まあ、気が向いたらね」 その頃には、私もまんざらでもない気持ちになっていた。あわてて水着のままで逃げ出した私に、プールサイドに放置したままだった服を渡してくれたところは評価できる。そういう気づかいのほうが、氷の優しさなんかよりずっといい。 ――お母様。私、もしかしたら変われるかもしれません。
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