交信する中指 ( No.4 ) |
- 日時: 2013/12/07 23:55
- 名前: かたぎり ID:atKaeYS2
エレベーターが五階に着くと、息子の隆弘は毎度勢いよく飛び出す。隆弘曰く、おじいちゃんに会えるのがうれしいのだそうだ。私の父は、もう二年以上もH病院に入院している。毎週水曜日になると、私は隆弘を連れて見舞いに訪れるのが習慣になっていた。母は十年前に亡くなり、他の兄弟はほとんど見舞いに来ない。ただ住まいが病院と近いという理由だけで、私たちに見舞いが押し付けられている。そう、押し付けられているのだ。 隆弘は、下履きをスリッパに履き替えると、エレベーター正面にある看護師詰所にパタパタと足音を立てて近づき、近藤です、いつもお世話になります、と慣れた口調で云い、五階の隅にある病室へと駆けて行った。走っては駄目だと毎度注意はするのだが、隆弘は一体何が楽しいのか、笑みさえ浮かべて父の病室へ急ぐ。 隆弘に遅れて私も病室のドア開いた。 そこにはやはり父がいた。大がかりな医療機器に繋がれた父。歩くことはもちろん、しゃべることも、排泄することも、息をすることさえ一人ではできないわが父。そう、私の父は交通事故で脳に重症を負い、今は脳死状態でいる。 『楽にしてあげようよ』 そう云ったのは誰だったろう。私の兄か、義理の妹か。いや、口にはしないだけで、家族や親せきの誰もがそう思っている。回復の見込みはないと、医者からさんざ云われ、残った決断はいつ生命維持装置を外すかということだけだ。私が許せないのは、その決断を、暗に私に委ねているということ。おまえが一番面倒を見ているんだから、最期をいつにするかはおまえが決めたら良い、などと云われた。そんな薄情なことをよく云えたものだと怒り狂うように云うと、自分たちはもう心の準備ができているとあっけなく返された。 「ママ、おじいちゃん今日は嬉しい、って」 私の逡巡に、隆弘の声が割って入った。見れば、父の左手に頬を当てている。 「何がうれしいって?」 今となっては隆弘の優しさがかえって辛くなる。数週間前から、隆弘は時々、父の言葉を代弁するようなもの言いをする。当然私を気づかっているのだろう。この病室に来るたびに、そして父の哀れな姿を見るたびに、私はさぞ悲壮な顔をしているに違いない。そんな私の気持ちを和らげようと、おじいちゃんがこんなことをいっているよ、と話しかけてくるのだ。 「水曜日は、ママと僕が来てくれるから嬉しいんだって。この前義信おじさんも来たけど、面倒くさそうにしているばかりだったって」 「あら? 隆弘、先週おじさんが病院に来たことどうして知っているの?」 「え? 知らない」 「だって、今そういったでしょう?」 「おじいちゃんがいった」 いや、そんなはずはない。どこかで私の電話を盗み聞きしていたのだろう。いやまて、私が兄が見舞いに来たと知ったのは、先日の昼、隆弘が幼稚園に行っている間のことではなかったろうか。では、なぜ。 「ねえ、たかちゃん、おじいちゃんは、他に何かいっている?」 腑に落ちないままに、私は聞いてみた。隆弘はいったん首をひねるが、父の左手に自らの頬を押し当てると、眼を瞑って集中するようなしぐさを見せた。 「庭のマリーゴールドは枯れていないか心配だって」 おもむろに告げられた隆弘の言葉に私は絶句した。 確かに父の家の庭には、マリーゴールドが植えられていた。定年を過ぎて家庭菜園に凝りだした父が、色合いがはっきりしていて良いと気に入っている花だと聞いたことがある。しかし、そんなことを隆弘は知っているはずはないのだ。隆弘はまだ満足に字も読めないし、マリーゴールドなどという花の名を私からも一度たりとも話したことはない。 「どうしてそんなお花の名前を知っているの?」 私は問う。 「おじいちゃんがいってるんだって。ねえ、ママ、マリーゴールドって何?」 混乱してしまった私は、突然知りもしないはずのことを口にするようになった息子をじっと見つめる。ベッドに横たわる父の左側に立ち、左手の、その中指あたりを頬にペタリとつけている息子。その中指が、一瞬、ほんの一瞬動いたように見えた。 「ねえ、たかちゃん、おじいちゃんの指が動いているの? それを感じるの?」 「よくわからない。でもね、こうしてると、おじいちゃんの声が聞こえる気がするの」 「ママにもできるかな」 「やってみれば?」 私は息をのんでわが父の元へ歩み寄り、隆弘がするように、父の左側で腰をかがめ、最早意識の通わないはずの父の左手、その中指あたりに頬を当てた。 どれほどそうしていただろう。どれほど神経をとがらせただろう。しかし私には、父の指の動きを読み取ることはできず、ただ細い指の冷たさばかりが感じられた。 「ねえ、父さん、私よ、みどりよ。わかる? 父さん。わかりますか?」 私はボロボロと涙を流しながら、何度も語りかけた。本当は分かっている。すべては偶然に違いないのだ。奇跡など起きるはずもない。しかし、ろくな会話もできないままに脳死状態となった父と、ほんの一瞬でも言葉を交わせるなら、それがなんであれすがってみたい。 どれだけそうしていたのか分からない。傍らにいる隆弘が心配そうに私の足に抱き着いてこなければ、そのままずっと茫然自失としていただろう。隆弘は、声を殺して泣いていた。 「ごめんね、たかちゃん。ママには上手く聞こえないみたい。たかちゃん、もう一度さっきみたいに、おじいちゃんの言葉を教えてくれない?」 隆弘は、こくりと頷き、父の左手の中指に頬を当てた。 「おじいちゃんはなんて?」 「えっとね、もう十分だよ。これまでありがとう、だって」 「ねえ、それってどういうこと?」 私の問いかけに隆弘は答えない。頬を当ててはいるが、首をひねるばかりで、もう何も聞こえないというふうに、「わかんない」とだけこぼした。
父の葬儀が行われたのは、それから十日後のことだった。
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色々粗いけど、とりあえずこの状態で。 おじいさんが昔通信技師をしていた、とか伏線でいれられたら良かった…。 後半も、もうちょっとドラマティックにしたかったなあ。 でも、今はこれが精一杯でした。
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