Re: ひとかたしょうせつ ( No.4 ) |
- 日時: 2012/06/03 23:50
- 名前: HAL ID:X.gfcKmA
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
まあまあ、お人形さんのようね。そういわれるのは、彼女にとって、ほとんど日常茶飯事のようなものだった。それが、顔立ちの整ったかわいらしい少女に対する慣用句だということを、彼女は長じるまで知らなかった。いつでも言葉通りの意味として、彼女はその賛辞を受け取っていたし、もしかすると、それを誇らしく思ってさえいたかもしれない。 まさしく彼女は人形のようだった。いつでもうっすらと微笑んで、じっと黙っている、人形のように愛らしい少女。手を引く母親のあとに従って歩き、座っているようにと命じられれば次の命令があるまで、何時間でも身じろぎせずに座っている。呼吸もするなといわれたら、そのようにしたかもしれない。 それが彼女にとって日常であったし、身を守るための手段でもあったのだ。指示に従わなければ、叱責される。何かを要求すれば、うるさいといわれる。不機嫌な顔をしていれば、何が不満なのと怒られ、声を出して泣けば、癇癪とともに平手が飛んでくる。 けれど人形のようにしてさえいれば、彼女の必要なものはきちんと与えられたし、彼女の母親は、とても優しかった。彼女をいつでもよく褒めて、頭を撫でて、可愛がった。ちょうど人形に対してそうするように。 家のなかではほとんど、彼女は口を利かなかった。母親に何かを訊ねられれば、きちんと返事をしたけれど、そもそも彼女の母親が、彼女に何かを訊ねるということが、めったにないことだった。外でも、彼女の母親とともに出掛ける範囲の世界では、それで問題がなかった。訊かれたことには答えるのだし、訊かれても意味がわからなければ、愛らしく小首を傾げれば、それでことたりた。大人しいお嬢さんね。そういわれると、どうも人見知りで、と母親は返す。おかげで人見知りという言葉の意味を、彼女は長らく誤解していた。 彼女の母親は、どうやら親類と縁を切っていたらしいというのは、彼女が成人してからようやく知ったことで、子どもの頃の彼女は、そうしたことを、とくに疑問に思ったりもしなかった。そうした、よその家の子にはお父さんがいて、おじいちゃんとおばあちゃんが二人ずついるらしいけれど、どうして自分はそうではないのだろうというようなことは。いわれたこと以上の何かを考えるのは、彼女にとって苦痛をもたらすばかりであると、彼女は人生の初期の段階で明確に学習していた。 やがて小学校に上がるまでは、それで大きな問題もなかった。少なくとも、表面上は。けれど学校でたくさんの子どもたちに囲まれて、人から何を聞かれても言葉少なに返し、自分からはけして会話に加わろうとしなければ、誰かに話しかけようともせず、始業前にも、授業中も、昼休みにも、放課後になっても、ひとりでしずかに微笑んでいる彼女に対する、言葉にならない違和感を、周囲の子どもたちはすぐに嗅ぎつけた。口がきけないわけでもないのに、話をしない少女。話しかけられれば肯き、首を振り、いっしょに遊びの輪に入るのに、いわれたことだけを淡々とするばかりで、何かをうまくできても嬉しそうな顔をせず、誰かに怒られても静かに微笑んでいる。それなあに、だとか、いっしょに遊んでもいい、だとか、これちょっとだけ貸して、だとか、そうしたことをひとつも口にしない、人形のような少女。 なにかおかしなものが自分たちの中に混じっているという違和感に、子どもはひどく敏感なものだ。徐々に、少女に話しかける子どもの数は減っていき、彼女はひとり、いつまでも、微笑んで椅子に座っているようになった。やがて、何かがおかしいということに気付いた彼女の担任が、家庭訪問を決意するまでに、それほど長い時間はかからなかった。 何かうちの子に、問題があったでしょうか。そう心配そうに教師に訊ねる母親のそばに、人形のように座って微笑んだまま、少女は神経を張り詰めさせていた。何が問題視されているのか、自分が何を失敗してしまったのか、彼女には知りようもなかったけれど、彼女の母親が発している怒りを、対面して座っている担任の教師にはまるで感じ取れないらしいその匂いを、少女は敏感に嗅ぎつけていた。 いいえ、問題というのではないんですよ。ただちょっと、そうですね、人見知りなんでしょうか、あまりほかの子たちとおしゃべりするのが好きじゃないみたいで。おうちではどんなふうですか。 頭の上でかわされるやりとりに、少女はじっと耳をすませた。そして何がいけなかったのか、必死で学習しようとした。一時間あまりの面談を終えて教師が去っても、母親にしかられる前に、先回りして謝って、明日からはうまくやるというようなことをいったりは、彼女はしなかった。何も言われないうちから口を開くということは、そもそも彼女の選択肢にはなかった。 どうしてちゃんとやれないの。彼女の母親が怒鳴ったとき、彼女は言葉を失った。訊かれたことに答えなければ、叱られる。けれどどう答えていいのかわからない。なにが「ちゃんとやる」ということなのか、そのときの彼女にはわからなかったし、どうしてと理由を聞かれても、もっとわからなかった。彼女はただ、家の中でそうするように振る舞っていただけだった。けれどそれでは足りないのだということを、学校という場所、子どもたちの中では、それにふさわしい、求められる振る舞い方があるのだということを、彼女は新しい青あざとともに、体に刻んだ。そして、次の日からは、そのようにした。 ほかの子どもたちの動向を観察して、それらしい、普通の子どもの平均的な反応というものを彼女が学習するまでには、それほど長い時間はかからなかった。心配した教師が家を訪問するようなことはなくなって、彼女はゆっくりと周囲に溶け込んでいった。可笑しくなくても笑い、悲しくなくても顔をゆがめ、小鳥が死んでいれば可哀相という顔をする。学習するということについて、それから、求められるように振る舞うということについて、少女は長けていた。その必要に、誰よりも切実に駆られていたからだった。 誰からも嫌われないようにするということ、その困難さに、彼女は早い時点で気付いていたけれど、誰からも暴力を振るわれなくて済む程度に、強い関心を持たれないということならば、注意を払ってさえいれば、達成することができた。彼女が成人して、それなりに無難な就職を果たすと、なおそれは容易になった。子どものころに比べれば、周囲にいる人間たちも、敏感に彼女の言動に対する違和感を察知するようなことも少なくなったし、求められる役割をさりげなく果たす彼女は、仕事の上でもそれなりに重宝された。大きな問題は起こらなかった。彼女が結婚するまでは。 なにがいけなかったのだろう。彼女は途方に暮れる。夫が割った食器の破片を拾い集め、まき散らされた食べ残しを拭きながら、彼女はずっと、静かに考えていた。無意識に彼女がさする二の腕には、ほんの幼い子どものころによくそうだったように、青あざがいくつも重なっている。 彼女は夫の言動のひとつひとつを思い返して、彼女の何が夫を怒らせたのか、どのように振る舞えば夫を苛立たせなくてすむのか、必死に探しだそうとしていた。彼女の夫は、彼女が無言で息をひそめていれば、辛気臭いといって怒り、彼女が口を開けば、中身のない言葉ばかりだといって、うんざりと顔をゆがめた。彼女が泣いて懇願すれば、お前は何もわかっていないといって苛立ち、彼女が黙って耐えれば、なにを考えているかわからないといって詰った。 結婚したのは、夫に強く望まれてのことだった。出会ったばかりの頃、顔を合わせるたびに彼はたじろいだように眼をそらし、それから緊張したように彼女に話しかけてきた。最初のデートに誘われるまでに、実に一年あまりの月日を要し、それから手もめったに繋がない交際が一年も続いて、結婚の申し込みがあるころには、出会ってから四年近くが経っていた。それだというのに、結婚生活に不協和音が生じるまでに、ひと月もかからなかったというのは、皮肉としかいいようがない。 なにがいけなかったのだろう。 彼女は考える。自分のとった行動、選んだ表情、声の調子、そのときの夫の反応、ひとつひとつを思い出しながら、ずっと、考えている。どのように振る舞えばよかったのかを。 掃除の手を止めて、飾り棚に置かれた人形を、彼女は手に取る。結婚祝いにと、知人から贈られたものだ。彼と彼女との共通の知り合いの女性。きれいに着飾って微笑を浮かべる、愛らしい人形。お幸せにという言葉と、しずかな微笑みとともに贈られた、人形。 どうしてあのひとは、お祝いに、これを選んだのだろう。 それは、彼女が抱く疑問のなかでは、珍しい種類のものだった。何を思って、相手が、それをしたのかというようなことは。 たとえば、その人形を渡した知人の微笑が、まるで強引に顔に張り付けられたように、かすかにこわばっていたことや、お幸せに、という語尾がわずかに震えたことなどは、彼女がよく観察するところではあった。しかし、そういうことをした相手の、心の流れを想像するということは、彼女が不得手とするところだった。 だから、その言葉が降ってきたのは、彼女が答えを導き出したというよりは、なにか天啓のような、不思議な力が働いたものとしか、彼女には思われなかった。 ――皮肉なのだ。 人形のような彼女への、あてこすりとして、彼女によく似た人形を、あの女は選んだのだ。 しかし、だからといって、なんだというのだろう? 彼女は自分が振り上げた手を、驚いたように見た。その、こわばって関節の白くなった指が、陶製の人形を、力一杯に振り下ろすのを。壁紙にぶつかって、人形は、澄んだ音を立てた。破片が飛び散り、彼女の夫が割った食器のかけらと混じった。寝室で、酔いつぶれて深く眠っていたはずの夫が、驚いて電気をつける音が、彼女の耳に届いた。 破片のひとつを、彼女は拾い上げた。人形の、微笑の浮かぶ、口元をふくんだ、左半面だった。 その尖った割れ口は、彼女の指を傷つけて、そこからわずかに、赤い血が滲みでた。それを、不思議なもののように眺めて、彼女はゆっくりと、瞬きをした。 彼女は破片を拾って、両手で握りしめた。鈍い痛みが走って、手のひらに、いくつもの筋が出来た。そのようにしているあいだ、彼女はずっと、混乱していた。自分の体がなぜ自分の意思を無視したように、勝手に動いているのか、彼女にはわからなかった。わからなかった。
---------------------------------------- 制限時間大幅オーバーしたあげく、うまくオチませんでした……無念!
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