あの夏の、空の色 ( No.4 ) |
- 日時: 2012/01/08 23:28
- 名前: HAL ID:/cC8CM7A
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
手が滑って、トレイを取り落とした。 プラスチックが床にぶつかって立てる、騒々しい音。誰かが小さく悲鳴を上げた。 ごめん。誰にともなく小声でいって、食器を拾うためにかがみこむと、背中のほう、どこか離れたところで笑い声がした。見ろよ、あのザマ。 気にするな。自分に向かって、胸のうちでつぶやく。何をいわれても聞き流せ…… 食べ終わったあとの食器だったのが、せめてもの幸いだった。それでもいくらか床に飛び散ってしまった食べものの滓を、ポケットに入っていたハンカチで拭った。その手が、無様に震える。 ちっともいうことをきかない、この手……。 ひきつれた火傷のあと。白くひきつれた、みにくい傷。あの日から、始終つきまとう忌々しい痺れ。 視界にとつぜん、影が射す。目を瞬くと、誰かの靴が、目の前にあった。顔を上げると、ソウマがそこに立っていた。 照明がちょうど逆光になっていて、その表情はよく見えない。けれどいつものように、眉間にきつく皺を寄せているのだろう。 ソウマがかがみこんで、椀を拾った。同じ高さに降りてきたその表情は、想像したとおりの仏頂面だった。 同情というわけか……。腹の底からこみ上げてきたその考えは、焼付くように熱く、驚くほど苦かった。 ソウマは乱暴な手つきで、椀を突き出してきた。受け取った僕の手は、まだ震えていた。 早く行けよ。いってから、自分の声に滲む屈辱の熱に喉を焼かれた。その苦さは、僕の顔に出ていたのだろう。ソウマは目を細めて、吐き捨てた。 「無様なもんだな」
無様。
その言葉はガンガンと頭の中で鳴り響いて、くりかえし反響した。 あまりに腹が立つと、声も出ないらしい。目の前がぼうっと白んで、自分の拍動が耳の奥で谺した。無様なものだな。ああ、まったく無様なものだ。その声は途中から、ソウマの声だか、自分の声だか、わからなくなった。わからないまま、白く霞む視界の中を、ぐるぐると回った。
百年に一度の逸材。芸術の神様に愛された少年。この美大に入ったときの、僕にまとわりついてきた言葉たち。そうした賞賛やおべっかを、鬱陶しいと思いこそすれ、誇ってなどいないつもりだった。絵のために僕がどれほど努力を払ってきたかも知らず、才能の一言でなにもかもを括ってしまう周囲の無責任さを、むしろ、憎んでいるつもりだった。自分では。 けれどぼくは、知らないうちに、それに拠りかかっていたのだろう。誰より自分の才を信じ、それに縋っていたのだろう。そのことを自覚したのは、皮肉にも、この手が二度ともとのようには動かないだろうと医者に宣告された、その日の夜のことだった……。
そうだ、あの日にもこいつは病院にいた。たまたま僕がこの火傷をおったその瞬間に、近くにいて状況を見ていたという、それだけの理由で。目の前のソウマの、しかめつらを見ているうちに、いま自分がどこに立っているのか、わからなくなった。ここは学生食堂なのか、それともあの日の病室なのか…… ヤスオミ・ソウマ。入学したときには、ぱっとしないやつだった。ルックスや実績のことではない、努力の形跡をうかがわせこそすれ、平凡な、とても平凡な絵を描くやつだと思った。心に訴えかけてくるもののない、ただお行儀のいいばかりの…… そうだ。僕はソウマの才能のなさに、おそらく同情してさえいた。自分ではそのことを、意識すまいとしていたけれど。 けれどいつからか、ソウマの描くものは変わった。こいつの身に――あるいは心に? ――何があったのかは知らない。知りたくもない。けれどいつの間にか、ソウマの描くものは、退屈ではなくなっていた。題材としてはありがちで、奇抜なところはない、けれどたしかに見るものの心をそっと揺さぶる、そういうものに。 その変化に僕がうすうす気づきかけたのと、ほとんど同じ時期だった。僕は手に火傷を負い、お気の毒ですがと口では言ってみせる主治医の、能面のような無表情を見た。僕の手は二度と元通りには動かず、以前のような線は引けない、二度と。 ソウマの絵は、一枚仕上げるごとに、少しずつ、けれど確実に、豊かになってゆく。線が活きている。ほかの皆も、そのことに気づき始めている。ソウマの周りには人が増えた。将来有望な、才能ある青年。それはやや遅い開花だったかもしれないけれど、遅すぎるということはない。
そこにいるはずだったのは、僕じゃないのか。 自分がそんなことを考えることそのものが、どうしようもなくみじめでしかたがなかった。だから僕は、ソウマを避けた。彼の絵もなるべく目に入れないようにした。ソウマの絵だけじゃない。美しいもの、優れた絵、その何もかもを。けして自分が二度と得られないものを。 僕の周りからは、ひとり、またひとりと、人が減っていった。それをソウマのせいにはすまい。自分の絵のことしか考えていなかった僕は、長いこと、他人との関わりにみずから労力を割こうとしてこなかった。自業自得だ。まったくもって……
ソウマは僕を見下ろしている。軽蔑の表情をもって。 ああそうだ。傲慢の報いだというのだろう。わかっているから、僕のことはほうっておいてくれ。
あの日からずっと、僕は大学の片隅で、目立たないように、ひたすら小さくなってすごした。他人の会話には耳をふさいで、誰とも目を合わせないように。はじめは同情めいたことをいって、慰めまがいのことを口にしていたほかの学生たちもいた。けれどその目の奥に、小気味いいというような色あいを見出したのは、はたして僕の心の問題だけだっただろうか? 講義もすべて、右から左に聞き流した。過去の偉人のことも、その作品のことも、この手でできもしない高度な技法のことも、もうどうだってよかった。感動とともに絵を眺めることなど、二度とできないだろうと思った。リハビリという名目で、このろくに動かない右手が引く、幼児の書いたようなつたない線ばかりを、ただただ見つめて。 少しずつその線は、ましになってきてはいた。幼児のような線から、小学生のような線にはなったかもしれない。けれど希望など抱けようもない。どれほど恢復したところで、けして元通りになることはないのだ……
「行けったら」 吐き捨てるようにソウマにむかっていってから、その声のあまりの無様さを、自己弁護するかのように、僕は付け足した。「忙しいんだろう、展覧会はじきなんだ」 何を言っても、何を見ても、もう、惨めになるだけだった。僕は立ち上がり、トレイを抱えなおした。ふらつく足で、ソウマに背中を向けると、苛立った声が追いかけてきた。 「お前は何もわかってない」
僕は立ち止まった。わかってない? 僕が何をわかってないって? 「自分の立場なら、いやほどわかってるさ」 いいかえす声が震えた。 「お前がそんな手になっても、辞めずにここに残ったのは、何のためだ? 「もう描けもしないのに、いつまでも目障りだっていいたいのか? 視界に入らないところに消えちまえって?」 周囲の学生が遠巻きに注目している、その視線を感じていたけれど、荒くなる声をセーブすることが、どうしてもできなかった。 受け流せ。自分に言い聞かせ続けてきたその呪文も、もう効力切れのようだった。それでも胸の隅のほう、どこか遠いところから、自分が必死に自分をなだめようとしていた。よけいな騒ぎを起こすな。このうえ恥を上塗りしたいのか。 「お前は、本当に何もわかってない」 ソウマは同じことを繰り返した。自分の顔が屈辱で真っ赤になっているのがわかった。 「たいした上から目線だな。お前に何がわかってるっていうんだ」 振り返りながら、そう叫んだ。けれど視界に飛び込んできたソウマの表情は、思っていたのと、少し違った。眉間にきつく皺が寄って、苛立たしげにしている。けれどそれは、侮蔑というよりは…… こいつは何を悔しがっているんだろう? その疑問は、ほんのわずかにではあるけれど、僕の頭を冷やした。 「お前の絵の中にあったのは、線の美しさだけだったのか?」 ソウマのいっていることの、意味がわからなかった。 繊細さと躍動感。動物や人間を描けば、いまにも動きだすようだと誰からもいわれた。絵の中から、いままさに飛び立とうとしている鳥の、羽毛に覆われた下の筋肉の質感まで、僕は自在に画布の上に載せることができた。全面の笑みを浮かべる少女の、頬の産毛が金色に陽射しを透かすのまで、残さず描けた。笑い声がいまにも聞こえてきそうだと……。 この役立たずの手さえ! ソウマは周囲の注目など、気にもしないようだった。滲む苛立ちを、隠そうともせず、声を荒げた。 「俺はお前の描いた、夏の絵が好きだった」 僕は訝しく、眉根を寄せた。こいつはなんのことをいっているんだ? 「通学路の絵だ。道端に向日葵が咲いて、遠景で高校生が走ってる」 とっさに思い出せないくらい、その絵はとっくに記憶の彼方にあった。 それはなんということのない絵だった。なにかの賞を狙ったわけでもなく、ただ習作の一枚として描いて、そのままどこかに突っ込んで……あの絵はいま、どこにあるのだろう? 何かのついでに処分してしまっているかもしれない。それくらい、たくさん描いてきた絵の中の一枚で、なんということのないものだった。僕にとっては。 「あの空の色が目に入った瞬間、俺は子どもの頃にすごした夏のことを、いっぺんに思い出した。それまでほとんど忘れていた、引っ越す前の家の……」 いいかけて、ソウマは舌打ちした。「そんな話をしたいんじゃない」 ソウマは苛立たしげにためいきをつくと、はじめて僕から視線を逸らした。「元のような線は、もう描けないかもしれない。けどな、お前が持っていたのは、本当にそれだけだったか?」
お前はいつまで、そうして閉じこもっている気だ?
背中を向けて歩き出しながら、ソウマはそんなようなことを、小さく呟いた。その声を、悲しそうだと思ったのは、僕の心の問題だけだっただろうか?
ソウマが立ち去って、その姿が見えなくなったあとも、僕は呆然として、その場に立ち竦んでいた。周りの学生たちが、気にしながらも、講義の時間にあわせて立ち去っていくのも、ほとんど見えていなかった。 気がつくと学生食堂には、ほとんど人がいなかった。食器を洗う音だけが、やけに耳についた。 気がついたら、テーブルを殴っていた。何度も、何度も。けれどこの手では力が入らず、自分の耳にもその音は、ひどく情けなく、弱々しく響いた。 好き勝手なことばかり、いいやがって。 唇からこぼれた声は、やはりみっともなく掠れるばかりで。続ければ続けるほど、悔しさは増すばかりで。 あのときの絵の空の色なんて、覚えていなかった。 勝手なことばかり……。
テーブルを殴った拳が、熱をもって、じんじんと痺れていた。その痺れが、元からのものなのか、拳を痛めつけたことによるものなのか、僕にはもうわからなかった。
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