グッ、グッ! ( No.4 ) |
- 日時: 2011/08/16 01:00
- 名前: スピード卿 ID:oXc2HoUc
男の腕に奇妙なできものが出来たので、母親は軟膏を塗れと貝殻に入った緑色のクリームを息子にくれてやった。男は寝れば直るだろうと、中指で掬った軟膏を引き伸ばし、できものの上でぐるぐるに渦を描いた。できものはなんだか表面がパリパリしていて、それでいて中はしっとりとしていて、男は軟膏を塗っている間、レコードの上に針を落とすことばかり考えていた。 男がその夜見た夢は、音楽が鳴り響く前のあのこすっからい音だ。
翌日目覚めるとできものはより一層大きくなっていた。 昨日男の指紋が撫でた通りの渦が描かれていて、ますます男はレコードのことばかりを考えるようになった。肘よりやや先端に近いほう、腕を振るとき丁度すれ違う人に見えやすい位置に出来たばっかりに、できものはやたらめったら弄られた。 「なんだかスイッチのように見えるな」 「ダーツの的のようでもある」 「目玉じゃないかな」 概ね、丸くあればどれもそのように見えるものばかりだったので男はそれを気にしなかった。(昼食時、ゆで過ぎたマカロニをフォークで突付いていると、隣の席の人間がホワイトソースのついたフォークで腕を突付いてきたのには閉口した)
痒みを感じるわけでもないが、気がついたら男の指はできものを撫でていた。溝を掘るように爪先で掻き、砂の城を固めるように指の腹で圧し、消しゴムのような親指で擦った。 母親は大きくなったできものを見て、軟膏を塗れ、と昨日のものよりずっとねばねばした薬をよこした。乳白色のべとつきをなすりつけるとなるほどこれで治るのか、と奇妙な納得があった。 ラジオスターが『グッモーニンベトナム!』と叫びだす頃、母親は悲鳴を挙げた。 男のできものが呻いているのだ。出来損ないのスクラッチのように、グッ、グッと呻いている。それは母親がまだ幼かった頃、突如として襲い掛かった厄介事を思い出す声だった。暗がりに連れ込まれた彼女は、丁度こんな感じで押し殺した声で悪事を耐えたのだ。 男は取り乱す母親と、呻くできものを見て、憶えていない自分の赤ん坊の頃を思い出す。 かつて自分も、泣き出す前にはこのようにしゃくりあげていたのだろう。 できものはパックリと亀裂が走っていて、中から悪質な汁がこぼれていた。 亀裂はゆるやかに曲がっている。ごちそうを前に涎をたらすトゥーンのようだった。しかしその片端が、奇妙にねじくれているせいで、シニカルな笑顔に見えるのだ。 気持ち悪い、と一言吐き捨てた母親は竈にナイフを突っ込んで、十分に暖めたそれでできものを切り跳ねた。
ハムを投げつけるような音とともに、できものは窓ガラスにへばりついた。男は刃の熱さや痛みよりも、傷口から流れ出る黄ばんだ液体の正体が気になる。血や汗のように生きている証の様な気もするし、同様に膿のように死への誘いのようにすら感じるのだ。幸い血も出ず、液体も滴り終わると止まったので、包帯を巻いてそのまま働きへ出た。
その日、男が仕事を終えてベッドに寝転がると、窓に貼り付いたできものは消えていた。「どこへやったんだい」と母に尋ねると、知るもんですかと怒鳴り声が返ってきた。 「何せあんたと私は肌の色だって違うんですからね」 彼女の手の中で、酒で洗われたナイフが果物を刻んでいる。 男はもうそれ以上聞くのをやめた。窓ガラスにはうっすらとできものが貼り付いた形に曇っている。
その向こうには縁取られた満月が浮かんでいた。
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