「バイオリン弾きのゴフシェの奇跡」/紅月セイルさん「孤高のバイオリニスト」に宛てて ( No.32 ) |
- 日時: 2011/01/27 00:30
- 名前: お ID:FLZBBpnU
調子に乗って3本目。
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バイオリン弾きのゴフシェの奇跡
バイオリン弾きのゴフシェは、屋根裏に住んでいた。別に好きこのんで暗くて埃っぽい屋根裏に住んでいるわけではなく、バイオリン弾きのゴフシェは、金を持っていなかった。知人夫婦に無理を言って、わずかな家賃で住まわせて貰っているのだ。その家賃すら滞ることがあって、そろそろ大家の夫妻には渋い顔をされている。潮時かも知れなかったが、次どうするかなど思い当たることはなかった。 バイオリン弾きのゴフシェは、ある日、広場で歌を聴く。それは美しい声だった。技術もなにもあったものではなかったが、思い詰めるほどの願いが込められていた。それは、歌という祈りだった。心を奪われていた。知らず、涙を浮かべていた。その歌は、女性の歌う歌ではなかった。男の、戦役に赴く男が、家族や友人、そして最愛の恋人との別れを惜しみながら旅立っていく歌だった。バイオリン弾きのゴフシェは、歌が聞こえなくなり、まばらな拍手の音も聞こえなくなってからも、しばらくその場に茫然と立ち尽くしていた。歩き出す気力が湧かなかった。打ちのめされていた。 バイオリン弾きのゴフシェは、屋根裏部屋に帰ってからも、ずっと、広場で聞いた歌のことを思っていた。そして、一つのことに思い当たった。そして、笑った。大いに笑った。涙の涌き出るほどに笑った。 バイオリン弾きのゴフシェは、その日、早くから広場にいて、女の歌い出すのを聞いていた。歌い始めてしばらくもしないうちに、女が涙に声を詰まらせる。今日は、広場にも人がまばらで、女の歌を聞く者はあまりなかった。バイオリン弾きのゴフシェは、女にハンカチを差し出した。一瞬怪訝そうな表情をした女は、バイオリン弾きのゴフシェの笑顔を見て、ハンカチを受け取り涙を拭った。 「恋人を待っているのですか」 女はこくりと頷いた。 「僕に、お手伝いさせて貰えませんか」 と言って、ケースからバイオリンを取り出す。 「あなたの思いを見せ物にしようって言うんじゃないんです。でも、より多くの人の興味を引き、多くの人に聞いて貰い、多くの人の口の端に登れば、思い人に届く可能性が高まるんじゃないかと思うんです。そのお手伝いをさせて貰えませんか」 誰でも知っている短い曲を、きゅきゅ、と弾いてみる。音色は楽器から溢れ、零れ落ち、ほんの少しだけ女の心を落ち着かせた。 「これでも、ずっと以前には王宮で弾いたこともあるんですよ。たった一度だけですけどね」 冗談めかせて言うと、女は小さく微笑んだ。 「一度でも、凄いことですね」 一度。そう、たった一度。一度だけ。 「そうですか、そうでもないですよ。師匠について行っただけですから」 バイオリン弾きのゴフシェは、自慢の楽器を鳴らす。曲を弾き始める。女が音色に合わせて歌い始める。二人の奏でる歌は人々の心を惹き付け捉え、いつもより、ほんの少し多くの人々が集まり、ほんの少し大きな拍手が起こった。 「明日も、ご一緒していいですか」 「こちらこそよろしくお願いします。」 女は、モリーと名乗った。 バイオリン弾きのゴフシェは、ここ数日そうしているように、夜、酒場に行って、飲めない酒をちびりちびりやりながら、広場で歌う女のことを、少しばかり大げさに、知っていることも知らないことも、同情を引くようにとつとつと話した。この習慣は、その後も続く。 一ト月も経たないうちに、広場で歌う女とバイオリン弾きの噂は王国中に広まる。各地から来る商人たちや、旅人たちが、二人の歌を聞いた感動とそれにまつわる噂話とを、旅先や故郷に持ち帰って広めていたから。 バイオリン弾きのゴフシェは、ある日、旧知の男の訪問を受ける。同じ師匠に付いた男で、宮廷楽団でバイオリンを弾いている。その男の言うのには、とある貴族が二人の演奏を聴いてみたいと持ちかけられたのだという。一応、モリーの意志を確認する旨を伝えるが、その気であることは相手にも伝わっただろう。 バイオリン弾きのゴフシェは、モリーを説き伏せ、侯爵家での晩餐会への出席を実現させる。二人で演奏を始めてから、ちょうど、一ヶ月が経っていた。侯爵家の晩餐会には他国の貴族も集まる。人捜しに不利になることはない。そこでの歌は、多くの貴族を魅了した。素朴なままの姿で歌う美しい女、純粋で美しい声、素朴な歌、技巧的でありながらそれを感じさせず優しく響くバイオリン。 バイオリン弾きのゴフシェは、満足していた。想像以上の成り行きに満足していた。あれから、何回か貴族の屋敷で演奏した。モリーはいやがったが、なんとか説き伏せた。もちろん広場での歌も続けた。噂はどんどん広がる。それこそ、都市から都市、港から港を渡って世界中へ。 バイオリン弾きのゴフシェは危惧をしていた。そろそろ、時期かも知れない。急がなければならない。でなければ、すべてがご破算になる。バイオリン弾きのゴフシェの元には、いくつかの情報がもたらされていた。その中には、信憑性の高そうなものも含まれていた。すなわち、モリーの恋人の所在についての情報だった。急がなければならない。急がなければ……。 バイオリン弾きのゴフシェは、旧知の男と密会する。そして、一つの約束を取り付ける。 * ある月の皓々と晴れやかな夜。ゴブシェの元をモリーが訪れた。手紙が来たと言う。恋人からの手紙で、怪我を負って動けずにいたが、ようやく快復の見込みが出てきたので、少し無理をしてでも逢いに帰ると。船に乗り込む算段も付いていると書かれていた。その日から換算すれば、この街に彼が着く日はおおよそ知りうる。それほど遠い街ではなかった。手紙の到着も通常より遅れていることもない。バイオリン弾きのゴブシェは祈るような気持ちでいた。 数日後、再びモリーが訪れる。彼がもう近くの街に着ている。三日後、この街に着くという。三日後は、王宮で演奏することになっている日だ。モリーは、どうにかして断れないかという。そんなことができるわけがないとゴブシェが言う。相手は王様なんだよ。いくらなんでも断ったらどんな目にあうか分からない。なんとか、一日だけ延ばせないかな。 「ゴブシェ、なんだか変わってしまった」 「僕が変わったかどうかは知らないけども、はっきり分かることがある。一庶民が王様の機嫌を損ねたらどうなるかってことだよ。いくらなんでも、僕は牢屋に入れられるのは厭だよ」 「じゃあ、あたしたちと一緒に行きましょう。三人でこの国を出て、彼のいた国で暮らすの」 「本気で言ってるの」 「本気よ、ねぇ、そうしましょう」 「考えさせてくれ」 * バイオリン弾きのゴフシェは、煩悶していた。なんとなく、こうなるんじゃないかと予感していた。結局、巧くはいかないのだ。なにをやっても、巧くいかない。何ごとも巧くこなせる自身はある。それは今でも緩がない。でも、巧くいかない。どんなに巧く立ち回っても、結果、どうしても思い通りにならない。最後に破綻する。モリーを説得することはできたはずだった。晩餐会は夜なのだ。モリーが恋人と落ち合って、三人で王宮へ行けばいい。そうすれば、王様も、他の列席者も大喜びで、三人は歓待されるだろう。お祝い気分で、ゴブシェも、望み通り宮廷楽団にバイオリニストとして迎えられるかも知れない。その可能性は、むしろ飛躍的に高まるだろう。でも、それを言い出せなかった。なぜか。それも、もう、分かっていた。ゴフシェの中にある思いが芽生えていたからだ。 バイオリン弾きのゴフシェは、モリーに手紙を出した。晩餐会には僕一人で行く。君は恋人と二人きりで過ごせばいい。お幸せに。 バイオリン弾きのゴフシェは、たったひとり王様の前に立っていた。失望と怒りの鋭い視線が注がれる。 「今宵、私が一人で参上いたしましたのは、皆様のおかげをもちまして、モリーが、念願であった恋人との再会を今日、果たしたからであります」 王宮の広間がどよめく。拍手が沸き起こった。 「ならば、その恋人共々この場へ連れてくるがよい。朕が自ら祝ってしんぜよう」 「恐れながら王様に申し上げます。若い二人のことでございます、どうぞ、今宵は二人にさせてやって貰えませんでしょうか」 「なるほど、そなたの言うも一理だな」 やや不満そうではあったが、隣に座る后に突かれて王様がしぶしぶゴフシェの言い分を認める。 「では折角来たのだ、そなたの演奏を聴かせてみよ。聞けばボールゲルテの弟子だというではないか。ならば、腕は確かなのだろう」 バイオリン弾きのゴフシェは、恭しく丁寧に愛着を持って師匠譲りのバイオリンを取り出し、そして、それを、王様の目の前で、叩き割った。 「何をする」 王宮が色めき立つ。 「本日奇跡が起こりました。モリーの恋人は、ブラント国のフォンバリス家に滞在していた折りいたく気に入られたそうで、婿養子との誘いもあったそうです。一度は、彼も命を救われた恩義に背くことができず、その話に応じる決意をしたそうです。しかし、彼を待つモリーの歌の話しを聞いて、居ても立ってもいられなくなって、フォンバリス家のご当主に申し出たそうです。ご当主も、その申し出をお許しになり、そればかりか、二人ともフォンバリス家に迎えたいとまで仰ったということです。これを奇跡と言わずしてなんといいましょうか」 王宮は静まっている。 「私はその奇跡に便乗した卑しい貧者です。私のような者がその奇跡を汚すようなことは許されません。それに、私の音楽は彼女あってのもの。私の音楽はとっくに死んでいたのです。それを彼女に出会って、仮初めの生命を得たにすぎません。それもこれも、彼女のための奇跡なのです。私のためではありません。ですから私は、自らの手で、私の音楽を殺すのです。元の通りに。私は充分に奇跡を助けた報酬を受けました。彼女と共に演奏できた日々が私にとって最高の報酬でした」 バイオリン弾きのゴフシェは、その日以来、街から姿を消した。 バイオリン弾きのゴフシェのことを耳にすることはなくなり、バイオリン弾きのゴフシェを見かけることもなくなった。 ただ、たった一組のカップル、その築いた家族から彼の話題が絶えることはなかった。
†------------------------------† ずっと引っかかってて思い出せずにいた。思い出した。宮沢賢治だった。
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