インストール ( No.3 ) |
- 日時: 2011/01/09 15:39
- 名前: HAL ID:TEf5ff2.
- 参照: http://dabunnsouko.web.fc2.com/
『ウォルフ、ちょっと体温が上がっているようだけれど、気分はどう?』 話しかけられて、視線を上げた。視界の中に焼き付けられたインターフェイス、その端に丸いウィンドウが立ち上がって、エルマの、ちょっと心配そうな『顔』が映る。 栗色の、ちょっとくせのあるきれいな髪は、今日は下ろされて、肩を流れている。エルマの目の覚めるようなブルーの瞳が、不安げに瞬きをした。 「え、そうかい? 自分じゃわからないけど。調子はいいよ」 『そう。わかっていると思うけれど、気分が悪くなったら、すぐにコールしてね』 「OK、ありがとう」 滑らかで耳に心地いい、エルマのヴォイス。ちょっと聞きには、合成された声だとはわからないのは、単に言葉の接続が滑らかになったからではなくて、その声がこまやかな感情のゆれまで再現できるようになったからだ。 ほんの十年ばかり前のコンピュータには、こんな芸当はできなかった。いや、中央にあるような最新鋭の人工知能には、できたのかもしれないけれど。少なくとも、エルマのように感情たっぷりに喋るAIを、そのへんの宇宙船なんかの制御脳に見かけることは、まずなかった。 『唇がちょっと、荒れてるわね。ビタミンたっぷりのスペシャルドリンクを用意しておくから、好き嫌いせずに飲むのよ』 思わず唇をなでて、笑った。二十代の女の子ならともかく、むさくるしい中年男の唇が荒れていたからって、なんだっていうんだ。けれど、素直に頷きを返す。ビタミン不足で壊血病にかかった昔の船乗りの話、小さな頃に古典文学で読んだそのイメージが、頭のどこか奥のほうに、くっきりと焼き付けられている。つい最近読んだばかりの、補助脳にデータを丸写ししたはずの本でも、そうと意識しなければ内容を思いだせないのに、十代くらいまでに読んだ児童書やなんかは、驚くほどはっきりと印象に残って、なにかの拍子に何度も思い出す。人間の脳というのは、不思議なものだ。 『それじゃあ、またあとでね』 にっこりと微笑むエルマの声は、うっとりするほど美しい。日替わりで変わるエルマの髪形やファッションといい、この美声といい、この機種を作ったやつは、存分に趣味に走ったに違いない。 悪魔の声は甘い、といったのは誰だったか。そんな考えが、頭の片隅をよぎって、自分の考えに苦笑する。彼らがなにを考えているかなんて、人間のちっぽけな脳で推し量ることは難しい。AIが本気で人類に反乱を企てたら、人間社会はひとたまりもない。それがわかっているから、そんなことは起きないとわかっていても、心のどこかに不安が残る。人類に課せられたジレンマ。どんな厳格な倫理規定にも、どんな堅牢なプロテクトにも、抜け穴はどこかにあるのではないか。その不安を人類が払拭することは、多分、永遠にできない。 廊下を歩いて、食堂に向かううちに、インフォメーション・ボールが視界に現れた。 目の前にふわふわと浮かぶ、色あざやかな球体は、そこに実在しているわけではない。ほんとうにあるようにしか見えないけれど、あくまで視界のインターフェイスの上に再現された、CGだ。その表面を、奇妙な模様が流れていく。乗員はそれを、視線で追うだけでいい。それだけで自動的に、頭蓋の中にインプラントされた補助脳へ、最新のニュースがインストールされる。耳で聞いても目で読んでもいない情報が、いつの間にか頭の中に書き込まれているという、この感覚に慣れるまでに、どれくらいかかっただろうか? 食堂に向かうと、ドアが開いて、テーブルに食事がせり出してきた。エルマがいうスペシャルジュースの、なんとも形容しがたい緑色が視界に飛び込んでくて、思わず眉を顰める。 ひとりきりの昼食。二人乗りの船で、相棒と交代で起きているから、朝晩はともかく、昼はかならずひとりになる。それが不満というわけではない。寂しければ、エルマに話し相手をしてもらえばいい。 「エルマ、到着予定時刻に変わりはないかい」 ふと思い立って、エルマをコールする。いつものウィンドウが立ち上がってから、彼女の笑顔がそこに浮かび上がるまでに、ほんの小さなタイムラグがあった。 「エルマ?」 名前を読んだときには、もうエルマは所定の位置で、いつものように笑っている。――いつものように? その表情、目の色が、いつもとほんの少し、どこか違っているような気がしたのは、錯覚だろうか。 『さっき、デブリ群を避けたときに、ちょっと軌道を修正したから、ほんの少し、ずれるかもしれないわ。それ以外はいまのところ、順調よ。最初の予定どおり、標準暦で十二月十日、時間はずれるかもしれないけれど、少なくとも午前中には到着するわ』 順調、のところで、ほんのわずかに、いつもの甘い声が、ざらついた気がした。 「エルマ? きみの調子は大丈夫かい」 『あら。これじゃ話があべこべね。あなたに心配されるなんて』 エルマは可笑しそうに笑って、口元を上品に押さえた。そんなささいな指の動きまで、ひどく滑らかで、自然に作られている。 『でも、宇宙旅行に油断は禁物だものね。自己診断してみるわ』 「そうしてくれ」 いって、食事を続ける。舌が飽きないように、機内食の味付けまで、毎日微妙に変えてくれる。長期の宇宙旅行がぐっと楽になったのは、こういう細かい部分を制御するプログラムが、普及してきたおかげだ。貨物船乗りにはこのうえなくありがたい進歩。 『――大丈夫、なにも問題ないわ。でも、次の宙港で、念のため、いちどメンテナンスを受けましょう。大事をとるにこしたことはないものね』 宙港、のところがまたざらつく。けれどそのノイズは本当に一瞬で、近くを通りかかった隕石か、宇宙線の影響かというくらいだった。口の中の食料を咀嚼しながら、視界の中のインターフェイスを起こして、レーダーを呼び出す。また一瞬のタイムラグ。 違和感を覚えながら、遅れて開いた画面を覗く。けれど近くに、強い電磁波や宇宙線を発しそうな天体はひとつもなかった。 「エルマ?」 『なあに?』 遅れて立ち上がるウィンドウ。さっきと変わらないエルマの微笑。変わらない、はずの微笑。どこか、何かがわずかに違うような気がするのは、錯覚だろうか。 「……いや、君の反応がいつもと違うような気がしたんだ。本当になんともない?」 『ええ。少なくとも、自分でスキャニングしたかぎりでは、異常はみとめられないわよ。心配性ね、ウォルフ』 安心させるような、エルマの声。 「性格でね。なあ、エルマ。到着予定は、標準暦の十二月十日でよかったんだよな?」 『あら、十一日よ。途中で変更があったじゃない。忘れてしまったの? ウォルフ』 驚いて、自分の頭の中を探る。たしかにあった。飛行計画変更の記録。 言葉を失っていると、エルマが心配そうな声を出した。 『ねえ、ウォルフ。熱が上がってきているわ。今日は休んだほうがいいんじゃない? 向こう四十八時間はいまのところ、あなたたちの判断が必要になるような状況も起きそうにないし、なにかトラブルがあったら、かならずあなたたちを起こして相談するから』 ぐずる子どもをなだめるように、エルマはいう。その心配げな瞳の上に、一瞬、小さなノイズが走ったような気がした。
---------------------------------------- 「悪魔」「あざやかな球体」「ざらつく」
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