水の音を聞く ( No.3 ) |
- 日時: 2014/04/20 00:06
- 名前: 片桐 ID:TpQ4WxX2
目の前にいる男性が、顔を真っ赤にして、早口に何かを言いたてている。おそらくは、僕に何かの落ち度があり、それを非難しているのだろう。一大決心で九州の一人旅を決めて、ようやく熊本に降りたってみればこれだ。 熊本中央ターミナルから南阿蘇に向かうバス停での一幕だった。四月というのに、人は多く、大きな旅行バッグを抱えた人が行きかっている。僕が男性に絡まれていることには気づいているだろうが、誰ひとりとして、僕に手を貸してくれる人はいそうにない。 僕は、意を決し、口を開く。 すいません、もう少しゆっくり話してくれませんか? そう、言ったつもりだ。だけど、男性は今もなお怒り、さらに早口で捲し立てる。読唇術は追いつかず、僕は仕方なしに、懐に入れた紙を取り出した。 ――私は耳が聞こえません。唇の動きを読むために、ゆっくり話してください。 それは、僕がなんらかのトラブルやハプニングに見舞われた際、相手に自分の障害を理解してもらうために準備していたものだった。 僕が紙を出した途端、男性は黙り込んだ。僕という人間の事情を察すると、途端に黙り込む。そして、最後に何か――たぶん、もういい――といい残し、片手をぶらぶらと振って、バスの方へと向かって行った。 いつものことと言えば、いつものことだ。事情を知った上で僕を非難してしまえば、自分が悪人にでもなった気分になってしまうらしい。 心にいい知れぬ気分が襲いかかる。何度も味わい、それでもなお慣れることのない気分。それでも、そんな自分に打ち勝つために、僕は今回の旅を決めたのだ。 一六歳の春、不登校に陥った僕が、再び人と関わることを決意するための旅だった。 鹿児島から福岡まで、九州を縦断する。今回の旅で僕は、それ以外のことを、あえて何も決めていない。鹿児島には長く離れて住んでいる祖母がいるから、初日はそこに泊まらせてもらった。そして今日、僕はひとりで熊本の南阿蘇を目指すことになった。 なんとか切符を買い、ようやくバスに乗り込みはしたが、僕の心が休まることはない。僕にはバスの車内アナウンスが聞こえず、たえず経路図と、電光掲示板を見ていなければ、目的地を見失ってしまう。僕は今の時点でかなり疲れていたが、それでも頬を叩いて気合いを入れ直し、目指すバス停までバスが到着するのを、ひたすら待っていた。 オレンジ色の灯りが灯るトンネルを幾つか抜けた先に、南阿蘇はあった。夕刻で、しかも、小雨が降っている。雄大な阿蘇山が見渡せると思っていたが、それは明日以降に持ち越しになってしまった。しかたなく、僕は、手にしたゲストハウスまでの地図を頼りに、歩き出す。たとえ、道がわからなくなっても、僕には電話という手段を使うことはできない。相手の言葉を聞き取れず、自分の言葉が通じているのかもわからないから。 単純な道のりだというのに、一本の脇道がどこにあるかわからず、二時間もかけて、僕はゲストハウスに辿りついた。門の前にゲストハウスと書かれているが、まるで個人の家のようでしかない。僕は、インターホンを鳴らした。出てきたのは、五歳くらいの男の子だ。こんにちは、と元気よく声をかけてくる。はっきりと口を動かしてくれたため、それが僕にもはっきりわかった。 続いて、ゲストハウスの主人らしき男性が顔を出した。 雨のなか大変だったでしょう? そんなことを、言っている。 事前に、僕の母親が連絡を入れておいてくれたから、彼らは、僕にわかりやすいように発語してくれるようだ。その心遣いが、長旅で疲れた僕には、ありがたかった。 ゲストハウスは、いってみれば簡易宿といったところで、大部屋のなかで十人ほどが眠る。僕は、旅立つ前、同じ宿に泊まる人たちと、どう打ち解けようかと考えていたが、それは杞憂に終わった。この日は、僕だけが宿泊客だったのだ。 僕は、荷物を下ろすと、広間に行き、そこで主人とその夫人が用意してくれた、家庭料理を食べた。宿の主人と軽い世間話でもしようと考えていたが、なんとなく声をかけるタイミングを失い、ひとり、寝室へ向かう。いつからか、こんなはずではなかった、という思いが胸のなかに去来していた。 携帯電話を取だし、ヤフーニュースだけを見て、かばんにしまい込む。 ――何が、もう一度、人と関わるための旅だ。結局いつもと何もかわないじゃないか。 疲労はたまっているはずというのに、なかなか寝入ることはできずに、天井を仰ぐ。すると、脳裏によみがえるのは、僕に怒っていた男性の真っ赤な顔だった。胸が苦しくなり、布団をかぶって、うわーと叫ぶ。本当に、何も変わりはしない。 だが、次の日僕は、そんな気分をすっかり忘れさせる光景に出合った。 早朝に見る、阿蘇の雄大な光景。五つの岳が合わさってできているというが、その圧倒的な存在感に、僕は息を飲む。これだけで、この光景を見られただけで、今回の旅に意味はあったのではないかとさえ思えるほどだった。 僕は、ゲストハウスの主人から借りた自転車で、阿蘇山を左に見ながら、地図を頼りに、近隣の名所巡りを始める。牧場や、民芸品店、大きなトンネル。案の定、誰かと会話することは少なかったが、それでも昨日の気分が嘘のように、僕の胸は高鳴っていた。 そして、僕は、白河水源へと到る。 清らかな水が湧きたつ水源には、幾つもの小さな池があって、その中を、細かな気泡がぷかぷかと浮かびあがっている。空気は澄んでいて、ひんやりしていて、それが自転車を漕ぎ続けた僕には、気持ちいい。 白川水源には、人もまばらにいるが、誰もがその心静まる空間で、落ちついた時を過ごしているようだった。 僕もまた、ひとつの池の前で腰をおろし、耳を澄ます。何も聞こえるはずはない。それでも、何かが聞こえてくる気がする。開いていた眼をゆっくりと閉じれば、この意識さえ自分のものではないと思えてくる。僕はいつしか、僕は清流と一体化し、水底に沈んでいた。湧き立つ水を全身に感じ、全身を水そのものにする。ずっとこうしていたい。そう心から思える。どれほどそうしていたかわからない。僕は、一度小池を離れ、近くにある喫茶店に立ち寄った。 四十くらいのおばさんが、ひとりきりで店を切り盛りしているらしい。 僕は、コーヒーを一杯頼むと、それをゆっくりと飲みながら、これまでの旅、これからの旅に思いを巡らせる。そんな中ふと視線を落すと、テーブルの上に灰皿があった。それが少し変わっている。茶色い土のようなものが入っているのだ。これは一体なんだろう。 近くには、おばさん店主がいた。今なら尋ねかけられる気がした。 「あの、この茶色いものはなんですか?」 伝わるだろうか。今になってなお心配する僕がいる。 「これは、コーヒー豆のだしがらなんですよ」 おばさん店主は、ゆっくりと発話して、僕に笑いかけた。 「そうですか。初めて見ました」 「タバコの臭いが消えるかもしれないって思って。素人考えだけどね」 すべては聞きとれないが、たぶん彼女はそう言った。 「そうですか。とてもおしゃれだと思います」 「あはは。ありがとう」 彼女が、なぜ僕の事情を察してくれたかは、すぐにわかった。彼女の家族に、僕と同じ障害を抱える人がいるのだそうだ。だから、僕にはゆっくりと話せば、きっと伝わると思ったということだった。僕は、その後も彼女とたくさんのことを話した。この白川水源のこと、南阿蘇のおすすめスポット、家族のこと、そして旅のこと。 「僕は、今回の旅で色んな人と関わりたいと思っているんです。その人たちが勧めてくれるところに行って、その先でまた誰かと話しをする。そんな繰り返しをしながら、福岡まで行きたいと思っています」 僕がそう言ったことを告げた気持ちでいると、彼女は一枚の地図を取り出した。 「ちょっと待ってね」 そう言って、地図を描きはじめる。 「ごめんなさい。下手で。でも、わたしがその第一号になれるなら、こんな嬉しいことはないわ。ここが、私のおすすめしたいところ。広い公園もあるし、阿蘇山も南の方から見渡せるの。お気に入りの場所なのよ。よければ行ってちょうだい」 僕はその手書きの地図を受け取ると、感謝を述べて、喫茶店をあとにした。 白川水源から帰る道すがら、再び水底から沸きたつ水泡を見る。それは、ゆらゆらと揺れて、水面に触れ、そして割れる。今の僕にはそれが、ひとつの音楽に思えた。
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