饒舌ピリア ( No.3 ) |
- 日時: 2012/01/08 23:23
- 名前: 片桐秀和 ID:me/KDOio
「だから、機嫌直してよ。……キミねー、そういって何度絶交させたかわかってる? 禁煙は簡単だ、私は今まで何度でもしてきたのだからって言い回しじゃああるまいし。……よく言うよ。僕が大人の鷹揚さというものを見せなかったら、キミはただクズって拗ねるばかりじゃないか。……ああ、そうさ。……別れるのは良いけれど、今晩帰るところがピリアにはあるわけ? ……で、どうするわけ? ……へえ、そんなお金があったのか。……なるほど。万年散財癖の塊であるキミが、困窮するうちの家計の中で、貯金していたわけだ。……あれほどの甘いものを買っておいてねー。……わかった、わかったって。僕が謝れば良いんだろ」 周囲の視線が痛い。冬の乾燥した冷たい空気とあいまって、それこそ矢印の先端がそこら中から突き刺さってくるようだ。つまりはあの人、おかしいんじゃない? ということなのだろう。 人のごった返す週末の大通りで、僕とピリアはケンカしていた。ささいな誤解――約束の時間をどちらが間違ったか、ということで、口論となっていたのだ。いや、口論と思っているのは、僕とピリアだけだろう。僕ら以外は、十中八九そのようにはとってくれない。僕というおかしな人間が、一人で、ただの一人で、騒いでいるように見えるだけなはずなおのだ。 まったく損な立場にいるよな。 そんな思いにかられる僕を察したのか、ピリアがキッと僕を睨み付け、そのままそそくさと歩きだしてしまった。一瞬手を伸ばしてみるが、彼女の亜麻色の髪にさえ指が絡むことはなかった。 僕はため息をついて、うなだれる。そして、なんとなく頭を上げると、僕を訝しむように見ていた人たちが、『一体何を騒いでいたんだ、このおかしなヤツは』と不思議がっている姿が見て取れた。 ――ああそうさ、おかしなヤツと思ってくれてかまわない。 僕は毎度のごとく、そう心の中でつぶやいて、さて、今回の絶交はいつまで続くのだろうかと、あらためてため息をつくのだった。
一人で帰り道を歩くのは、何度目になるだろう。そう思いながら、自宅のアパートまでの道のりを歩いていた。日が傾き、先行く人の影がやたらと長い。どこかから匂ってくる香辛料の匂いが空腹を刺激するものの、足が速めるというわけにもいかなかった。帰ったところで、寒いボロアパートに独りなのだ。そう、ピリアは当分帰っては来ないだろう。彼女を僕はいったいいつ探しに出るのだろうか。それはもしかしたら、ピリアがこの寒さが堪え、重い脚を絶交した相手のアパートに向けるのと同じ頃なのかもしれない。 僕はため息を吐いて、先ほどの『会話』を反芻してみた。
「だから、機嫌直してよ」 『やだね。シュンとはもう絶交だ』 「キミねー、そういって何度絶交させたつもりか分かってる? 禁煙は簡単だ、私は今まで何度でもしてきたって言い回しじゃああるまいし」 『シュンがそのたび許してほしいっていうからでしょ。そうじゃなかったらホントに絶交だったんだ』 「よく言うよ。僕が大人の鷹揚さというものを見せなかったら、キミはただクズって拗ねるばかりじゃないか」 『何よ、その言い方! まるでわたしが悪いみたいじゃない』 「ああ、そうさ」 『もういい。もう本当に絶交。じゃあね、さようなら』 「別れるのは良いけれど、今晩帰るところがピリアにはあるわけ?」 『そ、そんなのなんとでもなるよ』 「で、どうするわけ?」 『ちょ、貯金使う。それでホテルに泊まる』 「へえ、そんなお金があったのか」 『そ、そうだよ』 「なるほど。万年散財癖の塊であるキミが、困窮するうちの家計の中で、貯金していたわけだ」 『お小遣いを貯めて、……たんだ』 「あれほどの甘いものを買っておいてねー」 『もう良いでしょ! とにかく絶交なの。ここでお別れね』 「わかった、わかったって。僕が謝れば良いんだろ」 『違う、全然わかってない。私が何に怒ってるか考えてもくれてないんだ』
振り返って思うのは、何も成長しないピリアと、同じく変わらない僕の有り様だ。どこにもいる、若いカップル。他人と違うことと言えば、彼女は、ピリアは言葉を発さないということだけだ。 そう、ピリアは言葉を発さない。発せないのではなく、発さない。喋れないのではなく、喋らない。僕だけが、彼女のうちなる声を聞き、それに応じて会話をする。 そんな馬鹿なと言われても、それが僕らの日常なのだ。孤児院で会った僕らの長い習慣。他人に打ち上げたことはないけれど、決してひた隠しにしようとしているわけでもない奇妙な秘密。 きっかけはもう覚えていない。あるいは、それが重要なことなのだろうかと思うこともあるが、かといって幼いころの記憶をたどるには限界がある。今の僕に、僕とピリアの間にあるのは、ただ、普通に、そこらにいるカップルと同じように、僕らは暮らし、そして時にケンカをするということだけだ。
ボロアパートの電球が灯るまでのタイムラグにやたらと腹が立った。タバコに火を付け、ベランダの窓を開け放つ。街灯の影に、人影はない。そんなことに妙に腹が立って、腹が立つ自分にまた腹が立つ。 「まったく」 まったく、に続く言葉はないのだけど、そう言わざるをえない気分だった。その気分を助長するかのように、壁時計がやたらと耳障りな秒針の音を鳴らす。 絶交と言った以上、ピリアから声が届くことはないのだろう。僕らはどれだけ離れていても、彼女が僕に言葉を届けようとする限り、その思いが僕の中に響く。距離が離れればその響きは弱く、ぼんやりとしてしまうが、それは口にした声も一緒のことだ。 ソファに座り、雑誌を開いて閉じ、タバコに火をつけては、すぐに揉み消す。 ふと見れば、壁時計は、午後十時をしめしていた。 外はいよいよ冷え込んできたことだろう。そう思うと、いよいよ、いやな予感が脳裏に過る。危ないところに行ってはいないだろうか、変なやつに絡まれてはいないだろうか。仮に危険な目にあったとしても、彼女は決して声を上げることができない。 ふと、胸のうちに声なき声が響いた気がした。 それは、悲痛で、切実で、助けを求めるような声。 一瞬で、ピリアが泣いているイメージが僕の中に浮かび上がった。 気付けばコートを羽織り、玄関を飛び出していた。 「ピリア! ピリア! ピリア!」 世間の目など気にせず、叫ぶ。 僕が二階からの階段を駆け下りた時、その階段の隅に、小さく縮こまった影が震えていた。 「ピリア!」 彼女が、涙を眼に溜め込んで、ひざを抱え、うつむいている。 「馬鹿! 早くうちに入れよ。凍えちゃうだろ」 僕がそう声をかけても、彼女は僕に『返事』をしない。 僕らの間には、どう埋めたら良いのかわからない沈黙が横たわっていて、それ以上の何かを押さえこんでいるかのようだ。 そんな時、不意にミャーと、予想外の声が聞こえた。 「猫?」 僕は当たりを見回し、そしてそれが目の前の少女の胸元に抱きかかえられていることを知った。 「捨て猫かい?」 僕が尋ねると、ピリアはようやくコクリと頷いた。 そこで、先ほどのピリアの声なき叫びを思い出した。一度絶交すると、よほどのことがない限り、僕に『声』を送らないピリアが、悲痛な叫びを届けてきたこと。もしかしたら――。 「その猫、様子がおかしいのかい?」 ピリアは再びコクリと頷く。 『どんどん元気がなくなるの。死んじゃうのかもしれない』 彼女はそう僕に言いながら、頬に涙を垂らした。 「貸してみて」 僕は猫をピリアから渡されると、その姿をじっと観察した。あまりに、痩せ細っている。 「きっと、飢えと、寒さで弱っているんだ。大丈夫、あたたかくして、栄養のつくものを食べれば、きっと元気になるよ」 『本当?』 ピリアはすがるような視線を僕に向けた。 一瞬その潤んだ瞳に圧倒されそうになった僕は、おほん、と咳きばらいをするふりをして、「ともかく」と彼女にコートを羽織らせる。 「ともかく、人間も猫も、こんな寒いと、参っちゃうってことだよ」 ピリアは、男物のコートをギュッとつかんで、コクリ、と深く頷いた。
部屋に帰って、ミルクを飲む。ホットミルク。三人分、いや、二人と一匹分だ。 『ねえ、この子どうしよう』 その、『この子』は、人間よろしく、ホットミルクに舌を伸ばしている。猫舌という言葉があるが、この猫は特殊なのだろうか。なかなかに愛嬌のある姿だとも思えた。 「うーん、当分はうちで面倒みるよりないね。今放り出すのも忍びないしさ」 『本当?』 「ああ、その分、家計はますます厳しくなるよ。あと、大家さんにも話を付けておかないと」 『大丈夫。わたし、いろいろ我慢するから』 「ああ、それだと、助かるよ」 迷い込んだ一匹の猫のおかげか、いつの間にか日常を取り戻した僕らは、ケンカや絶交がどうというより、猫のこれからばかりを話し込む。そして、満腹した猫が眠り、僕らもトロンとし始めた。ピリアはベッドで眠り、僕はソファで眠りにつく。 寝入る前、『ありがとう、シュン』と聞こえたのは、ピリアの声なき声か、それともただお空耳か。はっきりしなくてもかわやしないさ、と僕は大きなあくびをした。今晩は良い夢が見れる、そんな気がした。
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