愛しき者よ ( No.3 ) |
- 日時: 2011/10/24 01:01
- 名前: ラトリー ID:.aE1RTpc
「でさー、うちの犬がさー」 ぶらり訪れた喫茶店で一人、本を読みながら休日の貴重な午後を優雅につぶしていると、後ろの席からうら若き女性とおぼしき声が聞こえてきた。 いわゆるカクテルパーティ効果というやつだ。このざわついた店内でも、自分が重要と感じた情報、興味のある話題などは意外とはっきり聞きとれるものである。「うちの犬が」どうしたというのだろう。わが家にも似たようなのがいるので、耳を傾けたくなる。 「なんか最近、おかしいんだよね。やたらとせまっくるしい場所に入りこみたがるの。この前だってさ、マガジンラックあるでしょ、これくらいの。あのすき間に顔をつっこんで入ろうとしてたんだから、ほんっとおかしいよねー」 窓際の席だったので、ガラスに映った姿から声の主を確認する。ほんのり髪を茶色に染めた、いかにも今時の二十代女性といった印象だ。紅茶にサンドイッチ、フルーツパフェ、かなりいろいろ注文している。話し相手のほうはよく見えない。このアイスコーヒーを飲み終えて勘定をすませたら、退店ついでに確かめてみるか。 「ううん、だからゆとりのあるやつじゃなくて、きつきつなの。幅十五センチくらい? それくらいのすき間に無理くり顔つっこんで、じたばたするもんだからおかしくってさ。あんまり笑えてくるもんだから、こっちに向けたままのお尻、思わずぺちんっ! てたたいちゃった。そしたらいい声でないたよ、わんわん言いながらね」 なんということだ。それでは虐待ではないか。言うことを聞かせたり駄目なふるまいをしつけたりするのに、みずからの手足で暴力をふるってはならない。私が常日頃から心がけていることを、この女はいとも簡単に破ってしまっている。嘆かわしい。 「でもさ、ふだんは優しくしてあげてるんだよ。食べるものは栄養たっぷりになるように気を配ってるし、いつも過ごしてる部屋は毎日きちんと掃除機かけてるし。着るものだって、毎日会社勤めでスーツばっかりだから選択肢は少ないけど、私服は横を歩かせて恥ずかしくないものをちゃんと選んであげてるんだから。小遣いが少ないのは、まあ仕方ないけど、それも給料が上がらないとどうにもならないしねー」 ストローからコーヒーの味がしなくなった。グラスを掲げてみても、氷しか見当たらない。そろそろ潮時だ。中に残った氷を口にほおりこんでガリガリかみ砕いた後、私は伝票をとってレジへと向かった。 「あ、何? あたしが今まで話してきたこと、全然信用してないでしょう? 犬がスーツ着るかって? 犬が会社勤めで安月給で小遣い少ないとかありえないって? ちーがーいーまーすー。うちの犬はちゃんと働いてるんですよーだ。そりゃ時々疲れておかしなことしたりするけど、とってもかわいいあたしだけのダーリンなんですよーだ。嘘だと思うんならほれ、このケータイ見てみなよ。ね、ちゃんときれいに映ってるでしょ」 横切った瞬間にそんなことを言うものだから、私に向けられた言葉かと思ってしまった。だが、女の顔にそれとなく目をやると、私のことを見ているわけではない。それどころか、店内にいる何者もとらえていないように感じられる。焦点があっていないのだ。話し相手がいるかとばかり思っていたのに、向かい側には誰も座っていなかった。 私がケータイをのぞきこんでも、目の前に人が立っているかどうかさえ理解できていないようだ。待ち受け画面には、地味な容姿の男性と映りこんだ女がノリノリでピースサインを決めている。パンダメイクでかなり化けてはいるが、間違いなく本人だろう。少なくともこの頃は、女も理性ある幸せでまともな人生を歩んでいたということか。 「あたしの犬ー、これがあたしの犬なんだってばー。ねえ、信じてよ。帰ったらちゃんといるんだって。家の中であたしのこと待ってくれてるんだって。マガジンラックもあの時のままなんだって。帰ってくるの待ってるんだって。あたしが。あたしだけが。あいつのほんとの飼い主なんだって。お願い、信じて、信じてよう」 いくら騒がしいとはいえ、この女の狂態に他の客が気づいていないはずがない。おそらく常連客で、店の人間も見て見ぬふりをしているのだろう。案の定、女を無視してレジまで歩いていったが、店員から声をかけられることもなかった。たくさん注文してくれるから、店側としても追い払いづらいところがあるのだろう。 やれやれ、私と同類かと思えばとんだ女にめぐりあってしまったものだ。これからは無駄な外出は極力避けるようにしよう。でないと、「彼女」が寂しがるだろうから。 私の可愛いフラミンゴ。地下の暗い部屋で両手を縛られ、片足だけで立ち、一糸まとわぬピンクの肌で常に私を誘惑する者。今、帰るからね。
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